ep.40|乞食が往く|狐族姉弟との出会い3
「まずはお風呂に入らないとですね……」
──天女様のご提案により、長屋の奥で風呂に入ることになった。異世界での乞食生活90日。それを思い返すと、これはまさに神様からの贈り物だ。ありがたやありがたや。しかし天女のように心が美しい女性でさえ、この体に染みついた生臭さには耐えられないのかと思うと恥ずかしさで胸が張り裂けそうになる……臭くてごめんなさい。
弟のカラマル君が桶いっぱいの水を勢いよくかけてくれた。瞬く間にその水は灰色に濁っていく。「いやぁ、これがほんとの泥パックだな(笑)!」なんて冗談を飛ばしてみたものの、カラマル君は真顔で後ずさって行った。彼の視線には、明らかな引きが混じっている。少しだけ心が痛んだが……この風呂で少しでも人間らしい匂いを取り戻せるのなら、全て良しとしよう。
「──僕のことを探してくれていたんですか?」
竜之助は人間の尊厳を取り戻しつつ話題を変えると、ミコノは予想外の返答をした。
「そうなんです! あなたが昨日くれたこの鏡、不思議な力があるでしょう?!」
「鏡、ああ、はい、小さな鏡で申し訳ないです。もうあれしか手元になくって……でも軽いし持ち運ぶにはちょうど良いサイズでしょう? どうか懐にでも入れて日々の身だしなみを整える時にでも使ってくだせえ」
昨日、お礼にと彼女に渡したコンパクトミラー。自分にはもう身だしなみもクソもねえなと思い、最後に残った元の世界のアイテムだったけれども思わず渡してしまった。こんな心の奥底まで美しい天女様に使われる方が鏡も嬉しいだろう。ただ、その鏡がどうしたって? 『不思議な力』って言った??
「この鏡、真実を映す鏡ですよね!? あなたはそんな力を持ってる仙人様ですよね!? どうか僕たちに力を貸してください!!」
カラマルが興奮した様子で竜之助に言い寄る。
何か壮絶な勘違いというか、まあ、この風貌なら仙人と間違えても仕方ないのかなとも思うけれども、あまりにも心当たりがない事を話し出すものだから驚いてしまった。もう少しその、なんの愛着もない、現代日本ならどこにでも売っているだろう鏡に何があったのか教えてほしい。
「昨日たくさん実験したんだ! この鏡、映った人が嘘をつくと黒く光るでしょ!? これは真実の姿を表す鏡なんだよね?!」
興奮するカラマルの話はちっともわからない。「まるで魔法の鏡ですね(笑)」などと適当な感想が口をついてしまった。
「そう! まさに魔法の鏡だ! 仙人様! どうかそのお力を僕たちにお貸しください……! エドモンドの奴がついてる嘘を暴きたいんです……!」
「はあ……」
──我ながら阿呆のように気の抜けた返事をして、その後二人の話をじっくりと聞くことになった。
どうやらこの姉弟は、ここ異世界最大級の商業都市イエドの路地裏で、売れない楽器屋を営んでいるらしい。なんでも天女様の方は、地元の狐の里では有名な琵琶職人で、若くして稀代の名人と称えられたほどの腕前なのだとか。
「……イエドでお店を開いた時は話題になったんだ。狐の里から名人が来たぞって。そしてお姉ちゃんはたくさんのお弟子さんを迎えて、ちょっとは有名な工房だったんだ……」
カラマルが悔しそうに話す。
異世界とはいえ、そこには人間がいて文化があって経済がある。いい時もあれば悪い時もあるのだろう。人の良い職人なんて、どこの世界でも商売が上手いはずがないのだ。
「──そして、エドモンド? の嘘を暴くってのは何でだっけ……?」
「それです仙人様! あいつは手持ちがないとか言って、お姉ちゃんの琵琶を二束三文で持ってっちまうんだ! あいつは大嘘つきだ! 姉ちゃんを助けておくれよ!」
カラマルが興奮して話を続けた。
エドモンドはどうやら得意先の一人らしい。開業当初は、まとまった数を定期的に買ってくれる金払いのいい上客だったようだ。ただ最近は、かれこれ3ヶ月は着金がなく、天女様たちも困っているとのことだった──3ヶ月着金がないって、小さい工房なんて資金繰りもできずに倒産してしまうだろう。この世界にどんな商習慣があるのか知らないが、憤慨するカラマル君を見るに異常な事態であることに間違いはないのだろう。
「そんな奴には、商品を渡さなきゃいいんじゃないの?」
「それが……今はその方くらいなんですよ、買っていただけるお客様が……大事なお得意様なんです」
「なんか手形というか、支払いを保証してくれる担保みたいなのはもらってないんですか?」
「時々、高価な掛け軸とか宝飾品を代わりに置いていってくださいます。ただ……ほら、私たちは楽器屋でしょう? そういうものをいただいても扱いに困ってしまって……」
「なんかヤクザとか詐欺師より酷いな……(笑) 代わりにもらった品が高価なんだと言うなら売ってしまえばいいのに」
「ええ……もう本当にどうしようもない、という事になったらそうしようと思っています。ただ、お世話になった方なので……あまり節操のない真似はしたくないですし……」
──驚いた。どうやらこの天女様は底抜けに人がいいらしい。弟君はそれが心配で、怪しい仙人にもすがるような想いで希望を見出したのだろう。なんとなく事態がわかってきた気がする。「TOKYOもISEKAIも人間模様は変わらんのだなあ……」などと青く広がった異世界の空を眺めながら遠い目で呟いていると、弟君が大きな声で割って入った。
「だから! 仙人様のお力であいつの嘘を暴いてよ! あいつは毎晩、遊郭で豪遊してるって噂だ! 本当はお金があるのに払わないんだ! そのせいで俺たちは3ヶ月、食うもひもじい思いをしているんだ! 今日はあいつのところに琵琶を売りに行くことになっているんだ──またお金がないって、絶対言い出すよ。仙人様、そこでエドモンドの嘘を暴いてよ!」
状況はよくわかったぞ! 天女様たちはとにかく困ってる。昨日今日の礼もある。俺だってこの二人の役に立ちたい気持ちしかない。ただ、一つだけ大きな問題がある。嘘を暴くってなんだ? 冷静に考えるととんでもないことを期待されてしまってるんだよな。
ただ、実は、心当たりは、一つだけある……この世界に飛ばされた時の光のような存在だ。それは俺に「力を与えよう」と言った。これはひょっとしたらひょっとするぞ……真実を暴く! みたいな特殊な能力が俺に宿ってるのかもしれない! いや、そうとしか考えられない! だってあの鏡、コンビニで買った鏡だし……
竜之助は戸惑いながらも、自分に秘められた力の可能性を信じることに決めた。
彼はこの世界に転移し、元の世界で保証されていた人間の基本的尊厳を大いに踏み躙られた。だからこそ、天女のような狐の女性に垂らされた蜘蛛の糸を、その未知の力で登って行くことに決めたのだ。この二人と出会えたことは、まさに暗闇に差し込む一筋の光明だった。
一介のサラリーマンが、この世界見知らぬ世界で自分の居場所を見つけ、新しい人生の役割を探す──その旅の扉がやっと開いていく。