大学生に居場所はない
「えの島っていう島だよ」
江の島とはイントネーションが違う。アクセントがえの部分にある。水落さんは律儀にエプロンのポケットからメモ帳を取り出して「えの島」と女子らしい丸文字で書いてくれた。
「聞いたことないな」
「ちっちゃい島だもん、歩いても一日あれば一周できるよ」
それだけ小さな島なら聞いたことがないのもまあ納得だ。もとより島なんかに詳しくもなければ興味も持っていなかったしな。
仕事にも慣れてきて、片手間に会話をするくらい造作もない。基本的に暇なこの仕事は水落さんがいるととても助かった。退屈しないのだ。ボーっとレジに立っているだけでは何か大切なものを損なっていくような気になる。時間の無駄だ。水落さんがいるだけでその時間にも意味があるように思えてくる。
「今更だけどさ、ほんとにいいの? 小さい島ってみんな知り合いみたいな感じでしょ。僕みたいな人が一か月も」
「あー、逆に?」真面目な顔で水落さんはそう言ってきた。
「んー、そう。逆に」水落さんの表情をまねして眉を少し寄せた真剣な表情で返す。水落さんは楽しそうに笑った。
「大丈夫だよ、島の人たちはみんなおじいちゃんおばあちゃんだから。七十手前の真黒さんが若い方だもん。みんな可愛がってくれるよ」
なるほど。小さな島だとやはりそういうことが多いのだろうか。若い人はみんな島から出て行ってしまう。水落さんは大学を卒業したら島に帰ると言っていたけど。
それにしても、真黒さんという人は思っていたよりも年を食っている人らしい。僕の勝手なイメージでは四、五十歳くらいの穏やかな雰囲気を纏った男性という感じだった。段差に気づかずにガクッと躓いたような気分だ。
「それに、るかくんは真黒さんの浮く絵が見えてるから」
「どういうこと?」
「真黒さんの絵はね、見ようとしてる人にしか見えないの」些細な違いだが、少しだけ声が細くなっているように感じた。
見ようとしている人にしか見えない。それはどういうことだろうか。頭の中で水落さんの言葉を転がしながら、作業をしている水落さんを横目で眺める。これ以上話す気はないようで、薄っすらと聞こえてくる鼻歌は水落さんの高い声と相まってなんだか楽しそうだ。
「あ、そうだ」と水落さんが首を回し、目が合った。「るかくんてさ坂巻くんと仲いいよね?」
まさかまきの名前がここで出てくるとは思わずに少しだけ目を見開く。確かにはたから見れば僕とまきは仲がいいように映るだろう。無性にイラついてきたが、それを必死に隠しながら口を開く。
「うん、それがどうかした?」
「私の友達がね、まきくん紹介して欲しいんだって」にやにやして楽しそうに言う。水落さんはこういう話題がどうやら好きらしい。
忘れていたがまきは割にモテる。まきと歩いていると何人かの女子に話しかけられることも何度かあった。細身の長身で顔も整っているからなのか、また別の理由があるのかはわからないが、僕からしてみれば疑問しかない。
「でも、まき彼女いるよ?」
「知ってるよー。でもさ、その方が面白くない?」
「面白いかなあ。めんどくさいだけだと思うけど」
水落さんはじーっと僕の方を見ていた目を細めて笑い出した。水落さんはよく笑う。
「何?」
「るかくんわかりやすいね。今のは嘘だ」
からかうように声を弾ませる。誰かお客さんでも来てくれないかと横目で店内を見るが、休日だというのに人は少ない。
「休日でもお客さんは少ないよ。ここのすぐ隣のショッピングモールにも本屋さんがあるから、みんなそこに行ってるんじゃないかな」
それはまあなんというか、ご愁傷さまです。アルバイト、ましてや僕に、働いている店を憂う気持ちなどさらさらない。
「嘘じゃないよ」ぼそっと言った。
「でも目がすごい泳いでたよ。るかくん話すときはちゃんと目を見てくれるけど、さっきは全然目が合わなかった」
「そうですか」
「るかくんも悪いねー」
「悪いのかな」
「うん。悪い悪い。けど、それだけ」
やっぱり、水落さんといる時間は僕にとって大切なものだ。
こういう些細な安寧を見つけた時、いつも終わりがちらつく。水落さんは大学を卒業したら島に帰ると言った。そうでなくても大学を卒業したら就職をする。結局どこかで終わりは来て、細い依存のようなものがポキっと折れる。果ては、自分に対する依存までも折れて手放さなくてはならないのかと思うと、どうしようもなく悲しい。ただただ、悲しい。
「あ、るかくん。そろそろ休憩だ」
細く白い腕に着いた小さな腕時計が視界の外からすっと入り込んできた。もっとやり方があるだろうと思いながら「わかった」と返事をした。
控室に戻り、椅子に座った。浅い位置に腰を置き背中を丸める。腹筋に少し力が入った。
休憩といっても特にやることもない。スマートフォンを操作する右手をテーブルの上にだらあっと置き、ため息をついた。
ブー。と右手が震えて下げていた視線を戻す。メッセージが来ていた。父からだ。こうやって父から連絡が来るようになったのも、最近だ。偶々、大学二年の冬休みに何年振りかもわからない再会をし、二人で外食をした。父と二人で食事をしたのは、生まれてから初めてのことだった。少し気まずいと感じていたが、そんなものは数分の内になくなっていた。やっぱり家族なのだと、そう思った。その時の精神状態も相まってか、その時間は穏やかなものであると感じられた。
今何をしているのか、姉のこと、母のこと、これからのこと。そして謝罪。色々な話を、父は僕に振ってきた。必死に。手元にある料理には一切手をつけずに、時々水を喉に流す程度だ。ずっと、話をしていた。
それからは、定期的に連絡が来る。気を遣われているのが目に見えて、父が罪悪感のようなものを抱いていることにも気がついた。ただ不快だった。何を今更と怒りを覚えたのではなく、気にしないでほしかったという儘ならない現実に対する苛立ちだ。
仕方がないと、本気で思っている。母へ向いていた愛が別のだれかに向いたのか、何か耐えられないことがあったのか。何かしら理由があったのだろう。なら、仕方がないじゃないか。
「明日、どこか行かないか?」
父からの連絡。穴を埋めるように、連絡が来る。
「気遣わなくていいよ。今の家族を優先して」
送信ボタンを押せばそのメッセージは父に届く。数分間親指は宙に浮いたまま、ポンと軽く送信ボタンを押してメッセージを送った。カチっと電源を落としてスマホをショルダーバックに入れる。雑にそれを荷物置き用のカラーボックスに投げた。
シフトの時間を終え、何の気なしにスマホの電源をつける。
「そうか」
スマホの画面に表示されたそのたった三文字には、僕以外には感じ取れないであろうどろどろとした魔力がこもっていた。生憎、僕が今いる控室には同じくシフトを終えた水落さんとパソコンの前に座る店長がいる。二人がいなければ、このスマホを床に叩きつけて叫び散らかしているところだった。
お疲れさまでした、と店長に言って水落さんと一緒に控室を出る。自動ドアがシャーと開き外の空気がもわっと纏わりついてくると同時に「この後飲みに行かない?」と水落さんが言った。今日は休日だったので僕らの勤務時間は朝方から夕方だった。確かに時間的にはちょうどいい。
「いいよー」と軽く返事をした。
それにしても飲みに行くという言葉は今だに慣れない。酒が飲めるようになってもうすぐ一年が経つが、友人から飲みに行こうと言われるとなぜだか体中が痒くなる。変わったのは年齢だけだというのにさも当たり前のように順応していく奴らが気持ち悪い。と、思う。
「よかったー。行きたい居酒屋があるんだよね。韓国料理出してるとこ」
駐輪場から出したクロスバイクを右手で引く。カチャカチャカチャと一定のリズムで軽い音が鳴っている。水落さんが行きたい居酒屋は駅前にあるようでここからだと少し遠い。この近くから出ているバスでも駅には行くことができるので、後で合流でもいいと言ったのだけれど、歩くからいいよと水落さんは言った。以前、僕が一時間弱の道を歩いてきたといったとき、若干惹かれただけに意外だ。気でも変わったのだろうか。
「そういえば明日は父の日だね」
「父の日?」
「そーだよ。六月の第三日曜日」
水落さんは、「忘れてた?」と僕の顔を覗いてくる。
唇がぴくぴくと震える。震えを抑えようと歯で下唇を刺した。プチッと音がして、血の味が口の中に広がってくる。
明日は父の日だったのか。
「水落さんは何かするの?」
「電話くらいはするかなあ。もう何年も会ってないから、毎年電話だけはしてるよ」
「偉いね」
「そんなことないよ。したいからしてるだけ」
水落さんはあっけらかんと言う。カチャカチャと鳴る自転車の音がやけに大きく聞こえた。
大学生。これほど中途半端を感じる時期は僕の人生の中では初めてだった。だからこそ迫られているように感じてしまう。いろんなものが終わっていくような気がするのだ。今までは見えていた、当たり前に進んでいくことが決まっている道のようなものが、もうすぐなくなることに、確信に近い思いを抱いている。果てが、見えるような気がするのだ。
「るかくんはいつもそうなの?」
「え?」思考の深いところまで潜っていたせいですごく情けない声が出た。
「話の途中で自分の世界に入り込んじゃう」
「ああ、えっと。ごめん。気を付けるよ」
確かにそうだな。人と話しているときに、ましてや異性だ。明らかに失礼だ。
「うん。そうして」
透明なカラスを見て、水落さんと出会い、夏には見知らぬ島へ行く。一か月も。何かが変わる、そんなありきたりな予感がしないわけもなく。得てして日常の変化とは、劇的に訪れ、気がついたら馴染んでいて、禍根だけが浮き上がる。
この作品を読んで頂きありがとうございます。毎日21時に投稿します。完結までお付き合いください。