■1■ 10月10日(金) 保健室
「花園学園七不思議5……誰も寝ていないはずの保健室のベッドに寝ている人物がいる……残念ながら私と和十は参加できないけど、賢、寧音ちゃん、頑張ってね!」
真知子は明るく言ったが、いつものようなハキハキとした元気はなかった。今回、和十と真知子は別室で待機することになっている。助っ人が誰なのか、先生は最後まで教えてくれなかったけど、後から合流するらしい。
「今回の霊は、保健室に生徒が一人でいる時にしか出てこない霊なんだって。それで、今回の方法だけど……」
……
…
そして今に至る。放課後、僕はカーテンで仕切られて五つ並ぶベッドのうち、一番廊下に近いベッドで横になって待機していた。
真知子が提案した作戦は、誰か一人が保健室に残り、霊が出てきたら外で待機している残り二人と保科先生が突入するというものだった。保健室で霊をおびき出す囮役を僕と寧音、どちらがやるかという話になったが、僕が立候補した。危険な役ではあるが、紫雷炎は何度か使ったことにより、より早く、より正確な攻撃ができるようになってきている。万が一助けが入れない場合でも、何とかできそうな見込みはあった。
「優耶、何か感じる?」
僕は優耶に話しかける。保健室のベッドに横になって三十分程度。外は既に日没の時刻を過ぎており、夕闇が窓の外を覆っていた。保健室の蛍光灯が煌々と室内を照らす。
「うん。確実にいるね。今はまだこちらの様子を窺ってるみたいだけど」
先生の話では、この部屋の霊は包丁を持った女の霊らしい。ただベッドで寝てるだけではなく、包丁を振りかざして襲ってくる、凶悪な霊と言っていたけど……。
少し思考に耽っていると、不意に隣のベッドから人の気配を感じた。
(きたか……?)
僕は妙に冷静だった。保健室は僕一人しかいないはずだったが、隣のベッドに全神経を向けると、確かに誰かがいるのを感じる。保健室のすぐ外には寧音達が待機しており、他の生徒が入って来られないようにしている。誰かが寧音や先生の前を素通りして、こっそり保健室の中に入ってくることはあり得ない。
「……誰?」
返事はなかった。寧音や先生でもない。布のすれる音がして、カーテンにぼんやりと人影が現れた。
(間違いない……)
僕は枕元に置いていたホイッスルを手に取ると、ピィイイイと長く鳴らした。これが何か起きた時の合図だ。けたたましい笛音は部屋中に響き渡り、反響して返ってきた。
(一、二、三……)
秒数を数える。十秒経っても寧音達が突入してこない場合は、何か寧音達が突入できない事態が発生したと判断し、今回の作戦は中止ということになっている。
(五、六、七……)
あたりはしんと静まり返っている。カーテンの影はベッドの上で立ち上がり、ゆらゆらと音もなく揺らめき始めた。
(……九、十)
「賢、作戦は中止だ」
優耶が言う。
「うん」
今日まで保健室で霊を封じていた護符を手に握る。これは壁に張り付けることで、部屋の中にいる霊を封じることができる護符とのこと。僕はそれを壁に張り付けるため、ベッドの縁へと身を動かす。
その時だった。急に部屋全体がドンッと大きく縦に揺れたかと思うと、ベッド、カーテン、棚、机、椅子……部屋中の物がガタガタと激しく振動し始めた。
「くっ!」
(地震……いや、ポルターガイストか!?)
部屋全体が揺れる騒霊現象……以前、真知子から話を聞いた事があった。
縦にも横にも激しく揺れるベッドから放り出された僕は、そのまま吸い寄せられるように出入口近くの壁に叩きつけられた。辛うじて頭は守ったが、背中と脚に激痛が走る。壁に張ろうとしていた護符は僕の手を離れて宙を舞い、ビリッと音を立てて真っ二つに裂けた。
「ぐ……」
不意に、部屋の揺れがピタリとやんだ。目の前の状況を確認する。保健室内の明かりは全て消え、廊下側の出入口から入ってくる微かな光だけが、保健室の中を照らしている。自分が今、とても危険な状態にあることはすぐに理解できた。
「賢、急いで撤退だ」
優耶の声は張り詰めていた。今さっき破れた護符が地面に落ちている。それは既に、ただの紙切れになっていた。
僕はすぐ横にある引き戸を開けようとしたが、ガタガタと音が鳴るだけで、まったく開かない。引き戸のガラスは曇りガラスになっていて、外の様子も分からなかった。
「賢君、いますか!?」
外から寧音の声が聞こえた。
「寧音! ここにいるよ!」
寧音の声を聞いて少し安堵する。完全に外部から遮断されたわけではないみたいだ。
「閉じ込められたみたい。護符も破れた」
僕の言葉を聞いて、外で息をのむ気配がする。
「春日君、わたしの机の一番下の引き出しに予備の護符が入ってるから、それを使って!」
保科先生の声だ。
「予備の護符……ありがとうございます!」
僕は急いで先生の机の引き出しを開けた。
「あった!」
破けてしまった護符と同じ模様が描かれた護符。それを手に取り、立ち上がった。そのまま急いで壁に向かい、護符を張り付けようとした。その時……。
「……!?」
急に金縛りにあったように全身の自由がきかなくなり、身動きがとれなくなる。
「賢、どうした!? 早く護符を……」
優耶の慌てた声が聞こえる。
「う、動けなくて……」
後ろを振り向くこともできない。が、背後から感じる気配……何かが、いるのだ。全身に力を入れて動こうとしたが、やはり動けなかった。
「賢……ッ……」
優耶の言葉の最後、ジャリッと砂が潰れるような音が耳の中に響き、同時に優耶との交信が完全に途絶えた。
「くっ……!」
その時、不意に体が動くようになり、僕は慌てて振り返った。
「えっ?」
目の前には西洋人形を大事そうに抱えた、七、八歳くらいの女の子がいた。しかし、それが普通の女の子でないことは、雰囲気からすぐに分かった。
女の子は人形の両手を左右の手で持つと、器用に動かして人形の手を合掌させていく。それに同調して、僕の手も人形の手に合わせて合掌していった。手に持っていた護符は僕の左右の両手に挟まれる形になり、合掌した後は動きがピタリと止まった。
ギリリ……と音がして、少女は人形の手を強引に擦り合わせていく。それに合わせて、僕の両手も護符をすり潰すようにゆっくりと動いていった。手に汗が滲み、護符が湿っていく。そして少女が勢いよく人形の手を擦り合わせると、僕の掌の内にあった護符は、音もなく破れて地面へと落ちていった。その少女は正面から僕を見据えると、人形の両手の合掌をほどく。そして愛おしそうに人形を両手で抱き締めると、にっこりと笑みを浮かべた。同時に僕の手の合掌もほどけ、身体の自由も戻ったが、僕はただただその場に立ち尽くすことしかできなかった。
(この子は……)
続いて、人形少女の向こう側、ベッドを仕切るカーテンに、ゆらりと揺れる人影が見えた。その影はゆっくりと、音も立てずにカーテンの裏から出てくる。それは、白のワンピースを着て、首から胸にかけて血を流した若い女だった。蒼白の肌に長い髪、右手には包丁を持っている。首と両手をけだるそうに垂らして、その女はゆっくりと僕に近付いてきた。
人形少女の横に並ぶと、白服の女はピタリと動きを止めた。そして数秒の沈黙。
(あ……これ、僕は死ぬのか……)
妙に冷静だった。動こうと思ったが、再び身動きがとれなくなっていた。身体の自由を奪われ、なす術がない。
人形少女は、よりいっそう強い力をこめて人形を抱き締める。同時にビリッと全身に鋭い痛みが走った。そして白服の女はゆっくりとした動きで包丁を持ち上げ、高く掲げた。
紫雷炎を出したかったが、指の先まで動かない。もう何もできない。
(万事休す……か)
そう思った時だった。
「オンキリキリバザラウンハッタ!」
突然、保科先生の声が聞こえたかと思うと、保健室の引き戸が勢いよく開き、まばゆいばかりの光が差し込んできた。
「春日君!」
「賢っ!」
強く手首を掴まれ、保健室の外へと勢いよく引っ張り出される。
「迅雷符!」
「臨狐闘狼倶現率在前っ!」
僕と入れ替わりに、二人の女生徒が勢いよく保健室に入っていった。
「保科先生……それに真知子、和十も……」
「よかった……!」
保科先生は僕の両肩に手を乗せた。目にはうっすらと涙を浮かべている。
「ふーっ、間に合ってよかった」
汗びっしょりになった和十が言う。
「……泣いてる場合じゃないわね、みんなこっちへ」
目尻の涙を指で拭うと、保科先生は僕たちを保健室から離れた廊下の反対側へと誘導した。
「春日君、怪我はない?」
「はい」
まだ助かったという実感はなかった。どこか頭がぼーっとしてしまっている。
別室で待機していたはずの和十と真知子がこの場所にいる理由は分からないが、もしかしたら開かなくなった保健室のドアを開けるのを手伝いに来てくれたのかも知れない。
「ごめんなさい……完全にわたしの手落ちだったわ……」
保科先生は俯きながら言う。
「いえ、僕は大丈夫です。助けに来てくれてありがとうございます。それより……」
保健室の中に目を向けながら言う。
「幸恵ちゃんが来てくれたんですね」
「ええ。もう大丈夫。保健室には外から結界を張ったから、廊下は安全よ。あとはあの二人に任せておけば、心配いらないわ」
「でも……」
事前に知らされていた白服の女の霊……正直、この霊単体であれば、僕の紫雷炎で何とかできたと思う。しかし、保健室にはもう一体、別の霊がいたのだ。しかも、もう一体の霊の方が危険度は高い。
「あの少女の霊のこと、二人に伝えないと……」
「賢、待って」
僕が動き出そうとした時、頭の中に響く声があった。
「優耶?」
保健室の外に出たからだろうか。優耶と再び会話できるようになっていた。
「先生の言うように、今はあの二人に任せても大丈夫かもしれない」
「なぜ?」
保健室の中に目を向けると、人形を抱えた少女は何もせず、ただ立ち尽くしているだけだった。
寧音は霊薙を器用に扱い、白服女の包丁による攻撃をいなし、勢いそのままに反撃を加えている。白服の女も包丁の柄で寧音の反撃を防ぐが、隙をついては後方から幸恵ちゃんが護符を飛ばしている。素人目にも形勢はこちらが優勢に見えた。
「このままいけば、おそらく桂木君と大宮君は白服の霊に勝てると思う。そちらがいなくなれば、あの少女の霊の対処はそう難しくないはず」
「でも、あの人形の術を使われてしまったら……」
「仮にあの少女が桂木君か大宮君、どちらか片方を束縛したとしても、動ける方がすぐに状況を理解して対処することはできるんじゃないかな」
「でも、あの術で束縛できるのが一人とは限らないよね?」
「もちろん、二人以上に術をかけられる可能性はゼロじゃない。でも……」
少し間をおいてから優耶は続ける。
「あの人形による束縛は、一度に一人だけしかできない可能性が高い」
「そうなの?」
奥にいる少女の霊は、寧音や幸恵ちゃんに対して人形による束縛を行っている様子はなかった。ただただ、他の三人の戦いを見て右往左往している。
「あの子が持ってる人形は一体しかないし、仮に二人以上の動きを同時に封じることができるなら、既に二人の動きを同時に封じる行動に出てると思う」
優耶は状況を確認しながら、一つ一つ冷静に推論を重ねていく。
「おそらくあの少女の霊は桂木君と大宮君、どちらを束縛するかを決めかねているんだと思う」
一応、今目の前にある状況を説明できる内容ではあるけど……。
「万が一、術の対象が複数可能だった場合は?」
「その場合も、賢は保健室の外で待機した方がいい。もし賢が中に入ってしまったら、賢も含めて一網打尽にされてしまう可能性があるからね。そうなったら本当に為す術なしだ」
「……分かった」
保健室の中では、寧音と幸恵ちゃんが優勢という状況が続いていた。
「迅雷符!」
幸恵ちゃんの放った護符が白服の女の持つ包丁に直撃し、女は包丁を落とす。腰の後ろに持った別な包丁を手に取ろうとしたが、寧音がそれを許さない。霊薙で相手の右手を払うと、そのまま円を描くようにして反対の左側から攻撃し、相手の体勢を崩す。そこへすかさず幸恵ちゃんが正面から追撃の構えをとる。
「縛雷符!」
「ギギギギ……ググ……ァァァアアア!」
胸の真ん中に護符が直撃した白服の女は、苦悶の叫び声をあげる。それを見て、寧音は霊薙を胸の前へと持っていき、垂直に立てた。
「臨……狐……闘……狼……」
寧音の雰囲気から、これで終わらせようとしていることが伝わってきた。
「アァ……ァァ……!」
その時、それまでただ狼狽えながら見ていただけの人形少女が、言葉にならない声をあげながら西洋人形を寧音の方へと突き出した。
「まずい……!」
「いや、待って」
僕が保健室の中へ足を踏み出そうとするのを、優耶が止める。
「縛雷符!」
人形少女に向けて、幸恵ちゃんの護符が一直線に飛んでいく。バチッと高い音がして、少女が持っている西洋人形の額に幸恵ちゃんの護符が直撃した。
「……倶……現……率……」
「アァァァァァァァ……!」
電気がほとばしる西洋人形を手から落とし、膝から崩れ落ちる少女の霊。
「……討……是!」
言うと同時に、寧音は渾身の力を込めて霊薙による突きを繰り出した。
「ギァァァァァアアアアア!」
胸の真ん中を貫かれた白服の女から、大量の白い煙が出てくる。しばらくすると、女の声が少しずつ小さくなっていき、女の周囲を漂う煙も徐々に消えていく。それと共に、白服の女の霊は静かに消滅していったのだった。
……
…
「ゥゥッ……スン……」
煌々とした明かりが戻った保健室に、少女の霊がすすり泣く声だけが響く。白服の女が消え去った後、幸恵ちゃんの護符で動きを封じられた少女の霊は、抵抗することもなく、ただただその場で泣いていた。
「……なんだか、可哀想だな」
和十がつぶやく。和十や真知子を含め、全員が保健室の中にいた。
「同情は禁物です。早く滅しましょう」
幸恵ちゃんはそう言って人形少女に冷たい視線を落とす。
「そうですね……」
寧音は少し悲しそうに少女の霊に目を向けた。
実のところ、この少女の霊については、誰も何も分からなかった。凶器を持ち、明確に殺意を持って襲ってきた女の霊とは違い、この子は僕を操り、護符を破らせた、ただそれだけだった。僕自身は、白服の霊と結託して僕を殺そうとしてきたと思ったが、今の人形少女の様子を見ると、そう単純な構図でもないような気がしてきた。
「ちょっとごめんねー」
そう言って僕と和十の間を通り抜けたのは真知子だった。そのまま少女の霊に近づいていく。
「ま、真知子!」
「大丈夫です。あの霊はもう動けません」
和十が慌てて真知子を止めようとしたが、寧音がそれを制止した。
「……」
真知子は無言で少女の前にしゃがみこみ、落ちていた西洋人形を拾う。そして静かに目を閉じ、しばらくじっと動きを止めた。
「……うん、大丈夫」
そう言って、真知子は人形を持ったまま立ち上がる。
「真知子先輩……?」
怪訝な表情を浮かべる幸恵ちゃん。
「この霊は、きっと悪い霊じゃないよ」
僕たちの方に振り返ると、真知子は明るい表情を見せる。
「この霊……この子は多分、みんなと遊びたかっただけなんだよ」
「遊びたかった?」
和十が聞き返す。
「そう。お人形さんごっことでも言えばいいのかな……持ってる能力が強いから、ちょっと危険な遊びにはなっちゃったけど」
僕の方を見ながら真知子は言う。
「そう言われると、そうだったような、そうでもないような……」
「賢、はっきりしろよ」
和十に催促されたが、人形少女に操られ、身体の自由を奪われた時の恐怖感を思い出すと、遊びの一言で済ませてしまうのは少し抵抗があった。
「賢を操って護符をビリビリに破かせたのは、単に自分の身を守るため……だったんじゃないかな?」
「たとえそうだとしても、この霊は脅威です」
真知子の言葉に対して、間髪を容れず幸恵ちゃんが言い放つ。
「うーん……身を守るためだったと言われると、確かにそうだったのかも知れないけど……」
「先輩がたは考えが甘すぎます。いい霊も悪い霊も関係ありません。今すぐに滅するべきです」
「それなら……この霊のことは、わたしに一任してくれませんか?」
そう言って一歩前に出たのは寧音だった。
「桂木先輩、正気ですか?」
幸恵ちゃんは眉をひそめて寧音を見る。
歯に衣着せぬ物言いというのは、こういうのを言うんだろうな。
「もちろん。悪い霊じゃないなら、きちんとした手順で浄霊してあげたいと思います」
寧音はにっこりと笑みを浮かべた。
「……分かりました。私は今後この霊には関わらないので、あとは先輩方の好きにしてください」
小さくため息をつき、無表情になった幸恵ちゃんは、淡々と言った。
「さて、お話はまとまったみたいね」
それまで黙って僕たちのやりとりを聞いていた保科先生が口を開く。
「この霊は、いったんヒトガタの中に入ってもらいましょうか」
先生は机から取り出した木製のヒトガタを手にすると、少女の霊へとかざす。
パァッと光の粒が舞い上がったかと思うと、一瞬で少女の姿は見えなくなった。鏡の霊を閉じ込めた時のようにカタカタと揺れることもなく、そのヒトガタは静かに保科先生の手の内に収まっていた。
「んーっ! これにて保健室の七不思議、一件落着、だね♪」
そう言って、真知子は満面の笑みを浮かべた。