ep.46|乞食が往く|異世界で再就職3
肉と醤油、砂糖が焦げる懐かしい香りが店中を漂っている。
繁盛店なのだろう、和装と洋装の中間のような制服を着た女中たちが忙しそうにテーブルの隙間を走り回っている。カラマルは目を輝かせながら、他の卓に置かれた鉄鍋から上がる湯気を眺めていた。
(スキヤキか……アイツと最後に会った時に食って以来だなあ……)
──懐かしい香りが、竜之助の遠くの記憶を呼び覚ます。
アイツは地元が一緒の幼馴染。大学進学で上京してからも苦楽を共にした親友だった。
社会人になり、竜之助は広告代理店に入社した。華やかな業界で、若手のホープとして昼夜問わず仕事にのめり込んでいった。一方でアイツは、公務員になって、早々に結婚して、子供を作って、信じられない期間の住宅ローンを組んで、神奈川の郊外に家を買った。
飲みに行く機会は減り、時々会っても話は噛み合わなくなった。俺は会社の話、口説いた女の話、仕事で会った売れないタレントの話をした。アイツは嫁の話、家の話、子供の話しかしなくって、深くまで酒を入れないと昔話にも花が咲かない。ただその頃には、アイツは終電だと言って会計をして帰って行った。
自分の価値観だけを信じて、アイツのことを面白くないやつ、と見下し始めたのはいつの頃だったか。アイツと一緒に、新橋ですき焼きを食ったのはいつだったか。この異世界にきて90日。会いたいと思うのは親でもなく、会社の後輩でもなく、六本木のキャバ嬢でもない。最初に浮かんだのはアイツの顔だった。
アイツのつまんない話を聞きながら、また酒が飲みたいな。
竜之助はそんなことを思い出しながら箸を遊ばせていた。
「──牛肉の旨みが舌の上で踊るようだよお姉ちゃん!!」
カラマルが興奮した様子で鍋に向き合っている。
思わぬ臨時収入を得た一行は、カラマルの提案で話題の牛鍋屋で祝勝会を開いていた。
「──これは……完全にスキヤキだ……素晴らしい」
改めて鍋と向き合う竜之助は感動に体が震えている。
じっくりと煮込まれた牛肉の旨みが、甘辛い醤油ベースの出汁と見事に調和しているのが、香りを嗅ぐだでわかる。大ぶりの牛肉は箸でつまむとほろりと崩れ、舌の上でとろけるような食感を表現する。玉ねぎの甘みが肉の濃厚さを引き立て、しらたきの歯ごたえが心地よいアクセントを生み出す。
一口啜れば、コクのある出汁が口内に広がり、牛肉の旨味と脂の甘みが絶妙なハーモニーを奏で、ほんのりと効いた山椒が、全体の味わいを引き締めつつ、深みを与えている。湯気とともに立ち昇る香りは、懐かしさと新鮮さが同居する不思議な魅力を放つ。まるでこの世界の粋と現代の贅沢が一つの鍋の中で出会ったかのよう。
熱々の具材と汁が胃袋に流れ込むたび、全身に活力が満ちていくのを感じる。異世界での3ヶ月の辛酸を忘れさせてくれる、まさに究極の一杯。
「──ミコノさん、カラマル君。改めて聞いて欲しいんだけど……」
佇まいを正す竜之助。
「どうしました?」
「俺を……俺を正式に、九尾の楽器堂の従業員として雇っていただけませんか!?」
深々と頭を下げる竜之助に目を丸くして驚くミコノとカラマル。
──さあ誠心誠意、ガチンコ勝負だ竜之助! ここでヘタを打ったらいっぺんに乞食に逆戻りだ。天女様が垂らしたワンチャンスの蜘蛛の糸を掴むんだ! この不思議な力と、現代のマーケティング知識を使って俺はこの世界で生き抜くんだ! 俺の力をうまく使えば絶対に利益になるはずなんだ。俺と組んだらこんな牛鍋いつだって食べさせてやれるよ! さあどうか、この手を握ってちょうだいっ!
「──こちらこそ、お願いします!」
即答するミコノ。
「この牛鍋代も兄ちゃんが稼いだようなもんだ! 俺一人じゃエドモンドみたいなやつから姉さんを守れないんだ……兄ちゃんが手伝ってくれるんなら心強いよ!」
カラマルも目を輝かせて答える。
竜之助が顔をあげると、そこには凛とし輝いて見える姉弟の姿があった。
「──私たちが里を出て、随分と時間が経ちました……」
ミコノは目を伏せて喋り始める。
「……イエドに落ち着くまでは本当に苦難の連続で……ただ、二人でがんばって、がんばって、がんばり続けました。そうしたらお店も構えられて、結果が出て、職人さんたちにも囲まれて、本当に順風満帆だった時期もあるんです──でも、職人さんたちがいなくなってしまって、琵琶も売れなくなって、お金もなくなって……いいものを作り続けてるだけじゃダメなんだって……私たちも何かを変えなきゃいけないんだって、ずっと悩んでました。でも何をすればいいかわかんなくって……」
肩を震わせるミコノ。
「──そこに、まるで神様の使いみたいに現れてくれたのが竜之助さんだったんです。竜之助さんは『雨が降ったら虹を探せばいい、暗闇にいるなら星を探せばいい』って言葉知ってますか? 狐族の間では有名な詩で、わたし大好きなんです! ……でも私はどうしても、雨が降ったら傘を作って、暗闇になったら行灯を用意しちゃおうとするんですよ(笑)」
そう言うとミコノは顔を上げて笑った。
「私たちが持ってない、必要としてるものを持ってるのが竜之助さんなんだと思います。こちらこそ、不束な姉弟ですが、一緒に頑張ってもらえたら、こんなに嬉しいことはありません。どうぞ、どうぞよろしくお願いします」
そう締めるとミコノは深々と竜之助に向かって三つ指をつき、座敷に頭を付けた。
「───…………」
竜之助は利己的な打算極まる自身の浅ましさを大いに悔いた。姉弟の絆の美しさ、謙虚さ、努力する姿勢、誠実な心根、弱者を助ける優しさ、清貧な姿、無垢に自分を求める純白さ──竜之助は集中せずともその二人が光り輝いて見えた。
周りも憚らずに号泣し、言葉を発することができなかった。
(俺は……この世界で、この姉弟を、支えたい……)
竜之助は強く願い、鼻を啜った。