9.あの夜に
アンリーゼの城での生活リズムが出来上がってきた頃、いつも通りベルローズ王子と昼食を取り始めようとした時、急に強い吐き気を催した。王子の前で、しかも食事の席で吐くなど決してあってはならないと、アンリーゼは気持ちを奮い立たせ、何とか立ち上がって扉に向かって走り出す。
「アン? どうした!?」
急に立ち上がって部屋から出て行こうとすれば、もちろんベルローズ王子は心配になって追いかけて来る。
アンリーゼは結局廊下で王子に捕まり、そのまま戻してしまった。
「も……申し訳ございません、ベルローズ様……」
「大変だ、すぐに横にならないと」
ベルローズ王子はポケットからハンカチを出すとアンリーゼの口元を拭ってあげ、そして抱きかかえて彼女の部屋まで向かう。
「ベルローズ様、私を抱きかかえてはお召し物が汚れてしまいます」
「そんな事は構わない」
「いえ、酷い臭いも移ってしまいます」
「何も気にするな」
アンリーゼの部屋に着くと、彼女をベッドに寝かせ、使用人を呼ぶベルを鳴らす。駆けつけたシーラと使用人達に医師の手配とアンリーゼの着替えなどを一通り指示し、ベルローズ王子は自室へと戻って行った。
そしてその夜、ベルローズ王子は再びアンリーゼの部屋へと訪れる。
心配して見舞いに来たというよりも、王子の表情は複雑で、戸惑いつつも何かを決心したような険しい表情だった。
「アン、体調はどうだい?」
「ベルローズ様、おかげさまで今は問題ありません」
「そう、それは良かった」
ベルローズ王子はアンリーゼの横になるベッドの隅に腰を掛け、優しくアンリーゼの頭を撫でた。
「ベルローズ様? どうかなさいましたか?」
アンリーゼはベルローズ王子のことを優しい人柄である事は理解していたが、こんなにあからさまに優しくしてくれたのは初めてで、少し気味が悪かった。
「アン、君は妊娠しているそうだ」
「え」
アンリーゼは息が止まるかと思うほどの驚きと衝撃を受けた。
ベルローズ王子と肌を重ねたのは一度だけ。それ以前にもそれ以降にも、経験などあるわけがない。たった一度だけの経験で妊娠する事があるのかと、ただ茫然とベルローズ王子を見つめてしまった。
「アン、すまない……」
「なぜ謝るんです? ベルローズ様の御子をお腹に宿したのなら、妃として喜び以外何ものでもないです」
「そう言ってくれてありがとう。無力な私だけど、アンと子供を精一杯守り、大切にする」
アンリーゼは、ベルローズ王子が責任感から自分や子供を大切にすると言うのは、少し寂しく感じた。
きっとベルローズ王子はマリー前妃との間にソアンが出来た時は、愛し合って授かった子供に心から喜んだのだろう……。
そう勝手に想像しては、また少し寂しさが増す。
愛は期待しない……そう決めたじゃない……。
知らず知らずのうちに、アンリーゼは涙を流してしまっていた。
「アン、泣かないで。泣くほど辛いのか?」
「いいえ、決してそういうわけでは……」
この気持ちはベルローズ王子には伝えられない。だが、涙の止め方が分からなくなってしまった。感情のコントロールは今までどうやっていただろうかなどと、必死にいつもの自分に戻ろうとしていると、ベルローズ王子が優しく抱きしめてくれた。
「アン、寝室を一緒にしよう。君が心配だ」
「ご心配をおかけして申し訳ございません……」
「そんな事言わないでいい。私がもっとしっかりしなくてはいけないんだ」
ベルローズ王子はその日はそのままアンリーゼの隣で眠り、翌日アンリーゼはシーラに車いすを押して貰って王子の部屋に移動すると、その日から彼の部屋での生活が始まった。