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放課後心霊クライシス ~花園学園七不思議~  作者: 霧南
第四章:踊り場の鏡の怪
9/20

■1■ 10月9日(木) 踊り場

「何にも起こらないわね……」


 あくび交じりに真知子がつぶやいた。


「花園学園七不思議4……三階へ通じる踊り場の鏡の中の世界を垣間見ると、鏡の中に閉じ込められる、ねぇ……本当かしら?」


 花園アソートの面々が放課後に鏡の前で待機をし始めて、今日で三日目。昨日と一昨日は、二時間くらい待機していたが、結局何も起こらなかった。


「用心に越したことは無いと思いますよ」


 堅実な発言をするのは寧音。僕もそれには同意する。


 僕達は、旧校舎の一番奥、二階と三階の間にある踊り場の鏡の前に座り込んでいた。この場所は新校舎から一番離れており、今は使われていない予備教室が多いため、訪れる生徒はほとんどいない。放課後になってから一時間以上待っているが、誰一人として通り過ぎる人はいなかった。


「優耶、ここの幽霊もやっぱり本物なの?」


 僕は声を小さくして優耶に聞いた。


「たまにではあるけど、鏡から微弱な霊気が出ている時がある。何かしらの霊が鏡に憑りついてるのは確かだろうね」


 今のところ何も起きていないが、油断はできないってことか。


(それにしても、待つだけというのも退屈だな……)


 欠伸を噛み殺しながら、僕たちはその場で待ち続けた。




……





 待ち始めて既に二時間が経過した。秋が深まっていく今の時期、日没の時間はどんどん早くなっている。既に外は夕暮れから夕闇へと移り変わっていた。


「あぁー! もう待ってられなーいっ!」


 待つのに疲れて、四人の間に今日も帰ろうかという雰囲気が漂い始めた頃だった。限界に達した真知子は突然鏡に近づき、拳で鏡面を叩き始める。


「賢、まずい、止め……」

「えっ?」


 優耶の声が頭に響いたが、途中で交信が途絶えてしまい、最後まで言葉を聞き取ることができなかった。


「仕方ない、今日も諦めよっか……」


 真知子は諦めたように鏡面に寄りかかる。その体勢から勢いをつけて前傾姿勢になった瞬間だった。急にさざ波のような波紋が鏡面全体に広がると、真知子の腰から下が鏡の中に陥没していく。


「あれっ?」


 何が起きたのか理解できず、不思議そうな表情を見せる真知子。僕たちも一瞬何が起きたのか理解できず、その場を動くことができなかった。固い鏡面という支えを失ってバランスを崩した真知子は、水銀のように液状化して波打つ鏡の中へ、みるみる吸い込まれていく。


「真知子っ!」


 最初に動いたのは和十だった。真知子の手を取ろうと手を伸ばす。しかし、距離が遠い。既に胴体も頭も鏡の中に消えて、足そして腕から先だけが鏡の外に出ている。その腕も、刻一刻と鏡の中へと消えていく。


「くそったれっ……!」


 和十は最後に残った真知子の手を掴もうと強く一歩を踏み出す。が、真知子の指先が鏡の中に消える方が早かった。時間にしてコンマ数秒、距離にしてあと数センチというところで和十の手は届かず、和十の手は固い鏡面にぶつかり、弾き返されてしまった。


「真知子っ!!」


 人間が鏡の中へ、まるで海に沈むように落ちていく……異変が発生してから真知子が完全に消えるまで、ほんの数秒だった。鏡の中に閉じ込められるという七不思議の話は事前に知っていたが、何も起きない退屈な時間が長く続いたことで、僕達は完全に油断していた。


「くそっ!」


 そう言って和十が鏡を叩こうとした時、不意に鏡の上部から白いモヤのようなものが出てくるのが見えた。


「いけないっ!」


 そう叫んで寧音はそのモヤを掴もうとしたが、その白い影は寧音の手の上をいき、僕たちがいた場所とは反対側の踊り場の壁へ向かっていった。そのまま地面に落ちた白いモヤから大量の煙が発生し、徐々に拡散していく。


「ま、真知子……!?」


 煙が霧散した後に現れたのは真っ白な真知子だった。いや、それは真知子の姿形こそしていたが、全身が白い煙で満たされており、実体が無い存在だった。


「それを逃がしてはいけませんっ!」


 寧音が叫び、一瞬で霊薙を出現させる。瞬時に切先で虚空に円を描くと、楕円を縁取った鏡壁が現れる。それを真知子の姿をした白い影に押し出した。


「あっ」


 真知子の姿をした影は寧音の作った結界を宙に浮いてひらりとかわすと、階段へ向かい、下へ下へと降りていこうとする。


「追いかけてください! 見失うと、本物の真知子ちゃんが戻って来れなくなってしまいます!」

「えっ!?」


(捕まえると言っても、どうすれば……)


 そう思った時だった。


「だから、やめなさいと、忠告、したのに……!」


 語気強く、苛立ちの感情を帯びた声がした。その直後、風を切り裂くような鋭い音と共に、階下から一枚の紙切れが飛んできて、真知子の姿をした白い影へと直撃した。


「ギィぁあああああああああああ!」


 人のものとは思えない、耳をつんざくような金切り声が響き渡り、思わず耳を塞ぐ。


「……」


 声がやんだ。そして、真知子の姿をした影は、白い煙を立ち上らせながら、ゆっくりと地面へと落ちていった。


「君は……」


 文庫本を片手に、静かにゆっくりと階段を上ってくる女生徒に視線を向ける。


「キミ、ではなく幸恵です。幸せの恵みと書いて幸恵……こんなに綺麗な名前なんですから、しっかり覚えてください」


 先ほどの苛立ちの色は失せ、落ち着き払った声で言う少女……幸恵ちゃんだった。


「あ、あぁ、ごめん、幸恵ちゃん」


 僕の言葉が終わるのと同時に、幸恵ちゃんは踊り場に到達する。


「あの霊は一時的に身動きを取れなくしました。さして強い霊でもなさそうなので、三十分はこのまま縛り付けておけると思います」


 淡々と状況を説明すると、幸恵ちゃんはスカートの前側をパンパンッと軽くはたいた。


「竜崎先輩、そして桂木先輩、お初にお目にかかります」


 体の前で両手を組み、寧音と和十に向かって丁寧に一礼する。


「私の名前は大宮幸恵。幸せの恵みと書いて幸恵です。春日先輩とは、先日お話させていただいたのですが……」


 そう言って僕へ視線を向ける。それに釣られて和十と寧音も僕を見る。


「賢、そうなのか?」

「うん、まぁね」


 僕たちのやりとりを見ると、幸恵ちゃんはこくこく、と静かに頷く。


「春日先輩、どうやら約束は守っていただけたようですね」


 約束……あぁ、幸恵ちゃんのことを口外しないって話か。


「もちろん。素敵な名前を教えてもらえたからね」

「それは重畳です」


 相変わらず無表情だったが、その声はどこか嬉しそうに聞こえた。


「それで、アンタは一体……」

「アンタ、ではなく幸恵です」


 言いかけた和十の言葉を、幸恵ちゃんは冷たい口調で遮り、鋭い視線で睨みつける。


「えっ、あ、あぁ、幸恵ちゃん……」


 圧倒された様子の和十。僕がキミと呼んだ時より、対応がかなり手厳しいような……アンタと呼ばれたのがよほど嫌だったんだろう。


「それはさておき、真知子先輩のことです」


 そう言って幸恵ちゃんは無表情に戻ると、真知子の姿を保ったまま階段で座り込んでいる白い影に近づいていく。時折、影に張り付いた護符にバチッと電撃が走っているのが見える。


「先ほど話した通り、この縛雷符(ばくらいふ)の効果で、三十分程度はこの霊の動きを封じておけると思います」


 霊のすぐ側まで近寄った幸恵ちゃんはしゃがみ込み、霊の顔を覗き込む。


「ですが、おそらく四十分は持たないでしょう。その間に片を付けてください」


 幸恵ちゃんは静かに立ち上がった。


「鏡の霊について、私はあまり詳しくありません。おそらく桂木先輩の方が詳しいと思います。なので私が手助けできるのはここまで……あとは桂木先輩にお任せしてもいいですか?」


 そう言って幸恵ちゃんは寧音に視線を向ける。


「えぇ、ありがとう」


 言いながら寧音はこくりと頷いた。




……





 幸恵ちゃんは、自分のことは他言無用、と寧音と和十に釘を刺すと、一礼して去っていった。


 他言無用と言われても、既に僕ら四人のうち三人には知られてるわけだけど……真知子には内緒にしておいてほしい、ということなのだろうか。まあ、こんなに強力な護符を使える生徒がいると知ったら真知子が放ってはおかないだろうし、それが煩わしいのかもしれない。こうして助けてくれてはいるけど、僕達の七不思議調査には断固反対の立場みたいだし。そんな幸恵ちゃんを無理やり七不思議調査隊に勧誘する真知子の姿が、ありありと想像できた。


「それで、具体的にこれからどうすればいいんだ?」


 寧音から一通りの話を聞いた和十が言う。


 寧音の話によると、鏡から出てきたのは、本来鏡に映るべき『真知子の姿』に霊が憑りついたものらしい。真知子が鏡の中に入ってしまったことにより入れ替わりで外に出てきたが、本物の真知子をこの世界に戻すには、代わりにこの霊を鏡の中に戻す必要があるとのこと。鏡から霊が出てきた時に逃がさないよう寧音が言ったのは、この霊が逃げ出して行方不明になってしまうと、真知子を鏡の中から連れ戻すことが不可能になってしまうかららしい。こうして捕縛できたことで、なんとかその最悪の事態は避けられたとのことだけど……。


「手順としては、真知子ちゃんが鏡の中に閉じ込められた時と同じく、まずは鏡の中の世界とこちらの世界を繋いで……」


 深く考える仕草を保ったまま、寧音は続ける。


「そして霊を鏡の向こう側に戻した上で、入れ替わりに真知子ちゃんがこちらに戻ってきたら、すぐに鏡の中の世界とこちらの世界の境界を完全に封鎖する……そういう手順が必要になります。ただ……」


 少し間を置いてから寧音は続ける。


「このような事例は話には聞いていましたが、実際に経験するのは初めてで……」


 少し困ったような表情を浮かべた。


「具体的にどうすれば鏡の中の世界と外を繋ぐことができるのか。どうすればあの霊を鏡の中に戻せるのか。そのやり方が分からないことには……」


 寧音は暗い表情でうつむいてしまった。


 優耶と話したかったが、あれ以来ずっと会話ができない状態が続いていた。


「……あっ」


 不意に思い出して声が出る。


「賢、何か気づいたか?」


 和十が僕に視線を向けてくる。


「いや、気づいたってわけじゃないけど、過去の学園七不思議に関することなら、何か分かるかもしれない」


 学園七不思議について、夕霧さんに資料集めを頼んでいたことを思い出す。


「本当か!?」

「断言はできないけど、可能性はある」

「それじゃあ、そこから当たってみよう!」

「ちょ、待って、和十っ!」


 僕の言葉も聞かず、和十はものすごい勢いで階段を駆け下りていく。僕と寧音は完全に取り残されてしまった。


「……」

「……」


 いったん見えなくなった和十だが、数秒後、勢いそのままに階段に戻ってくる。


「……で、どこに行けばいいんだ?」

「それを言おうと思ったんだけど」


 猪突猛進とはこのことだな。




……





 図書館に行き、夕霧さんの姿を探すと、彼女は本棚の前で蔵書整理をしていた。


「いたいた、夕霧さん」

「あらら、春日くん」


 夕霧さんはいつもと変わらない穏やかな口調でこちらに顔を向ける。


「……と、竜崎くんに桂木さんも。今日はみんなで図書室勉強会?」

「いや、そうじゃなくて」


 前に頼んでた学園七不思議の資料のことを聞くと、夕霧さんは「あ、七不思議の資料ね」とすぐに思い出してくれた。


「それなら控え室に集めてあるから、今持ってくるね。ちょっとここで待ってて」

「うん、お願い」


 軽く微笑むと夕霧さんは奥の部屋へと入っていく。ほどなくして、背表紙に生徒新聞と書かれた古びたファイルをいくつか手に抱えて戻ってきた。


「お待たせ」


 夕霧さんは僕達を広いテーブルへと案内し、その上にファイルを丁寧に並べていく。僕達は夕霧さんとテーブルを挟んで向かい合う形になった。


「七不思議の記事があるファイルだけ選んで持ってきたよ」


 生徒新聞は年度ごとにファイルされており、目の前にはファイルが六つ……昭和六年、昭和七年、昭和八年、昭和四十二年、昭和四十三年、昭和四十四年の生徒新聞ファイルだった。


「貸し出すことはできないから、図書館内で閲覧するだけになっちゃうけど、大丈夫?」

「うん、問題ないよ。ありがとう」

「どういたしまして。ただね、昭和七年と昭和八年、昭和四十三年と昭和四十四年の新聞は、七不思議の話題が出てはいるけど、実際に幽霊とか怪奇現象を見た人はいなかったみたい」


 パラパラと丁寧にページをめくりながら夕霧さんは説明する。


 七不思議の件について検証した記事ページには付箋がついており、該当のページはすぐに見つかった。


「それで、実際に七不思議関連の事件が起きたのは、こっちのファイル……昭和六年と昭和四十二年、この年だけだったよ」


 そう言って、今度は昭和六年のファイルと四十二年のファイルを並べ、該当のページを開いて僕たちの前に差し出してきた。


「まさか、生徒新聞を全部チェックしてくれたの?」


 僕が言うと、夕霧さんはにこりと微笑む。


「うん、わたし資料を探すのは得意だから」


 こともなげに言う。夕霧さんに資料を探すのを頼んでからまだ数日しか経ってないけど、すごい量の資料を調べてくれたんだな……。


「わたしも軽く読んでみたんだけど、昭和六年の時も昭和四十二年の時も、生徒の中にすごい霊能力を持った子がいて、その子が七不思議を全部解決しちゃったみたい」

「そうなの?」

「この二つの年には七不思議の話題が多いんだけど、その子達が解決したことで怪奇現象は起こらなくなって、そのあと一年二年と経つうちに、生徒たちの関心も少しずつ薄れていっちゃったって感じかな」

「昭和六年、昭和四十二年、そして今年が平成十五年だから……」


 寧音が何か考え込むような仕草を見せる。


「寧音、どうかした?」

「いえ……今はそれより、踊り場の鏡の件を調べませんと」


 寧音はファイルに目を落として言った。


「踊り場の鏡って確か、四つ目の怪談だよね? それなら……」


 夕霧さんはパラパラと手際よくページをめくっていく。


「昭和六年で一番詳しく書かれてるのはこれ、昭和四十二年だとこの記事になるかな」


 夕霧さんは踊り場の鏡の写真が載ってるページを開いた。


 そこには、踊り場の鏡の怪談と、それを解決した経緯が事細かに書かれていた。


「賢君、ここ!」


 ページを開いて数秒、寧音が記事の一部を指さす。


「結界を鏡の外から中に通すことで、鏡の中の世界と現世を繋げることができる……」


 僕は寧音が指さしたところを声に出す。


「それと、ここ」


 少し離れた場所を寧音が指差す。


「鏡から出てきた霊を、一時的にヒトガタに閉じ込め、鏡に押し当てることで霊を鏡の中の世界に戻した……」


 一つ一つ、意味を確認しながら声に出した。


「ヒトガタというのは、人の姿を象った依代(よりしろ)のことです」


 僕が聞くより先に、寧音が説明した。依代って何?と思ったが、寧音が分かっているなら問題ないだろう。詳しく聞いている時間もないので、先の説明を促す。


「結界なら、わたしが何とかできると思います」


 寧音が力強くうなずく。おそらく鏡壁で代替できるんだろう。するとあとは……。


「ヒトガタ……これはどうしよう」


 よく分からないけど、即興で作れるような物なのだろうか。


「必要としているのは、これかしら?」


 入り口から声がしたので振り返ると、そこには手のひらサイズの木彫りの板を手にした若い先生……ウェーブがかったお洒落なひし形ミディアムボブが印象的な、養護教諭の保科(ほしな)真理(まり)先生が立っていた。


「保科先生?」

「ヒトガタ、必要なんでしょう?」


 そう言って、保科先生は僕たちの前まで歩いて来た。


 保科先生がどうして僕達の事情を知っているのか……なぜ図書館に来たのか……どうしてヒトガタを持っているのか……いろんな疑問が一度に湧いてくる。


「色々気になるだろうけど、詳しい話はあとで。今は急いでるんじゃないかしら?」


 言いながら保科先生はヒトガタを差し出した。


 時計を見ると、真知子が鏡に閉じ込められてから、既に三十分近くが経とうとしていた。


「そうですね……すみません先生、ありがとうございます」


 木彫りのヒトガタを受け取る。


「夕霧さんも、ありがとう!」

「いえいえ」


 僕達は二人へのお礼もそこそこに切り上げ、鏡のある踊り場へと急いだ。




 旧校舎奥の踊り場に辿り着いた時、既に三十分は過ぎていた。しかし幸いにも、幸恵ちゃんが施してくれた護符はまだ効果を保っており、霊をその場に留めていた。


「まずはわたしが鏡の向こう側とこちら側を繋げます。おそらく一分程度は維持できると思います。その間に、ヒトガタに霊を移して、鏡に押し当ててください」

「うん」

「ヒトガタに閉じ込めている間、激しく抵抗されると思います。移し終えたら、なるべく早くヒトガタを鏡に押し当てるようにお願いします」

「了解」

「竜崎君は不測の事態が発生した時のフォローをお願いします」

「承知!」


 和十は元気よく返事をする。


「それでは、いきます……!」


 寧音は一瞬で霊薙を出現させると、いつもより大きめに円を描き、結界を出現させる。それを勢いよく突き出すと、すっぽりと鏡の中へ入っていき、鏡面がざわざわと波打ち始めた。真知子が鏡の中に吸い込まれていった時と同じだ。それを確認した後、僕はヒトガタを階段にいる霊に突き出した。


「ギィィィィァアアアアアアアアアア!」


 護符を受けた時と同じ、いやそれ以上の金切り声が建物内に響く。同時に白い煙が発生し、ヒトガタの中へと吸い込まれていった。


「よし!」


 手のひらの上に乗ったヒトガタが、カタカタカタカタと小刻みに震える。


(あとは……)


 僕が鏡に向かって駆け出そうとした、まさにその瞬間だった。ヒトガタは僕の手から抜け出して勢いよく跳ね上がり、宙を舞った。


「あっ!」


 僕が驚いて声をあげると、その直後、ヒトガタを掴み取る手が視界に入った。


「逃げんなっ!」


 和十だった。ヒトガタをしっかりと右手で握り締めると、そのまま鏡へと駆けていく。


「うぉりゃあーーーっ!」


 和十はかけ声と共に、野球の球を投げるようにして鏡面にヒトガタを思いっきり叩きつけた。その直後、鏡面が激しく波打ち、白い煙が立ち始める。


「ギ……ギギギ……」


 鏡面で人の形をした白い影がゆらゆらとゆらめく。抵抗しているようだった。


「鏡の、中に、戻りやがれーーーっ!」


 和十は渾身の力を込めてヒトガタを鏡面に押し付けた。


「ギィ……ィィ……ィギァァァァァァ……」


 数秒ほど抵抗していた白い影だったが、最後は力尽きたように鏡の中へと落ちていった。それから数秒もしないうちに鏡が強烈な光を放ったかと思うと、次の瞬間には鏡の向こう側に真知子の姿が現れた。


「真知子っ!」


 和十が鏡の中へと手を突っ込む。鏡面に波紋が広がり、そのまま和十は真知子の手首を掴むと、真知子を鏡の外へ引きずり出した。


「寧音ちゃん!」

「はいっ!」


 真知子が鏡の外に出てきたことを確認すると、寧音はすぐに鏡の中に展開していた結界を撤収させる。すると、それまで波打っていた鏡面が元の固い鏡面に戻り、踊り場にいる僕たち四人の姿を映すただの鏡になった。


「イテテ……もぅ、和十ってば痛いじゃない! もっと優しく掴んでよね!」


 戻って早々、不満を口にする真知子。間違いなく本物の真知子だ。


「真知子、よかった……!」


 和十は真知子の両手を握って額に当てると、感極まった声を出す。


「えっと……察するに、鏡の中に閉じ込められた私を、みんなが助けてくれた感じ……かな?」


 真知子が僕たちを見回しながら言う。


「中にいた時の記憶、ないんですか?」


 寧音が聞くと、真知子はふるふると首を振る。


「体勢を崩して、鏡の中に入っちゃった感覚はあるんだけど……」


 真知子はこめかみに手を当てながら言う。


「でもみんな、助けてくれてありがとう」


 そう言って、真知子は満面の笑みを浮かべた。

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