■2■ 10月4日(土) 夕霧初音
生物室委の一件が片付いた日の翌日。半ドンの土曜日、夕暮れも近くなった頃。新校舎と部室棟との間にある図書館には生徒もほとんどおらず、閑散としていた。
「あれ、夕霧さん?」
本を返却するためにカウンターに行くと、カウンターの内側で一人、図書委員の夕霧初音が返却本の整理をしていた。
「あれ、春日くん、こんな時間に珍しいね」
夕霧さんは作業の手を止めると、本に向けていた視線を僕に向けた。耳の裏から垂れた小さなおさげの三つ編みを丁寧にかきあげると、肩の下まで伸びたツヤのある髪がサラサラとほぐれて流れていく。
「本の返却にね。夕霧さんは図書委委員の仕事?」
「うん。今日はわたしがカウンター当番なの。土曜の午後はほとんど誰も来ないんだけどね」
「そっか。じゃあこの返却もお願いしていいかな?」
借りていた本をカウンターの上に置く。
「返却ね、かしこまりました」
丁寧に言うと夕霧さんは本を開き、巻末のカードを確認する。
「ちょうど一週間だね、ありがとう」
夕霧さんは今は別のクラスだが、小学から今まで、何度か同じクラスになったことがあった。
「もうだいぶ遅いけど、夕霧さんは閉館までいるの?」
「ううん、閉館する時は先生だけ。生徒はそれより少し前に帰らされるの。暗くなると困るしね」
彼女はにっこりと微笑む。
「そうだねえ……物騒な七不思議のこともあるし」
「七不思議?」
夕霧さんは興味を持ったらしく、少し目を見開いて聞き返す。
「そう。最近、真知子に付き合わされてるんだよね、七不思議の調査隊とかいうの」
言うと同時に、大変な目に遭ったことを思い出して、思わずため息が漏れる。
「あっ、それってもしかして、花園アソート?」
「そうそう、それ。夕霧さん知ってるんだ?」
「うん、真知ちゃんから少し話は聞いてるよ」
軽く笑いながら夕霧さんが言う。
真知子、夕霧さんから真知ちゃんって呼ばれてるのか。結構親しいのかな。
「それじゃあ、この図書館にもみんなで調査に来るんだね」
「えっ?」
彼女の言葉の意味が分からず、思わず声が漏れる。
「できれば、図書室の女の子はそっとしておいてあげてほしいんだけど……」
「あ、ごめん、夕霧さん。図書館に来るって、どうして?」
夕霧さんの言葉を途中で遮って質問する。
「うん?」
夕霧さんは話の流れが読めずに疑問の表情を浮かべた。
「あ、いや。どうして七不思議の話からみんなで図書館って話になるのかなーって思ってさ」
「あれっ? 七不思議の七つ目は図書室の女の子だから、ここにも来るのかなって思ったんだけど……」
「いやいや、七つ目の七不思議って、屋上階段の死神の話だよね?」
僕が言うと、夕霧さんは不思議そうな表情を浮かべた。
「うーん……わたしが知ってる七不思議と違うのかな」
七不思議と言っても生徒間の噂だし、多少ブレたり違ったりすることもあるのかも知れないけど……。
「えっと、誰もいないはずのプールで水をかきわける音がする。生物室の人体模型が人知れず動き出す。音楽室のピアノが勝手に鳴り、最後まで曲を聞いたものは死ぬ」
僕が七不思議を列挙し始めると、夕霧さんは黙って耳を傾ける。
「三階へ通じる踊り場の鏡の中の世界を垣間見ると鏡の中に閉じ込められる。誰も寝ていないはずの保健室のベッドに寝ている人物がいる。陸上部の部室で奇妙なラップ音がする」
一呼吸おいてから、僕は続ける。
「そして最後、屋上に通じる階段の十三段目を踏んだものは死神に魅入られる……」
真知子から、耳にたこができるほど聞かされたので、丸暗記してしまった。
「……屋上、階段、死神……」
夕霧さんは神妙な表情を見せる。
「どうかした?」
「わたしのお姉ちゃんから聞いたのだとね、六つ目までは同じだと思うんだけど、七つ目の怪談だけ全然違うの」
「どういうこと?」
予想だにしない発言に驚き、聞き返す。
「お姉ちゃんから聞いた話だと、七つ目は図書室の女の子の幽霊だったから。わたし図書委員だし、覚え違いってことはないと思うんだけど……」
「図書室の幽霊……」
どういうことだろう? 七不思議みたいな曖昧なものは内容がブレやすく、人によって内容が違うと言ってしまえばそれまでなのだけど。でも七つのうち六つは同じみたいだし……。
真知子の情報ミス? でも、あの真知子のことだから、何かしらしっかりした情報源があると思う。現に、七つのうち最初の二つは実際に現象が起きた本物の怪談だったわけだし。
だとすると、真知子があえて噂を差し替えた? これは……あり得る。真知子の情報は確かで正確……これは幼い頃から真知子と付き合いのある僕と和十の共通認識だ。どこで調べたのか、どうやって調べたのか……情報源は明かしてはくれないのだが、真知子の情報は常に正確だった。真知子に騙されたことがなかったわけではないが、それは真知子が正確な情報を知りつつも、あえて僕たちに正しい情報を伏せていた場合に限られる。
今回も、真知子が調べたことなら間違いないだろうと思い、真知子の言う七不思議の内容を僕も和十もまったく疑わなかった。第一、七不思議の内容に関して、真知子が僕たちに嘘をつくメリットは何もないのだから。でも、夕霧さんの話が正しいとするなら、真知子は図書室の幽霊を屋上の死神に差し替え、僕と和十、そして寧音に吹き込んだことになる。
(どうして? と考えても仕方ないか……)
おそらく、このことを真知子に聞いても、はぐらかされてしまうことだろう。
「夕霧さん、この図書館に、この学園の七不思議のことが分かる資料みたいな本ってない?」
「それはないと思うよ。七不思議は噂話みたいなものだから。でも……」
夕霧さんは少し考えてから言葉を続ける。
「新聞部が作ってる生徒新聞なら、もしかして七不思議について何か載ってるかも。図書館の書庫に、昔のバックナンバーを全部とっておいてあるよ」
生徒新聞は、新聞部が毎週発行して掲示板に張り出している新聞だ。
記事は先生が関わることなく生徒だけで編集されていて、エンターテイメント性が高い。確かに、この生徒新聞なら七不思議の噂を取り上げていてもおかしくない。掲示して一週間を過ぎたら捨ててしまっていると思っていたが、図書館に保管されてるというのは初めて知った。
「それって、今見られる?」
「ごめんね春日くん。今は見られないの」
夕霧さんはふるふると首を振る。
「奥の書庫にあるんだけど、司書の先生の許可がないと見られないの。その先生もいま不在で、閉館まで戻って来なくて……先生が戻ってくるまで待っても、何十年分もあるし貸し出しもできないから、今日は調べる時間ないと思うかな」
「そっか……それじゃあまた後日出直すしかないか」
「ごめんね。時間があれば、わたしの方でも生徒新聞の七不思議の記事、探してみるから」
「いや、そこまでしてもらわなくても大丈夫だよ」
「いえいえ、わたしも七不思議、興味があるし気になるもん。ドーンとわたしに任せてみて?」
自分の胸に手を当てながら、少し冗談めかして言う夕霧さん。こんな夕霧さんを見るのは初めてかも。
「そういうことなら、お願いしてもいいかな」
「はい、お任せください」
夕霧さんは得意満面でにっこりと微笑んだ。
その後、図書館を後にした僕は、男子寮への帰り道で七不思議のことを優耶に聞いてみたが、曖昧な答えが返ってきただけだった。