ep.54|九尾音楽堂、受難|ジロキの奮闘1
薄暗い部屋に、ろうそくの炎が揺らめく。その光は、壁に張り付いた影たちを不気味に踊らせていた。
「──これを見てみろ」
不気味な威厳を漂わせる老人の声が、薄暗い部屋に響き渡る。その声は低く、その一言で、空気が凍りつくようだった。
老人の前には、一面の琵琶が置かれていた。それは、一目見ただけでその価値がわかるほどの逸品だった。淡い青色の塗装が施された琵琶は、まるで龍の鱗のように輝きを放っている。その姿は、部屋の暗さを一掃するかのようだ。
「……チセヤ」
老人の目が、獲物を狙う猛禽のように鋭く光る。
「貴様のところの工房で再現できるか?」
老人の鋭い眼光が千勢屋の主人こと『チセヤ』に向けられる。彼は一瞬たじろぎ、乾いた喉から声をしぼり出した。
「いえ、これは……」
言葉を詰まらせるチセヤ。その横で、エドモンドも黙り込んでいる。二人の顔には焦りと恐れが交錯していた。
「そうだろうな」
老人の唇が薄く歪み、冷ややかに続けた。
「これはあの狐が作った最高級モデルだ。噂は、すでに貴族の耳にも届いている」
(ぐぬぬぬ、あの小娘め……)
エドモンドとチセヤは顔を見合わせ、言葉を失う。顔が強ば理、心臓が早鐘を打つ音が自分の耳に響く。
老人が立ち上が理、その影が二人の上に覆い被さるように伸びる。
「狐のところからの職人の引き抜きにいくら支援したと思っている? その回収もまだできていないぞ?」
その言葉に、エドモンドとチセヤの背筋が凍りつく。彼らの頭の中では、これまでの経緯が走馬灯のように駆け巡る。九尾音楽堂から職人を引き抜き、自分たちの工房を大きくしようとしたこと。そして、その試みが今や彼らの首を絞めつつあることを、痛感せざるを得なかった。
「ははあ……」
二人は声を潜めて応じる。その声には、言い訳する気力すら感じられなかった。
老人の目が、さらに鋭く光った。その視線は、まるで二人の心臓を直接えぐるかのようだった。
「──このままでは、事業の採算が合わなくなるな」
その言葉が、まるで死刑宣告のように響く。
「貴様らの不断の努力を期待しよう。以上だ」
「ははあ……」
二人は深々と頭を下げた。その姿は、地獄への入場を許された罪人のようだった。
老人が退出し、静寂が再び部屋を支配する。しかし、その静けさの中に、二人の焦燥と恐怖が渦巻いているのが感じられた。部屋の中では青い琵琶が、月光のように冷たく輝き続けている。その姿は、二人の前に立ちはだかる巨大な壁のようだった。
乗り越えるか、潰されるか——。
その二択だけが、彼らに残された道だった。
(くそっ、狐の小娘め……まさかあそこから巻き返してくるとは……)
エドモンドの心の中で、怒りと焦りが交錯する。
(このままでは、私たちの商売が……いや、命すらも危うい)
──冷たい空気が部屋に満ちる中、チセヤが汗ばんだ額を拭いながら話し始めた。
「まいった……」
その声は、まるで腐った果実のように甘ったるく不快だった。
「伯爵が『不断の努力』という言葉を使うときの意味を知ってルカ?」
エドモンドは心の中で舌打ちする。
(この卑しい不潔な感じはいつまで経っても慣れないな。美意識が全然違うんだろう、きっと)
「わかってるさ」
エドモンドは冷ややかに返す。
「……手段を選ばず、ってことだろ」
「そうダ……」
チセヤの言葉は、まるで毒蛇が獲物に絡みつくように部屋中に広がっていく。
「狐のところから職人を引き抜き、同品質素材の大量仕入れ、大量生産で価格を下げて市場に放出。それで九尾音楽堂の売り上げを駆逐。我々は生産から販売までを一手に担うことで利益を拡大。この手法により他の工房も駆逐して祭事需要を含めてほぼ市場を独占デキた。ここマデは良かった」
(まるで自分だけの手柄のように言いやがって)
エドモンドの心の中で怒りが渦巻く。
(裏で色々手を回したのは俺だぜ?!全くこのデブとはちょっとそりが合わない)
チセヤは息を弾ませながら続けた。まるで溺れる豚のように、言葉を発するたびに、彼の二重顎が揺れる。
「その後、一時的に高額な人件費となった職人をリストラし、部品も粗悪品に代替。商品は全て劣化版として市場に再流通さセル。定期的に故障するのでフルメンテナンスの需要も創出し、利益が拡大、そしてその拡大利益の一部を伯爵家に上納するシステム。うまく行くはずダッタんだ……!」
(まるで自分が考えたかのように言いやがった!)
エドモンドは腐った魚を見るようにチセヤを睨みつける。
(全部俺のアイディアだぜチセヤの旦那!!)
──エドモンドは窓の外を見つめた。夕暮れの街並みが、まるで彼の心を嘲笑うかのように輝いていた。路地裏から漏れる提灯の光は、美しく、そして空虚だった。通りを行き交う人々の笑顔も、所詮は仮面に過ぎない。綺麗事や理想を語る者たちの声ほど嫌いなものはない。
「いいものを作りたい! とかこの工房を愛してる! というのは所詮建前なんだ、目の前の欲望に駆られた人間は絶対に、安直に楽な道を選んでしまうんだ。狐のとこの職人を辞めさせるなんて本当に簡単な仕事だった……」
エドモンドの目に、冷たい光が宿る。
「技術を吸い上げればあとは用無し。いつだってバカが騙されて、騙されるようがバカなんだ。狐の野郎も、諦めて里に帰ればよかったのによ……」
部屋の中に漂う緊張感と、二人の男の内なる闇が、まるで目に見えない毒ガスのように充満していった。
──エドモンドは窓から差し込む夕暮れの光を背に、ゆっくりとチセヤの方を向いた。その目には冷たい光が宿り、唇は薄く歪んでいる。
「このままじゃ狐が復活してしまう」
エドモンドの声は低く、まるで蛇が這うように部屋に広がっていく。
「なんなら、メンテナンスコストを理由に我々の商品がリプレイスされかねない。いや、きっとされていくだろうな」
チセヤは大きく頷き、贅肉の付いた顎が揺れる。その荒い息遣いが、妙に生々しく響いた。
「その通りダ。この作戦はマーケットを独占しているが故に取れる手段だカラな。狐どもが、目障りで仕方ナイな……」
「そうだな……」
「やれるカ??」
チセヤの声は震えていた。その言葉の裏には、恐怖と焦燥が滲み出ている。エドモンドは舌打ちし、その音が静寂を引き裂いた。
「ああ、やろう……ケツに火がついてしまったよ」
エドモンドは無感情に言い放った。その目は氷のように冴え、声は鋭い刃物さながらに室内を切り裂いた。
「──ジロキにやらせよう。あいつなら荒事もこなせる」
エドモンドの言葉には躊躇いの欠片もない。その冷酷さは、冬の寒気のように部屋中を凍てつかせていく。彼の唇が僅かに歪み、薄笑いを浮かべた。その笑みの奥底に、底知れぬ闇が広がっていた。
「ネズミに狐駆除さセルってのもなんだか皮肉ダナ」
「早速手配しよう。ケツに火がついてるんだ」
そして、エドモンドの脳裏に、竜之助の顔が浮かぶ。その笑顔に、彼は吐き気を催した。
(くそっ、目障りな竜之助め。てめえの面を見るたびに胸糞が悪くなる。どうせお前の仕業なんだろう!)
彼の目に、邪悪な光が宿る。唇が歪み、低い声で呟いた。
「痛い目に遭わせてやるとしよう。我々に刃向かったのが運の尽きだったな!がっはっは!」
エドモンドの笑い声が部屋に満ちた。冷酷さと残虐さに満ちた音の振動。その声が室内を這い回る様は、まるで目に見えない毒気が充満していくかのようだった。そこにあるのは、ただ冷徹な計算と底知れぬ野心だけだ。
チセヤは小さく頷く。彼の唇が緩み、ゆっくりと歯を露わにした。その笑顔は、まるで腐った果実が割れるように不快な印象を与える。黄ばんだ歯の間から覗く舌が、ねっとりとした唾液を纏っている。
二人の男の影が、夕暮れの部屋に長く伸びる。その姿は、まるで魔物のようだった。九尾音楽堂に、そして竜之助たちに、新たな危機が忍び寄ろうとしていた。イエドの街に、再び闇の風が吹き荒れようとしている。
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ダンディーが怒ってます
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