■1■ 10月3日(金) 生物室
優耶が死んだのは夏休みに入って数日がたった頃だった。あちこちに用事があったらしく、日本に帰国しても家にいることはほとんどなく、毎日どこかしらに出かけていた。僕も夏休みと言うことで学生寮には残らず家に帰省していたが、優耶と落ち着いて話せる時間はほとんどなかった。八月も下旬になってからだっただろうか、何日か家に戻らないことがあった。青森に行く……ただそれだけの言葉を残して。そして青森から戻ってすぐに、優耶は深い、永遠に覚めることの無い眠りについた。
優耶はいったい日本に戻って来て、何をやっていたのか。その数日、優耶が何をしていたのかは、結局分からずじまいだった。僕の頭に住み着いてからも、そのことに関しては頑なに話そうとはしなかった。
「花園学園七不思議2……生物室の人体模型が人知れず動き出す……ま、ありがちな怪談だわね」
そう言って真知子は舌打ちした。
人知れず動くだけなら、人知れずそっとしておいてあげればいいのに……と思ったが、口にするのはやめた。僕が言ったところで真知子が今から引き返すとは思えない。
あたりが暗くなり始めている生物室のドアの前で、僕たち花園アソートは人体模型が動き出すのを待っていた。プールの件から二日後のことだ。
「いい加減、今日はもう帰ろうぜ」
和十が言うのも当然だ。もうかれこれ2時間は生物室の前で待ち続けている。僕も今日は引き上げた方がいいんじゃないかと思った。
「何言ってんの。幽霊に会うには努力と忍耐が必要なの」
やる気に満ちた声で真知子が言う。
(努力してまで会いたいとは思わないんだけど……)
そう僕が思った時だった。生物室の中から突然、ゴトッと何か物が倒れたような音がした。僕達は思わず顔を見合わせた。
「やった、来たわね!」
待っていましたとばかりに(実際に待ち焦がれていた訳だが)真知子が立ち上がる。
「寧音ちゃん、みんな、準備はいーい? れっつごー!」
準備はいいかと聞いておきながら、真知子は返事も待たずに寧音の手を取って立ち上がった。
相変わらずゴーイングマイウェイな性格だなぁ。
真知子は十秒ほど生物室のドアに耳を当てて中の様子を探った後、引き戸の取っ手に手を当てた。がらがらという音と共に、立て付けの悪いドアが開く。
真知子、和十、寧音、僕の順番で僕たちは生物室の中に入って行った。中は薄暗くて良く見えなかったが、人体模型のあるべき所に何も無いことは見て取れた。
「人体模型、ここには無いぞ」
「私が午後に確認した時は、黒板の横にあったけど……準備室の方に動かしたのかなー」
生物室の中を見回しながら、真知子が言う。
「ともかく、人体模型を探そっか。私と寧音ちゃんはこの部屋の死角になってるところを探すから、和十と賢は隣の生物準備室から調べて頂戴」
そう言って真知子は部屋の電気のスイッチを入れたが、電気はつかなかった。嫌な予感を感じつつ、僕と和十は心して生物準備室へと向かっていった。
「しっかし、本っ当に不気味だな、生物準備室ってやつは」
僕より先に生物準備室の中に入った和十が、吐き捨てるように言った。
「確かに、長居して気分のいいものじゃないね」
言いながら僕も生物準備室に入る。
「こんだけあれば怪談の一つも作りたくなるわな、そりゃ」
二人だけになって、随分と口数が多くなる。お互い不安で、何か話してないと気が持たなかった。
「でもま、人体模型が動くって、何の抵抗も無くそうか、って受け入れてたけど、改めて考えると……」
言いながら先を行く和十の言葉が止まった。
「どうしたの?」
僕は和十のいる部屋の奥の方を見て言った。
「いや、何か妙なにおいがするなと思って……」
和十がそう言った時だった。急にガラスが割れる音がしたかと思うと、気持ちが悪くなるような甘い刺激臭が鼻を突いた。
「これはっ!」
僕は思わず鼻を覆ったが遅かった。頭がくらくらする。甘いような酸っぱいような、一度嗅いだら二度と忘れない独特の臭気……ホルマリンだ。不意のことで思いっきり吸い込んでしまい、めまいがしてきた。吐き気もする。ガラスの割れる音は絶えることなく続いている。僕は思わず目を閉じた。
……
…
どれだけ目を閉じていたか全く分からない。ほんの数秒の事にも思えたし、数分が過ぎたような気もした。ガラスが割れるけたたましい音とホルマリンの臭気で、どうにかなってしまいそうだった。ガラスの割れる音が途絶えると、辺りが急に静まり返る。僕はゆっくりと目を開けた。そこには……目の前には、人体模型がいた。
「賢っ……」
優耶の声が頭に響く。その声を最後に、優耶との交信が途絶えたのを感覚的に感じる。僕はくらくらする頭をおさえて目の前の人体模型を見上げた。何も言わない無機質な人体模型は、静かに佇んでいた。目が朦朧としてくる。あれだけ瓶が割れて水浸しになっていたはずの床は、いつの間にか綺麗になっていた。ホルマリンの臭気も消え失せている。
(ヤバい……。死ぬ……のかな……。優耶……なんとかしてくれよ……)
「和十! 賢!」
真知子の声だ。隣の部屋にいた真知子と寧音も生物準備室の異変に気付いたらしく、バンバンと外からドアを叩く音がした。目を向けると、閉めた記憶のないドアが、いつの間にか閉じられていた。
意識がハッキリしてきた僕は、渾身の力を込めて人体模型を蹴飛ばした。ガチャンと音がして、人体模型は奥の壁まで突き飛ばされた。それを見た和十が、重い足取りで僕の側にやってくる。
「賢、前のやつまた出してくれよ! ほら、あの、なんとか炎ってやつ!」
和十が僕を正面から見て言った。
「そ、そんな急に言われても……」
全神経を集中させるあの感覚……今この状況であれを再現しろと言われても、恐怖で足がすくんでしまい、できそうになかった。
僕が気まずくなって顔を背けると、ちょうど棚のガラスに反射する人影が見えた。しかし、本来なら僕自身が映るであろうその場所に映っていたのは、僕ではなく優耶だった。
優耶はこの前、幽霊が現れて霊的な磁場が乱れると、僕と優耶が直接接触できるようになるとか言ってた気がする。今回もその時と同じく、鏡やガラスを通して、優耶と直接接触できるのだろうか。
いや、今はそんな細かいことはどうでもいい。とにかく優耶とコンタクトを取れるか試してみないと。
「優耶、話せる?」
僕はガラスに映った優耶に訊いた。
「うん、良好だよ」
優耶は優しい声で答えてくれた。
(よかった……)
「ねえ優耶、どうすればいい?」
「前と同じやり方では人体模型は破壊出来るけど、憑依している霊そのものを倒すことは出来ないと思う」
優耶は続ける。
「今回の敵は人体模型そのものじゃない……人体模型はいわばただの依代。人体模型を破壊しても、壊れた瞬間に逃げて、新たな人形ひとがたに乗り移るだけ。元を倒さなきゃならないんだ。そのためには寧音君の力を借りないといけないかもしれない」
「寧音の?」
「そう。できれば彼女に霊を依代……つまり人体模型に固定して閉じ込めてもらうんだ」
「そんなこと出来るの?」
「寧音君がそういった能力の使い方ができるかは分からないけど、とりあえず聞いてみないと」
「分かった」
そう言って僕は人体模型に向き直った。
人体模型は起き上がり、がちゃがちゃと音を立ててこちらに向かってくる。
「賢君! 竜崎君!」
ドアが開き、タイミングよく寧音が、続いて真知子が部屋に入ってきた。
「寧音、いきなりだけど、この人体模型に憑依してる霊を逃げ出さないように閉じ込めることって出来る?」
僕が聞くと、寧音が怪訝な表情を浮かべる。
「それは……難しいと思います。わたしが使った鏡壁は自分を守るために張るもので、閉じ込めるのとは原理が違うので……」
寧音は困ったように言った。
「そっか……」
僕たちが会話してる間も、人体模型はどんどんこちらに向かってくる。
(もうダメか……いや、最悪逃げられても、この場だけでもなんとか切り抜けられれば……)
僕が紫雷炎の準備をしようとしたその時、生物室の方からもの凄い勢いで一枚の紙切れが飛んできて、人体模型の頭に勢いよく張りついた。それと同時に人体模型の周囲に電撃がほとばしり、人体模型の動きは完全に停止する。
「……!」
驚きの表情を見せる真知子。
(あれは……御札?)
達筆な文字と独特な模様が書かれた、護符のような紙切れ。それが人体模型の頭に張りついていた。
「霊が人体模型に固定されてる……賢、今だ!」
優耶の声が頭に響く。気分は落ち着いており、今なら紫雷炎を出せそうだった。僕は目を閉じ、右手を前に突き出し、全身の感覚を研ぎ澄ませた。左手も右手を支える形で持ち上げると、バチバチッと両手に電撃が走った。その直後に黒紫の炎──紫雷炎が掌の上に出現して燃え盛る。前に出した時よりも、少し大きくなっている気がした。
(よし、いける……!)
全身の感覚が指先に集まるのを感じ、僕はその炎を思いっきり解き放った。前と同じ、鈍くて重い反動が全身に伝わり、急に全身の力が抜けていく。それは、停止した人体模型に近づくと、音もなく衝突した。同時に、人体模型の中から白いモヤのようなものが出てきて、炎に焼かれて小さくなっていく。その炎がフッと消えると、残された人体模型はガラガラと音を立てて崩れていった。
……
…
「しっかし賢、本当にすごいな。あの……なんとか炎」
教室へ荷物を取りに戻る途中、和十が口を開く。
学校の備品である人体模型は、幸いにも多少傷がついただけで壊れた部位はなく、元の通りに組み直すことができた。
「この前の時よりも大きかったよね、あの紫雷炎!」
真知子が目を輝かせながら言う。
「紫雷炎の名前、真知子はよく覚えてるね」
「もちろん! あんなカッコいい必殺技の名前、忘れるわけない!」
僕が言うと真知子は得意げに胸を張った。
優耶に続いて真知子も……必殺技という言い方、こそばゆいぞ。
「今回はお役に立てず、ごめんなさい……」
寧音がうなだれた様子で言う。
「えっ、そんなことない。助けに来てくれて心強かったよ!」
僕は慌ててフォローする。
「僕の方もごめん、つい状況も説明せずにお願いしちゃって……」
「いえ、賢君は……」
言いかけて、寧音の言葉が止まる。少し考えるような仕草を見せてから、言葉を続ける。
「そういえば、飛んできたあの霊符……あれは一体誰が放ったんでしょう?」
寧音は僕、真知子、和十と順番に顔を向ける。
誰も反応しないということは、誰も心当たりがないということなんだろう。
「ままっ、結果オーライっつーことで」
和十が笑いながら明るく言った。誰も心当たりがないなら、今ここで考えても仕方ないな。
僕たちは教室で各々の荷物を回収すると、そのまま解散した。