ep.47|琵琶売り〼|なんちゃって経営戦略会議1
──肉と醤油、砂糖が焦げる懐かしの香り漂う牛鍋屋を後にしてから、早くも二週間が過ぎていた。食うも食わずやの乞食生活を抜け出した竜之助だったが、肝心の勤め先、九尾音楽堂の売上げは空腹のままだった。
「うーむ……」
「うーん……」
竜之助とカラマルは店の軒先で仲良く唸っていた。目の前には人の流れもなく、この数日に至っては店に入ってきたお客はいない。まるで時が止まったかのような静寂が、この店だけに流れている。イエドの喧騒が遠くに聞こえる中、九尾音楽堂だけが取り残されたような錯覚さえ覚える。
「わかってはいたけど……こりゃあ正真正銘の『ツブレそうな店』だなあ(笑)」
そう自嘲気味に笑いながらも、竜之助は胸の内では微かな焦りを感じていた。現代日本のマーケティング知識と真贋を見抜く特殊な能力。これらを武器にこの世界で一旗上げてやろうと意気込んでいたのだが、現実はそう甘くはなかった。お約束の異世界転生のチート能力も、その爪を隠し続けた結果、思わずその場所がどこにあるかわからなくなってしまいそうだ。もどかしい。
エドモンドとの一件は、確かに九尾音楽堂にとって大きな勝利だった。だが、それは一時的な収入に過ぎない。持続可能な経営のためには、安定した顧客基盤が必要不可欠だ。それはトウキョウでもイセカイでも、商売の鉄則である。一発逆転のヒットではなく、継続的な売上げこそが店を支える土台となる。その当たり前の事実が、異世界においても変わらないことに、竜之助は改めて気づかされていた。
──この二週間、竜之助は市場調査に明け暮れた。イエドの町を歩き回り、行きつけの酒場「虎の尾亭」で耳を傾け、時には胡散臭い情報屋とやらにも金を払って聞き込みをした。その姿は、まるで新人営業マンのように必死だった。かつての会社時代、新入社員として奔走していた日々を思い出させるような、懐かしくも切ない、ただやりがいに満ち溢れている優しい時間。そんな足で稼いだ情報で浮かび上がってきたのは、この異世界の楽器需要の構造だった。
「ふーむ……祭事消費と個人消費か。トウキョウもイセカイも、結局は『誰が』『何のために』買うかってとこだよなあ」
竜之助は、頭の中で整理した情報を反芻し、皇国全体の楽器需要を分解していく。まるで会議室のホワイトボードに図を描くかのように情報を組み立てていく。その姿は、かつての会社でプレゼンの準備をしていたときと同じだった。
──まず『祭事消費』これは更に『政治需要』と『民間需要』に分かれる。
『政治需要』は、トゥクーセン公爵家や国司が執り行う公式の祭事で演奏される雅楽隊への供給。そして『民間需要』は、独立した神社が自前の祭りや儀式で雅楽隊に演奏させるための楽器調達だ。どちらも一見すると一定の規模が約束された魅力的な市場に思える。
「政治需要は国が、民間需要は神社や自治体が予算握ってる……ここ、絶対美味しいよなあ。安定収入間違いなしじゃん」
竜之助が独り言のように呟くのを、カラマルは椅子の上で背中を丸めて座り、足をぶらぶらさせながら聞き入っていた。
「竜之助さん、その『美味しい』っていうのは、ビジネスチャンスのことですよね? 安定した収入が見込めるってことですよね?」
竜之助は少し驚いた顔をした。
「おっ、鋭いな。そうだよ、まさにその通り」
カラマルは嬉しそうに微笑んだが、すぐに真剣な表情に戻った。
「でも、そこには何か問題があるんでしょう?」
竜之助は眉間にしわを寄せる。
確かに、文化として祭事が根付いているこの国では、この需要に食い込めば安定した発注が見込めるだろう。だが、そこには高い参入障壁が立ちはだかっているのだ。その壁の高さは、異世界転生者の特殊能力でも簡単には乗り越えられそうにない。
竜之助はため息をつきながら答えた。
「『百年単位で付き合いのある工房』ってやつさ」
成熟した文化には、必ず古参のプレイヤーがいる。メンテナンスを含めた太いパイプがすでに存在しているのだ。国レベルでは雇用創出の観点から、自治体レベルでは地場産業保護の名目で、新規参入を阻む既得権益が根付いた厚い壁がある。その壁を崩すには、単なるビジネススキルだけでなく、この世界での信頼と実績の積み重ね、いわゆる強烈なコネクションが必要不可欠だと、竜之助は痛感していた。
「どうすれば良いんですかね……?」
カラマルが真剣な表情で尋ね、竜之助は深いため息をつきながら答える。
「それが難しいんだ。コネクションも実績もない我々が、この市場に割って入るのは至難の業だよ」
竜之助は、頭を掻いた。現代日本でさえ、役所絡みの仕事は人脈がものを言う。まして、この自由経済が未成熟の異世界では尚更だろう。コネクションもなければ、実績もない。九尾音楽堂が、この市場に割って入るのはまるで、素人趣味の自称DIYクリエイターが宮大工の仕事に割って入るようなものだ。
「とにかく、長年の付き合いがある工房がすでに仕事を独占しているんだ。新規参入者には厳しい世界だろうなあ……」
カラマルは椅子から飛び降りると、机の上に腰掛けた。
「うーん……じゃあ別の市場を狙うってことですよね!?」
「おい、机の上に座るな」竜之助は軽く叱ったが、すぐに本題に戻った。
「そう……『祭事消費』がダメなら次は『個人消費』に目を向けるべきなんだ」
竜之助は、頭の中で情報を整理しながら話を続けていく。まるで、かつての会社で新入社員に話すときのようにわかりやすく丁寧に。その姿は、異世界にいながらも、どこか懐かしい日本の猛烈サラリーマンの影を宿していた。
「──個人消費は『貴族需要』と『庶民需要』の二つがあるんだ」
竜之助が言うと、カラマルは目を輝かせた。
「確かに! 貴族様たちは楽器好きですもんね!」
「ああ、そうなんだよ。貴族連中は教養として雅楽を身につけるんだよ。トウキョウでいうピアノとかバイオリンみてえなもんだ」
「ピアノ? ビオリン? また竜之助さんの故郷の話ですか?」
「ああ、そうだった……まあいいや。要するに、貴族相手なら富裕層向けの非投機的な現実需要がありそうってことだ」
「よし……!」
カラマルは音を立てて勢いよく立ち上がった。
「じゃあ、さっそく貴族様のところに売り込みに行きましょうよ!」
「おいおい、そう簡単にはいかねえんだよ。そんな貴族様たちにどうやってアプローチするかは大きな問題なんだ。なんてったって絶対数が少ない」
「えー」
カラマルはしょんぼりと返す。
竜之助は少し顎をさすった。エドモンドのような悪徳商人とやり合うよりは、教養ある貴族相手の方がまだマシかもしれない。しかし、そこには貴族の絶対数以外にも別の難題が待ち構えている。まるで、高級ブランド店に突然現れた、怪しげな新参者のように、絶対に、簡単には受け入れてもらえないのだ。
「──じゃあ、貴族向けじゃなくって庶民向けはどうですか?」
「カラマルはいいセンスしてる!そうなんだよ次は『庶民需要』を考えてみよう。ただそっちはもっと厳しいんだ。ほぼゼロに近いよ……この国じゃ、学校で音楽よりも実用的な科目が重視されてるからな。魔法に剣術、算術、歴史。これ以外を習得してる庶民なんていない」
「あー」
カラマルは納得したように頷いた。
「確かに、琵琶よりも剣と魔法、明日を生きるために便利な方が大事ですもんね」
現代日本のように、趣味で楽器を始める人はほとんどいない。エンターテインメントはある程度発達しているようだが、それでも庶民は日々の暮らしに追われているのが現状だった。
「そうなんだよ、歌手の弾き語りに憧れてギターを買う少女、みたいなのはいないんだよな。ここんとこがもっと盛り上がればマーケットも一気にデカくなるのになあ……」
「ギター? 弾き語り?」
「ああ、また俺の故郷の話だ……要するに、庶民が趣味で楽器を始めるってのがほとんどないんだよ」
「うーん」
カラマルは腕を組んで考え込んだ。
「──でも、お姉ちゃんの琵琶は本当にすごいんだ!一度触ったら、絶対にハマるはずなんだ」
「そうなんだカラマル! ものはいい、あとはどうやって、誰に知ってもらうかってことだ! よーし、ここからが本番だぜ! カラマル!紙と筆を持ってきて! ここまでの話を一回整理だ!」
「はい!」
竜之助はペンで紙に線を引き、四つの枠を作る。
「ほら、こうやってマーケットを4つに分けてみるんだ。縦軸が『政治・宗教需要』と『個人需要』。横軸が『貴族』と『庶民』だ」
「へえー」
カラマルは興味深そうに見つめた。
「左上が『政治・宗教の貴族需要』。これは宮廷や大寺院向けだな。右上が『政治・宗教の庶民需要』で、小さな神社とか地方の役所向けだ」
カラマルは頷きながら聞いていた。
「左下が『貴族の個人需要』。貴族様が自分で使う楽器とかな。右下が『庶民の個人需要』。一般の人が趣味で買う楽器だ」
「わかりやすい! で、どこで勝負しますか!?」
竜之助はおもむろに左下の枠を指さした。
「ここだ『貴族の個人需要』だよ」
「おー!」
カラマルは尊敬の眼差しと、これから何かが起きるかもしれないという期待に目を輝かせている。
「どうしてそこなんすか?!!」
「うちの持ってる技術やナレッジ、リソースからしても、そこが一番合ってると思うんだ。左上の政治需要は参入障壁が高すぎる。右側の庶民向けは需要が少なすぎる」
「なるほど! 竜之助さん、すっごく頭いいっすね!」
カラマルは大きく頷き、竜之助は少し照れくさそうに笑った。
「いや、まあ、昔の仕事の経験が役立ってるだけさ」
「で……リソースとナレッジってなんですか??」
「……そうだよな、すまん。『生産能力』って言葉に置き換えてもいいかもな。うちには、すごく腕のいいミコノさんという職人がいるだろ?」
「ああ、姉ちゃんの腕前は天下一品ですからね!」
「そうだな。そんなスーパー職人のミコノさんは月に10面くらい琵琶を作れる」
「そうです! めちゃめちゃ頑張って、セミオーダーで月に10面、フルオーダーで3面くらいですかね。姉ちゃん、魔法も使って効率よく作ってるんすよ」
「そう、だから数は少ないけど質が良い商品を高い値段で売れる貴族向けの展開が、うちの生産量と生産品質にぴったり合うんだ。政治需要だと大量生産が必要になるし、庶民向けじゃ高くは売れない」
「だから『貴族むけ個人需要』がターゲットなんだ! よくわかりました! すげえ! なんだか学者さんと話してるみたいだ! つぎは? 次は何を考えるの!?」
カラマルは目を輝かせ、竜之助の言葉の一つ一つを飲み込むように聞いていた。その熱心さに、竜之助は思わず笑みがこぼれた。
「面白くなってきたか? マーケティングは面白いよなあ。次に考えるのはズバリ『価格』だ。これまでもそうだが、ここからも、何か一つが噛み合わなければ全部考え直しだ。戦略ってのは一本の綺麗な道が通ってないと話にならない。注意してついてこいよ」
「はい!」
そう言いながら、竜之助は店の窓から遠い空を見つめた。青い空の下、イエドの町並みが広がっている。その風景を眺めながら、これまでの市場調査で得た情報を頭の中で整理していく。まるで、パズルのピースを組み合わせるように、情報を組み立てる。優しくも厳しい上司に仕事を丸投げされた新入社員のような必死さで、さらに頭を巡らせるその姿はまるで異世界に迷い込んだ昭和のサラリーマン。いっときは乞食にまで自分の身を落とした男だからできる必死の抵抗と奮闘。その目には諦めではなく、むしろ挑戦への期待が輝いていた。
この野心の実現までの道は、トウキョウからイセカイまでと、どちらが遠いのだろうか。竜之助の異世界マーケターとしての奮闘は続いていく。