愛のない白い結婚や契約結婚を疑っていた私が、完璧な夫と「本当の意味で」結ばれるまでのお話
流行の契約結婚やスカッとするざまぁも楽しく読むのですが、今回はふと「こういう話も読みたいな」という自分の欲求に正直になりました。少しでも楽しんでいただければ幸いです。
「ようし! お世継ぎ作るぞ!」
爽やかすぎる笑顔と、高らかに響き渡る声。
昨日、私の夫になったばかりの人は、寝室の扉を勢いよく開けるなり、そんなことを高らかに宣言した。
◇
私、イヴ・ラズワルドはしがない子爵家の三女。
そんな私がこの国でも指折りの大公爵家、アダマン・ナイトレイ様に嫁ぐことになったのは、よくある政略結婚というやつだ。
我が家の領地が隣国との緩衝地帯として、そして希少な鉱石が採れる場所として、にわかに重要度を増したかららしい。
父も兄も、降って湧いたような縁談に泡を吹いてひっくり返っていた。もちろん私もだ。
だって、あのアダマン・ナイトレイ大公爵様といえば、社交界の女性たちの噂を常に独占しているような人なのだ。
神が愛した最高傑作。
歩く彫刻、喋る芸術品。
その微笑み一回で国が買える。
……とにかく、それくらいのとんでもない美貌の持ち主だと聞く。
そんな人と私が、結婚?
きっと何か裏があるに違いない。
実はとんでもない性癖の持ち主だとか、性格が破綻しているとか……。
そうじゃなきゃ、釣り合いが取れなさすぎる。
貴族の世界では、愛のない「契約結婚」や、「白い結婚」なんて話も珍しくはないと聞く。
私たちの結婚も、きっとそうなるのかもしれない。
でも、いい。
この縁談は、しがない子爵家である我が家にとってまたとない好機なのだ。
たとえ旦那様にどんな秘密があったとしても、私はラズワルド家の娘として、この役目を立派に務めあげてみせる!
そうして迎えた、初めての顔合わせの日。
私は戦々恐々としながら、応接室で彼を待っていた。
心臓は今にも口から飛び出しそうだし、手は緊張で氷のように冷たい。
そして、扉が開かれ、彼が姿を現した瞬間。
私は、息を呑む、というのを身をもって体験した。
本当に、呼吸が止まったのだ。
キラキラと光を反射する、短く刈られたサラサラのブロンド。
陽の光を浴びて輝いているのか、彼自身が発光しているのか、もうよく分からない。
小さな顔に、涼しげな切れ長の瞳。スッと通った鼻筋に、薄い唇。
完璧な配置としか言いようがない。
軍務にも就いていると聞いていたけれど、その体つきは着ている上質なシャツの上からでも分かるほど、しなやかに、そして適度に鍛え上げられていた。
眩しい。
眩しすぎて、直視できない。
顔を見ただけで、ぶわっと頬が熱くなるのが分かった。
心臓が痛いくらいに鳴り響く。
本当に私がこの人と結婚なんぞしてもいいんだろうか?
国の宝を私物化するようなものではないだろうか?
全国の女性から石を投げられたりしないだろうか?
「はじめまして、イヴ嬢。アダマン・ナイトレイです。この度は急な話を受けてくださり、心から感謝します」
やばい。声までいい。
低すぎず、高すぎず、耳に心地よく響くテノール。
差し出された手は大きくて、男の人の手だった。
私が恐る恐るその手に自分の手を重ねると、彼は優しく壊れ物を扱うようにそっと握ってくれる。
しかも、会話をしても、めちゃくちゃ楽しいのだ。
私の拙い話を、彼は楽しそうに相槌を打ちながら聞いてくれる。
絶妙なタイミングで質問を挟んで話を広げてくれる。
私が緊張で言葉に詰まると、「ゆっくりで構わないよ」と穏やかに微笑んでくれる。
その気遣いが、また心臓に悪い。
打てば響くような会話の応酬に、時折見せるユーモア。
(やばい。やばいやばいやばい)
私の頭の中は、それしか考えられなくなっていた。
(政略結婚でとんでもない大当たりを引いてしまったのでは? これ、もしかして、私、一生分の運を使い果たしたのでは?)
そんな私の混乱など露知らず、彼は顔合わせの最後にとんでもない爆弾を投下した。
「俺はイヴ嬢のことが大変気に入りました。彼女以外の女性と結婚する気はありません」
言い切った。
あまりの衝撃に、私は手に持っていたティーカップを落としそうになった。
私の両親もぽかんとしている。
そんな周囲を置き去りにして、彼は私に向き直ると、蕩けるように甘い笑顔で言ったのだ。
「イヴ。君と夫婦になれる日を心待ちにしている」
──その日から、私の毎日は夢見心地だった。
アダマン様は毎日のように手紙をくれたし、時間を見つけては会いに来てくれた。
二人で庭を散歩したり、街へお忍びで出かけたり。
知れば知るほど、彼が完璧なのは外見だけではないことが分かってくる。
誠実で、優しくて、聡明で、そして、私のことを本当に大切に想ってくれている。
私の頬は、彼のことを考えるだけで緩みっぱなしで、にやにやが止まらなかった。
侍女たちに「お嬢様、近頃ずっとご機嫌麗しゅうございますね」と生暖かい目で見守られるくらいには。
結婚までの話は、本当にトントン拍子に進んだ。
そして昨日、私たちはたくさんの人々に祝福されながら結婚式を挙げたのだ。
そう、そして、迎えた初夜。
もちろん、私も年頃の娘だ。覚悟してのぞんだ。
大好きな人と結ばれるのだ。ドキドキで死んでしまうのではないかと思うくらい、期待で胸がいっぱいだった。
侍女に手伝ってもらって、肌触りの良い薄手の寝間着に着替え、寝室で彼を待つ。
一時間経ち、二時間経ち……しかし、彼は一向に現れなかった。
(今日は、式でお疲れになったのだろうか……?)
あれだけ盛大な式だったのだ。
招待客への挨拶回りだけでも大変だったに違いない。
そう思うことにして、私は少しだけ寂しい気持ちを抱えながら、いつの間にか眠ってしまっていた。
そして、今に至る。
朝日が窓から差し込む、早朝。
寝ぼけ眼の私の前に、爽やかすぎる笑顔の夫が立っている。
「ようし! お世継ぎ作るぞ!」
……昨夜は来なかったのに? 朝から?
私の頭はまだ完全に覚醒していない。
「おはよう、イヴ。よく眠れたかい?」
「あ、はい……おはようございます、アダマン様」
「うん。それでだね、お世継ぎを授かるには、まず体力が資本だからね! 一緒に朝ごはんをたくさん食べよう!」
え? え?
体力を使うから、朝ごはんをたくさん……?
それってつまり、今日一日中、その、そういうことをするってこと!?
私の心臓は、早鐘のようにドクドクと鳴り始める。
顔に、カッと血が上るのが分かった。
「さあ、行こう! 料理長に、特別栄養満点のメニューを用意させておいたんだ!」
私は身支度をして、言われるがままに食堂へと向かう。
心臓はバクバクだし、頭は真っ白だし、もう何が何だか分からない。
食堂に着くと、アダマン様はすでに上座に着席していた。
周りに控えるメイドたちも、彼のあまりのかっこよさに、頬を赤らめたり、うっとりと蕩けた顔になったり、にやにやしたりしている。
うん、その気持ち、すごく分かる。
私の夫、最高にかっこいい。
しかし、私は気づいてしまった。
彼の服装が、なんだかおかしいことに。
いつもはビシッと隙のない上等な服を着こなしているのに、今日はまるで今から山にでも入るかのような、動きやすさを重視した軽装なのだ。
丈夫そうな革のブーツに、厚手のズボン。刺繍ひとつないシンプルな長袖のシャツ。
どうしてそんな格好を?
私の疑問が顔に出ていたのだろうか。彼はにこやかに説明してくれた。
「ああ、この服かい? 山歩きには、これが一番だからね」
「やま、あるき……?」
私の口から、間の抜けた声が漏れる。
すると彼は、信じられないことを、それはもうキラキラした笑顔で言い放った。
「じゃあ、お世継ぎのために、今から山に行ってコウノトリを捕まえに行くぞ!」
……え?
……え、どういうこと……???
私の思考は完全に停止した。
コウノトリを、捕まえに行く……?
「あの、アダマン様……? 今、なんとおっしゃいました……?」
「ん? だから、コウノトリを捕まえに行くんだよ」
私の問いに、彼はきょとんとした顔で、さも当然のように繰り返す。
その顔は一点の曇りもなく、純真そのものだ。
「赤ちゃんは、コウノトリが運んできてくれるだろう?」
「は、はあ……」
まあ、それは子供向けの童話とかでよく聞く話だ。
私も小さい頃はそう信じていた時期もあった、ような気がする。
でも、まさか、この国の誰もが憧れる完璧超人、アダマン・ナイトレイ大公爵の口から、その説が真実として語られるとは。
「でも、いつ運んできてくれるか分からないからね。だから、こちらから出向いて捕まえて、丁重におもてなしをして、『どうか私たちの元へ、なるべく早く赤ちゃんを運んできてください』って、お願いするんだ!」
得意げに、胸を張って彼は言う。
すごい。
すごい理論だ。斜め上すぎて一周回って感心してしまいそうになる。
混乱の渦中にいる私をよそに、朝食は和やかに進み、そして終わった。
アダマン様は「じゃあ、俺は準備をしてくるから、イヴも支度を頼むよ!」と、爽やかな笑顔を残して食堂を出て行ってしまった。
一人残された私は、侍女に促されるまま自室に戻る。
部屋では、この屋敷のメイド長であるマーサがすでに待ち構えていた。
「あの、マーサ、ちょっと聞きたいのだけど」
「はい、なんでございましょう」
「あの、コウノトリって……」
私が核心に触れようとした、その瞬間。
「ええ!旦那様と一緒に捕まえに行かれるのでございますってね!まあなんて素敵なのでしょう!」
マーサは、普段の落ち着き払った様子からは想像もつかないような早口で、私の言葉を遮った。
食い気味にもほどがある。
「しかし奥様山にそのようなドレスでは入れません。さあこちらにお着替えをご用意いたしましたので!」
そう言って彼女が指し示した先には、山歩きに適した丈夫そうな服一式が用意されていた。
準備が良すぎる。
ふと、マーサの顔を見上げると、その額は冷や汗でてかてかと光っていた。
にこやかに微笑んでいるけれど、その目はまったく笑っていない。
……この人、何かを知っている。
絶対に、何かを知っていて、隠している。
よし、決めた。
山から戻ったら、詳しく話を聞かせてもらおうじゃないか。
私は覚悟を決め、マーサに手伝われるがまま、山狩りスタイルへと着替えたのだった。
◇ ◇
屋敷の裏手から続く、なだらかな山道。
私たちは二人きりで、その道を歩いていた。
そして、私は認めざるを得なかった。
――このハイキングは、めちゃくちゃ楽しい。
「足元が悪いから、気をつけて」
道が険しくなると、アダマン様は当たり前のようにすっと私の手を取ってくれる。
そのエスコートは、舞踏会の時よりもずっと自然で、紳士的で、そして、心臓に悪い。
大きな手に包まれると、それだけで体温が上がるのが分かる。
「そういえば、イヴはどんな花が好きなんだい? 今度、温室に君の好きな花を植えようと思うんだ」
「まあ……! 私は、フリージアが好きですわ」
「フリージアか。いい香りだよね。色は何色がいい?」
道中、彼が途切れることなく話しかけてくれるので、退屈する暇なんてまったくない。
私の他愛もない話に、彼は心から楽しそうに耳を傾けてくれる。
その横顔を見ているだけで、胸の奥がぽかぽかと温かくなる。
ああ、楽しい。
楽しすぎて、死んでしまいそう。
コウノトリを捕まえるという謎すぎる名目さえなければ、これはもう最高の新婚初デートだ。
「少し疲れただろう? あそこで休憩しようか」
私がほんの少し息を切らしたのを見逃さず、彼は木陰の開けた場所を指さした。
気が利きすぎる。
私の夫、完璧すぎる。
二人で並んで岩に腰掛けると、彼は背負っていた鞄から水筒と、可愛らしい包みを取り出した。
「料理長が君のためにと焼いてくれたんだ。オレンジピールのクッキーだよ」
「わあ、美味しそう……!」
サクサクとしたクッキーは、甘さ控えめで、オレンジの爽やかな香りが口いっぱいに広がる。
隣で同じものを頬張るアダマン様は、なんだか少年みたいで、可愛らしくて。
――幸せだ。
政略結婚なのに、こんなに幸せでいいのだろうか。
でもそんなこと、もうどうでもよくなってしまうくらい、今この瞬間が宝物みたいにキラキラしていた。
そして、昼を少し過ぎた頃。
「イヴ、静かに。……いたぞ」
アダマン様の声が、ひそやかな囁きに変わる。
彼が見つめる先、少し離れた川辺に、確かに一羽の大きな鳥がいた。
長い脚に、大きなくちばし。純白の羽。
コウノトリだ。
次の瞬間、アダマン様の動きは、風のように速かった。
音もなく茂みを抜け、川の浅瀬を駆け、驚いて飛び立とうとしたコウノトリに、ふわりと大きな網を被せる。
すべてが一瞬の出来事だった。
鮮やかすぎる。
まるで熟練の狩人だ。
彼は、網の中でもがくコウノトリを器用になだめながら、こちらへ戻ってくる。
川の水を浴びて、ブロンドの髪はしっとりと濡れ、肌に張り付いている。
シャツもところどころ透けて、鍛えられた胸板のラインがあらわになっていた。
太陽の光を浴びて、水滴がきらきらと輝いている。
ワイルドだ……
心臓に、悪いほど、かっこいい……
私は、その神々しいまでの構図に、ただただ見惚れることしかできなかった。
「やったよ、イヴ! 捕まえられた!」
満面の笑みで、彼は私の前にコウノトリを差し出す。
いや、差し出されても困るのだけど。
結局、私たちは二人で、暴れるコウノトリに持参した魚をたくさんあげたり、「どうか私たち夫婦のもとへ、可愛らしい赤ちゃんを運んできてくださいませ」と、何度も頭を下げてお願いしたりする、謎の儀式を執り行った。
コウノトリは、たらふく魚を食べた後、さっさと飛び去って行った。
「いやあ、初日から捕まえられて本当に良かったよ! 幸先がいい!」
心底嬉しそうに言う彼に、私はもう力なく笑うことしかできなかった。
とりあえず、今日のミッションはこれで終わりらしい。
よかった……のか? これは。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
私は夕食を終え、自室に戻ると、すぐにメイド長のマーサを呼び出した。
コウノトリの一件、そして昼間の彼女のあの不自然な様子。
説明してもらわなければ、今夜は気になって眠れそうにない。
「失礼いたします、奥様。お呼びでございましょうか」
やってきたマーサは、いつも通りの完璧な所作で一礼する。
しかし、その顔には「お待ちしておりました」とでも言いたげな、妙な覚悟が滲んでいた。
「ええ、マーサ。少し、聞きたいことがあるの」
「はい、なんでございましょう」
「単刀直入に聞くわ。……旦那様のことよ。今日の、コウノトリの話……あれは、一体どういうことなのかしら?」
私がそう切り出すと、マーサはふぅっと、長いため息をついた。
それは諦めのため息のようでもあり、安堵のため息のようでもあった。
そして、堰を切ったように、彼女は語り始めたのだ。
「……旦那様は、お生まれになったその瞬間から、特別なお方でございました」
その語り口は、まるで伝説の英雄譚を語る吟遊詩人のようだった。
「生まれて一週間も経たない赤子でありながら、そのお顔立ちは『神が創りたもうた最高傑作』と誰もが崇め、聖画に描いて後世に残すべきだと本気で議論されたほどでございます」
うん、まあ、それは分かる。
今の姿から想像するに、さぞかし美しい赤子だったことだろう。
「五歳になられる頃には、その美しさはさらに磨きがかかり、一目見た大人たちが頬を赤らめ、言葉を失うほどの美少年に。同年代の女の子たちは、旦那様が近づいただけで、嬉しさのあまり卒倒する子が続出する有様でございました」
卒倒……。
なんだか、すごい話になってきた。
「そんな中で、旦那様への教育、特に……その、男女に関する教育は、困難を極めました」
マーサは、少しだけ言葉を濁す。
「家庭教師は男女を問わず皆一様にこう言うのでございます。『あのように神々しいアダマン様に性の話など!神を冒涜するような行い私にはとてもできません!』と。そして泣きながら辞職を願い出るのでございます」
えええ……。
「妊娠中の女性も旦那様のあまりの美しさを前にして母体に障りがあってはいけない、と。そういった理由で旦那様の周囲から遠ざかるのでございます」
もはや、歩くパワースポットか何かだ。
その結果、どうなったかというと。
「旦那様は男女の正しい関係について、誰からも教えられることなくお育ちになりました。今でも本気でコウノトリが赤ちゃんを運んでくると信じていらっしゃるのでございます」
ああ……。
謎がすべて解けた思いだ。
「奥様ほど旦那様と親しく長時間お話をすることができた女性は、今までほとんどいらっしゃらないのですよ」
「え?」
「年頃の女性は、旦那様を前にすると、緊張で言葉が出なくなったり、卒倒なさったり……。まともな会話になること自体が稀なのでございます。旦那様が奥様を大変お気に召されたのも、きっと、奥様が普通にお話をしてくださったから……それが、旦那様にとって、どれほど嬉しかったことか」
そう言われて、顔合わせの時のことを思い出す。
確かに私は心臓が飛び出そうなくらい緊張していたけれど、卒倒はしなかったし、会話もした。
それが、彼にとっては「特別」なことだったのか。
なんだか、少しだけ、胸がきゅっとする。
とはいえ、だ。
このまま男女関係を知らないのでは、肝心のお世継ぎという点で、非常に困る。
というか、絶対に無理だ。
「マーサ。それなら、あなたが旦那様に教えて差し上げてはくれないかしら?」
私がそう頼むと、マーサの顔から、すっと血の気が引いた。
「そ、それは……! それは、ご勘弁くださいませ!」
彼女は、ガタガタと震え始める。
「私めから旦那様にそのようなお話を申し上げるくらいなら! この場で自害するかこの屋敷からお暇をいただくか、どちらかを選ばせていただきます!」
本気だ。本気で言っている。
え、そんなに? そんなに嫌なことなの?
でも、結婚二日目の新妻である私から、夫に「実はですね、子供というのは……」なんて切り出すのは、どう考えてもハードルが高すぎる。
まるで、私がとんでもなく破廉恥な女みたいじゃないか。
困った。非常に困った。
でも、誰も伝えないのではもっと困るのだ。
ナイトレイ大公爵家がここで途絶えてしまう。
「……分かったわ。あなたに無理強いはしない。でも、このままではいけないのも事実よ。だから、誰か適任者を見つけてちょうだい。男性でもいいわ。とにかく、旦那様にちゃんと真実を伝えてくれる人を」
私の必死の訴えに、マーサは青い顔で、こくこくと頷いた。
そして、次の日の朝。
私が朝食のために部屋を出ようとすると、アダマン様が血相を変えて走ってくる。
「イヴ! 大変だ!」
「まあ、アダマン様。どうなさったのですか、そんなに慌てて」
彼は衝撃の事実を告げるかのように、真剣な眼差しで私を見つめた。
「ごめん! 俺、間違っていた! やっぱり、コウノトリにお願いするだけじゃ、俺と君の子供を連れて来てはくれないらしい!」
おお……!
その言葉に、私は胸をなでおろした。
よかった。マーサ、ちゃんと適任者を見つけて、伝えてくれたんだ。仕事が早い。
「いやー、驚いたよ。本当に、目から鱗が落ちる思いだ」
などと、しみじみ言うアダマン様。
ちゃんと伝わったんだな、と、私も安堵の息を吐く。
これで、ようやく、私たちも本当の夫婦になれる……。
そう思った、次の瞬間。
アダマン様は、キラキラと目を輝かせながら、こう続けたのだ。
「本当はカボチャ畑で赤ちゃんが採れるんだって!」
……は?
かぼちゃ……ばたけ……?
伝えるのに、盛大に失敗してるじゃん!!
私は、心の中で絶叫した。
そして、アダマン様の後ろに目をやる。
そこに立っていたマーサが、滝のような冷や汗をだらだらと流しながら、ゆっくりと、しかし確実に、私から目をそらしていくのが見えた。
おい!!!!!
◇ ◇ ◇ ◇
かくして、私たちの「お世継ぎ作り」は第二章へと突入した。
『カボチャ畑で赤ちゃんを収穫しよう』大作戦である。
……作戦名からして、前途多難な香りがぷんぷんする。
翌日、私たちはさっそく、屋敷の庭の一角にある家庭菜園へと向かった。
そこでは、この道五十年のベテラン庭師のおじいさんが待っていた。
「旦那様奥様。本日はカボチャを植えられると」
「うむ! 最高のカボチャを育てるための秘訣を我々に伝授してくれ!」
アダマン様は、やる気満々だ。
その手には、どこから調達してきたのか、新品のシャベルが太陽の光を浴びてキラキラと輝いている。
庭師の丁寧な指導のもと、私たちは土を耕し、畝を作り、カボチャの苗を植えていく。
アダマン様は驚くほど手際が良かった。
シャベルを持つ姿も様になっている。さすが完璧超人。
「ふむ……これはなかなか骨が折れる作業だな」
一通り作業を終え、額の汗を拭いながら、アダマン様がしみじみと呟いた。
「まさか二人で力を合わせてカボチャを育てないと子供を授かれないなんて。世の夫婦は皆こんなに大変なことをしているんだなあ」
そんなとぼけた感想。
隣で聞いていた庭師がぐっと喉を詰まらせ、必死に咳払いでごまかしているのが見えた。
気持ちは分かる。
――しかし、だ。
不本意ながらも始めてしまったカボチャ作りは、驚くほど楽しかったのだ。
力仕事はほとんどアダマン様が率先してやってくれる。
汗をかきながら土を耕す彼の姿は、普段の涼やかな姿とはまた違う野性的な魅力に溢れていた。
汗でしっとりと濡れたブロンドの髪。
日に焼けたしなやかな筋肉。
つやつやと輝く肌。
……だめだ。心臓に悪い。
この光景を、額縁に入れて永久保存したいくらいだ。
「イヴ、少し疲れただろう? 無理は禁物だ。休憩しよう」
私がほんの少し動きを止めただけで、彼はすぐに気づいてくれる。
そして、私の手を引いて、近くにあった切り株へと誘ってくれた。
「ほら、ここに座って」
隣にぴったりとくっついて座る。
彼の体温が腕を通して伝わってきてどきりとした。
心臓の音が彼に聞こえてしまうのではないかと、気が気じゃない。
「ああ、そうだ。イヴ、ちょっとじっとしていて」
「え?」
彼がすっと顔を近づけてくる。
あまりの近さに息を呑んだ。彼の澄んだ青い瞳がすぐそこにある。
「ふふ、土が顔についてるよ」
そう言って、彼は優しい笑みを浮かべながら、大きな手でそっと私の頬を拭ってくれた。
指先が触れた場所から、熱が全身に広がっていく。
ああ、だめだ。卒倒しそう……!
というか、半分くらい意識が飛んでいたかもしれない。
そんな心臓に悪いハプニングの連続。
けれどそれは間違いなく最高に幸せな時間だった。
二人で水をやり、雑草を抜き、毎日毎日カボチャの様子を見に行く。
日に日に大きくなっていく緑色の実に、私たちは手を叩いて喜んだ。
「すごいぞ、イヴ! 見てごらん、こんなに大きくなった!」
「本当ですわね、アダマン様!」
ああ、もう。
子供は当然、このカボチャの中にはいないのだけれど。
でも、こんな穏やかで幸せな毎日が続くのなら……
もう少し、あと、ほんのちょっとだけ、このままでもいいかもしれない。
なんて、そんなことを思ってしまうくらいには、私はこの状況に絆されていた。
そして、数ヶ月後。
ついに、カボチャの収穫の日がやってきた。
立派に育った、大きくてずっしりと重いカボチャ。
私たちは、二人で力を合わせてそれを畑から運び出した。
「さあ、いよいよだ……!」
アダマン様は、緊張した面持ちで、ナイフを手に取る。
パカッ。
アダマン様がカボチャを真っ二つに割る。
中から現れたのは、鮮やかなオレンジ色の果肉とたくさんの種。
……それだけだ。
「…………」
「…………」
沈黙が、流れる。
アダマン様はカボチャの中を、何度も何度も覗き込んでいる。
しかし、当然そこに赤ちゃんの姿はない。
やがて、彼はがっくりと肩を落とした。
そのしょんぼりとした後ろ姿は、なんだかとても可哀想で、胸がちくりと痛む。
私が何と声をかけようか迷っていると、彼は不意に顔を上げた。
その瞳には、新たな決意の光が宿っている。
「そうか……。カボチャだけではダメだったか……」
彼は、真剣な表情で、腕を組む。
そして、その彫刻のように美しい横顔で、とんでもないことを呟いた。
「聞いた話によると、キャベツ畑から採れることもあるらしい。次はキャベツも植えるべきか!」
キャベツ……。次はキャベツを育てるのね。
二人で畑仕事をするのは、正直とても楽しい。
一緒に何かを成し遂げるという経験が、くすぐったくて幸せで。
でも……
このままずっと、彼を落胆させ続けるのも忍びない。収穫のたびにあの悲しそうな背中を見ることになるのは私も辛い。
どうしたものかしら……。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その日の夜、夕食を終えて部屋で休んでいると、控えめなノックの音がした。
入室を許可すると、そこに立っていたのは真剣な顔をしたアダマン様だった。
「イヴ。少し、話があるんだ」
その声は低く、どこか思い詰めたような響きを帯びていた。
昼間のキャベツ畑での様子とは、明らかに違う。
私はごくりと喉を鳴らし、彼を部屋の中へと招き入れた。
彼はソファに腰掛けると、しばらく黙り込んでいた。
何かとても言い出しにくいことがあるのだろう。
その横顔からは、深い苦悩が伝わってくる。
「あの、アダマン様……?」
私が心配になって声をかけると、彼は意を決したように、ゆっくりと口を開いた。
「イヴ。……いくら頑張っても子供ができない夫婦もいるらしい。そういう男性のことを『不能』と言うんだってね」
ふのう。
そのあまりにも生々しい単語の響きに、私は一瞬、思考が停止した。
ていうか、不能もなにも、そもそも、できることを何一つしていないのだけれど。
それにしても、コウノトリやカボチャを信じているのに、どうしてそんな言葉は知っているんだ。
この屋敷の情報統制は一体どうなっているんだ。
私の混乱をよそに、彼は俯いたまま、か細い声で続けた。
「ごめん、イヴ。……俺はもしかしたら不能なのかもしれない……!」
絞り出すようなその声。
顔を上げた彼の瞳は悲しみの色に揺れていた。
まるで迷子になった子供のように、心細そうで、頼りなくて。
その表情を見た瞬間、私の胸はきゅうっと締め付けられるように痛んだ。
ああ、もう、だめだ。
コウノトリを捕まえに行った山歩きも、二人で泥だらけになった畑仕事も。
本当に、本当に楽しかった。
彼の純粋さに触れるたびに、愛おしくて、このままずっと、この不思議で幸せな毎日が続けばいいとさえ思っていた。
あともうちょっとだけ……なんて、甘いことを考えていた。
でも、違う。
彼が、こんなに傷ついた顔をしているのに。
私だけが、真実を知りながらこの状況を楽しむなんて、そんなのあまりにも不誠実だ。
私は覚悟を決めた。
すうっと深く息を吸い込む。
「アダマン様。……顔を上げてください」
私の静かな声に、彼はびくりと肩を震わせる。
「実は、子供というのは畑から生まれるわけではないのです」
私の言葉に、アダマン様の青い瞳が、驚きに見開かれた。
「……え? では、どうやって……。まさか、イヴは知っているのか!?」
「はい。存じております」
私は、まっすぐに彼の目を見つめ返して、はっきりと頷いた。
「今から、それを、私が教えて差し上げます」
言ってから、急に心臓が早鐘を打ち始める。
これから私がしようとしていることは、この、神が作りたもうた最高傑作のような人を、世俗の知識で汚すような行為なのではないだろうか。
軽蔑されてしまったら? 破廉恥な女だと思われてしまったら?
急な不安に襲われ、思わず、弱音が口をついて出た。
「……その前に、一つだけ、約束してくださいませ」
「約束?」
「はい。……本当のことを知った後も、どうか、私のことを嫌いにならないでください」
声が震えてしまった。
すると、彼は一瞬きょとんとした後、ふっとその美しい顔をほころばせた。
「嫌いになるなんて、あるはずがないだろう」
彼はそっと立ち上がると、私の前にひざまずき、私の手を取った。
その瞳には、どこまでも深い愛情の色が浮かんでいる。
「愛しているんだ、イヴ。君がどんな人でも、僕のその気持ちは決して変わらない」
心臓に、悪い。
そんな、殺し文句。
バクバクと暴れる心臓にむちを打ち、私は、彼の手を引いて立ち上がらせると、そのまま、寝室のベッドへと、力いっぱい押し倒したのだった……
翌朝。
食堂の空気は、なんだかとても重かった。
私とアダマン様は、二人して真っ赤になったまま、うつむき加減で黙々と朝食のパンをちぎる。
昨夜、私たちはようやく、本当の意味で夫婦となった。
初めて同士で、何もかもが手探りで、とても大変だったけれど……思い出すだけで顔から火が出そうになるくらい恥ずかしかったけれど、でも、そこには、途方もないほどの充足感があった。
しかし、一夜明けて、こうして顔を合わせると、あまりの恥ずかしさに、お互いの顔をまともに見ることができない。
ちらりと盗み見た彼の耳も、私と同じように真っ赤に染まっていた。
そして、私の中には、もう一つ、別の感情も渦巻いていた。
それは、芸術品を汚してしまったかのような、妙な背徳感だ。
あの、神々しいまでに美しく、清らかだったアダマン様を、私が……。
なんだか、とんでもない罪を犯してしまったような気分になる。
しばらくカチャカチャという食器の音だけが響く、気まずい時間が続いた。
その沈黙を破ったのはアダマン様だった。
彼は意を決したように、ガタンと音を立てて席を立つ。
そして、真っ赤で、困惑した顔のまま、食堂の隅に控える使用人たちをぐるりと見渡して、叫んだ。
「みんな! ……もう少し、早めに教えてくれても良かったんじゃないかな!」
その、魂の叫び。
それに対して、マーサを筆頭とする古株の使用人たちは悪びれつつも、にこにこと笑っている。
その顔には、こう書いてあった。
『えへへ、申し訳ございません。でも、顔を真っ赤にして困惑なさっている旦那様も、大変に絵になっております』
だめだ、こりゃ……。
この屋敷の人たちは、どうやらアダマン様を崇拝しているらしい。
私は、熱くなった頬を手で覆いながら、これから先、この愛すべき夫と癖のある使用人たちに囲まれて退屈しないであろう毎日を思い、小さく、幸せなため息をつくのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
そして、月日は流れた。
私たちの間には、待望の第一子が誕生した。
キラキラと輝くブロンドの髪と、父親譲りの青い瞳を持つ、可愛らしい男の子だ。
もちろん、私が妊娠していると分かってからは大変だった。
夫であるアダマン様が「お腹の赤ちゃんは、いつ収穫できるんだい?」などと、とんでもないことを言い出さないように、私はマーサを呼びつけ、それはもう、きつく、きつく睨みつけながらお願いしたのだ。
「赤ちゃんに関する正しい知識を、旦那様に教えて差し上げてちょうだい」
男女の知識に比べれば、背徳感もなかったのだろう。
マーサは「お任せくださいませ!」と力強く頷き、今度こそ、ちゃんと旦那様に教えてくれた。
そして、生まれたばかりの我が子をその腕に抱いた時、アダマン様は子供のように声を上げて、大粒の涙を流して喜んでくれた。
その姿を見て、私もつられて泣いてしまった。
ああ、幸せだ。
コウノトリを追いかけた山歩きも、泥だらけになった畑仕事も。
今となっては大切で、可笑しくて、愛おしい思い出だ。
でも、こうして、本当に愛する人との間に生まれた命を育むことは、やはり、何にも代えがたい、本当の幸せなのだと実感する。
とはいえ。
子供が生まれて数週間。
新たな懸念事項が、私の頭を悩ませていた。
それは、この赤ちゃんが、神々しいほどに美しすぎるということだ。
自分の子供が世界一可愛く見える、という親の贔屓目はもちろんあるだろう。
でも、これはどうもそれだけではない気がする。
現に、お世話をしてくれるメイドたちが我が子の顔を一目見ては、「尊い……!」と呟きながら卒倒していくのだ。
その光景、どこかで見たことがある。
この様子だと、この子が大きくなった時。
父親であるアダマン様のように、男女の知識を教えるべき家庭教師たちが次々と辞職を願い出る事態にならないだろうか……
そして最終的に、母親である私がこの子に性教育を施さなければならない状況にだけは、絶対になってほしくない……!
どうか、そうはならないでおくれ!
私は、腕の中ですやすやと眠る、天使のように美しい我が子の寝顔を見つめながら、切に、切に、そう祈るのであった。




