■1■ 10月2日(木) プール
日没も近い時刻、薄暗い校舎の中、僕たち四人はプールの更衣室前の入り口で佇んでいた。真知子が提案した花園学園ナントカいうので駆り出されたのだ。
「いい? 花園学園七不思議1……誰もいないはずのプールで水をかきわける音がする……今日はこの怪談を調査するよ」
真知子が声を押し殺して皆に言った。別に声を小さくしたからどうこうというわけではない。ただ、真知子も雰囲気に圧倒されているところがあるのだろう。自然と声のトーンも低くなっていた。
「でもその噂、本当にアテになるんだろうなぁ」
和十が気乗りしないといった口調でつぶやく。なんだかんだ文句は言っても、結局は和十も参加しているのだが。
「しっ! 黙って……」
真知子が指を口の前に当てる。和十もそれっきり黙りこくってしまった。寧音は何も言わず、ただ静かに周囲の状況を窺っていた。
……
…
暫くの間、何も起きることなく時間だけが過ぎていった。そうしてしばらく耳を澄ましていると、ぴちゃん、ぴちゃんと水の滴る音が聞こえ始める。
「この水の音……どうやら、おでましみたいだね」
優耶が嬉しそうに言う。
「えらく楽しそうだけど、なんでそんな事分かるんだよ」
七不思議では確か、水をかきわける音だった気がするけど。
「兄ちゃんには分かっちゃうんだよな、これが」
優耶は変わらぬウキウキ口調で言う。
優耶は僕の前でだけ、一人称が兄ちゃんになる。たかだか十分そこそこ生まれが早いだけなのに、自分が兄だということを強調したいんだそうな。僕はと言えば、兄ちゃんと呼ぶのに何となく抵抗があるので、あえて優耶と呼び捨てにしている。僕と優耶の微妙なバランス関係がそこにはあった。
そうしてしばらく物思いに耽っていると、真知子が不意に男子更衣室へ続くドアを開けた。
「……行くよ」
真知子に促され、僕たちは静かに中へと入っていった。
「まだ音がするわね……」
更衣室を横切り、プールサイドへ続くドアの前で真知子はつぶやいた。水の滴る音はいつの間にか、ぱしゃぱしゃと水を打つような音に変わっていた。
「ここが正念場ね……」
真知子はそっとドアノブに手をかける。がちゃりとドアノブの回る音がして、ドアは音もなく開いていった。
「……」
夕暮れの室内プールは、湿気が充満していて薄暗く、視界が悪かった。真知子がケータイのライトをつけて周囲を探ると、ライトの光が右へ左へと動く。真知子はゆっくりとプールに近づいていった。僕達も後に続く。右にはプールがあり、左には控え室がある。薄暗いプールは、時折波が光を反射して、波の模様が浮かび上がった。ぱしゃ、ぱしゃという水の音はプールのいたるところから聞こえてきた。十…いや、二十以上の『何か』がプールの中にいる気配がした。それが重なり、不気味な賑わいを呈している。その時突然、真知子が来た道を駆け足で戻り始めた。
「真知子!?」
和十の声がプールに響く。真知子はそのまま入り口まで戻ると、急に電気のスイッチを入れた。ぶぅんと蛍光灯がうなる音がしたかと思うと、ばちっと音がして、つきそうになっていた電灯の光が消えた。そして、何もなかったかのように水の音だけがばしゃ、ばしゃと屋内に響き続ける。
「真知子ちゃん……」
寧音がそう言った時、それまで聞こえていた水の音が急にやんだ。そして、こんどはぴちゃ、ぴちゃと何かがプールサイドを歩く音がする。真知子はゆっくりと僕たちのところに戻ってきた。足音はまだ近づいてくる。前から?いや、右から…でも左からも聞こえる……しかし、ケータイの光で照らされたのは、白いプールサイドと、透明なプールの水だけだった。僕達四人は自然と背中を合わせる形になって、全員で周囲を警戒する形になった。寧音もケータイを取り出して辺りを照らすが、やはり相手の姿は見えない。けれど、足音だけが確実に迫ってきていた。
「ど、どうするんだよ。近づいてくるぞ……」
和十がこわばった声を上げる。あまりの怖さに動くことも出来ないといった様子だった。
「優耶、どうすればいいの、これ……」
優耶に呼びかけてみたが、返事がなかった。足音は、もうすぐそこまで来ている。初めて、暗闇の中に人のような影がうっすらと見えた。プールを背景にしてゆらゆらと揺れている。
「優耶、優耶ってば!」
思わず声が大きくなる。
その時、不意に寧音がその影の前に飛び出していった。何か、うっすらと光る長い棒のようなものを手に持っている。背丈よりも高い長さがあり、先が緩く曲がっているそれは、薙刀の形をした得物のようだった。
「寧音ちゃん!」
真知子が呼ぶと、寧音は切先で高さ二メートル程の楕円を虚空に描く。すると、円で囲まれた部分に、ガラスのように光を反射する膜が出現した。同時に、暗闇でゆらめく影の動きがピタリと止まる。
和十は、寧音の行動で動くことができるようになったようで、後ずさりながらドアの所まで下がった。僕は何もできず、その場に立ちすくんでいた。
「優耶、優耶っ!!」
そう言ってプールに近づき、水面に映る人物を見たとき、僕は気がついた。
「優耶!」
本来であれば僕の姿が映るところ、水面に移っていたのは優耶だった。その姿はゆらゆらと水面に揺れている。
「賢……落ち着いて、今から兄ちゃんの言うことをよく聞いて」
優しい表情の優耶だった。
「えっ……う、うん」
言われるがままに頷き、優耶の言葉を待つ。
「賢には、あいつ……あの黒い影を倒せる力がある」
「倒せる力?」
「そう、簡単に言うと霊能力……あるいは超能力と思ってくれてもいい」
「霊能力って……」
優耶には昔から霊感があったし、霊能力もあった。優耶のそういう話は聞いていたし、いくつか心霊現象を解決したという話も聞いていた。でも僕にはそういった能力はなかったし、生前の優耶にそういうことを言われたこともなかった。
「今は説明してる時間がないから省略するけど、賢にはその才能がある」
「才能って……」
まったくもって実感がわかなかった。
「賢の能力については生前から気づいてたんだけど、あえて言ってなかった。ごめんね」
申し訳なさそうに優耶は言った。分かってたんなら生きてるうちに教えてよ……と思ったが、心霊現象に関わると危険が伴う場合もあると聞く。おそらく優耶は僕の身を案じて、あえて言わなかったんだろう。優耶にはそういうところがあった。
「それより賢、今から兄ちゃんの言うとおりにしてほしい」
真剣な表情の優耶。
「……わかった」
気になる点は多々あるが、今は悠長に話を聞いている場合ではなさそうだ。
「まず水面に手をつけて……五感の全てを指先に集中させて……」
「うん」
僕は屈みこみ、優耶の言うとおり右手の人差し指と中指を水面につけた。夜のプールの水はとても指先に冷たく、神経を集中しやすかった。
「そして、いいかい? 力を抜いて、精神を集中するんだ。怖がらないで。リラックスして……」
「うん……」
僕はこくりと頷いた。
「自分の呼吸を意識して……一つ、二つ、三つ……」
言われた通り、自分の呼吸に意識を向ける。
(一つ……二つ……三つ……)
全神経を右の指先に集めると、バチッと指先と水面の間に電撃が走った。続いて、拳くらいの大きさの黒紫の炎が出現した。
(これは……)
「そのまま掬い上げて、立ち上がって……」
優耶の声に導かれるままに動く。バチバチと電気を帯びた黒紫の炎が、右手の指先で燃え盛っていた。
立ち上がってはみたものの、右手がゆらゆらと揺れて安定しなかったので、左手で右手首を掴んで揺れを抑えた。バチバチッと左手と右手首の間に電撃が走ったが、まったく痛くはなかった。
「その炎を指先からあいつに向けて放つんだ」
僕は優耶に言われた通り、指先をあの黒い影に向ける。ボールを放るイメージでその黒い炎を指先から放つと、とても強力な、そして鈍い反動が体全体に伝わり、同時に全身の力が抜けていくのが分かった。僕の手から放たれ、バチバチと電気を纏った炎は、ゆっくりと寧音の横を通り過ぎ、そのまま黒い影に衝突した。その直後に黒い影が大きく燃え盛り、その後はどんどん小さくなっていく。米粒ほどにまで小さくなった炎は、最後にフッと風に吹き消されるようにして消滅した。
静かだった。水の音もやみ、寧音も黙っている。暫くの間、誰も何も言わなかった。ただプールの水面だけが、薄暗い外灯の明かりを反射していた。
「け、賢、何あれ?」
最初に口を開いたのは和十だった。
「え?」
思わず僕も聞き返す。
「だから、さっきの、黒っぽい電撃というか、炎というか……」
「賢、いつの間にあんなの出せるようになってたの!?」
和十の言葉が終わらぬうちに真知子が口を開く。真知子は激しく興奮している様子だ。寧音だけは、不思議がっている様子もなく、じっとこちらを見て何か考え込んでいる様子だった。
「あれは……」
優耶は霊能力や超能力みたいなものと言っていたが、自分でもよく分かっていないので、言葉に詰まる。
「紫雷炎」
不意に耳元で優耶がささやく。
「しらいえん?」
「しらいえんって、何それ?」
僕が思わず復唱した言葉に、真知子が興味を示す。
「紫の雷の炎と書いて紫雷炎。あの炎に正式な名前があるわけじゃないけど、便宜的に何か名前をつけておかないと不便だからね。一種の霊能力と考えておけばいいよ」
優耶がすらすらと説明する。
「えーっと、紫の雷の炎と書いて紫雷炎。霊能力みたいなもの……かな?」
真知子の質問に答えてはみたが、最後は思わず疑問形になってしまった。
「へぇー……賢って霊能力みたいなの持ってたんだね」
真知子が納得したように言う。
「お兄さんも有名な霊能者だったよね。賢にもそういう能力があってもおかしくはないけど、びっくりしちゃった」
真知子は納得したように言う。
(優耶って、有名だったんだな……)
真知子はオカルト研究会なるものを立ち上げていて、心霊関係についても色々と詳しかったりする。僕と和十もも中学に入って早々に真知子に誘われたが、三か月もしないうちに幽霊部員──いや、幽霊研究会員か──になってしまった。あのオカルト研究会、まだ続けてるのかな。
「さてさて、怖い霊も撃退できたことだし、この場はさっさと退散しよっか」
そう言って意気揚々と出入口に向かう真知子の後を追って、僕と和十、寧音の三人もプールを後にした。