9.騒動
わたしは。
グレイスが幼いながらも、モカへの恋心を自覚してから、三日経った時のことだった。あれから、特にこれと言った変わりの無い日々を過ごす中、それは朝食の時間に起きた。
いつものように、フレイドルに仕度をしてもらい、食事部屋に足を運び、並べられた朝食を前にグレイスが、スプーンを片手にスープ飲もうとした時だった。
「――待てっ!!」
突然、怒号にも近い強い声色で、血相を変えたモカが珍しくと声を張り上げ、グレイスが口に運ぼうとしていたスープを掬ったスプーンを叩き落としたのである。
室内にはグレイスとモカの二人しか居なかった。そんな中で、叩き落とされたスプーンが床でカランカランっ、と音を立てる。突然のことにグレイスは驚き、当然目を見開いた。
「なっ――にするのよ! 急に!!」
叩かれたことにより、じんじんと痛む手と驚きからグレイスはそう怒りの声を上げたが、モカはというと、そんなグレイスのことなどまるで目にもくれず、グレイスを食事から離れさせるよう手で制し、グレイスが口を付けようとしていたスープ皿を持ち上げ、匂いを嗅ぐ。そして、スープ皿を傾け、モカはそれを少量口に含み飲み込んだ。
何が起きているのか分からなく、グレイスが「えっ、ちょっと、」と声を上げれば、モカは何故かゲホゴホと咳き込み、手の甲でぐいっと口を拭うと、皿をそこに置き深く息を吐く。
「な、何……? あんた何してんのよ……」
「――毒ですね」
「……は?」
「スープに毒が入ってます。この食事は取らない方がいいです」
さらりと告げられたそんなことに、グレイスは一瞬息が止まった。
「――――はあ!? えっ、あんた、今、飲んで……っ!」
「僕は耐性あるので少量なら大丈夫です……多分。致死量は飲んでないので死にはしません」
「多分って、」
「とにかく王女はこの食事には手を付けないで下さい。それから部屋からも出ないで下さい。ライアスさんを呼んできますので、 犯人を見つけ次第食事は僕が作りますからそれまで我慢を。それと、手、すみませんでした」
早口でそれだけ言うと、モカはグレイスが止める間もなく、部屋から出て行ってしまう。
すぐに入れ替わりでライアスが顔を見せ、グレイスはライアスの顔を見ると「何なのよっ!!」と行き場のない怒りをライアスにぶつけたのだった。
「あいつ何なのよ!! どういうことなの!! 何なのっ!!」
いつになく激しい言動で怒るグレイスに、引き攣った笑みを浮かべつつ、ライアスはグレイスに落ち着くよう両手の平を見せながら歩み寄る。
「グレイス様、グレイス様、落ち着いて下さいよ。どうしたんですか~俺説明あんまりされてないので状況把握できてないんですけど……」
「毒がっ!!」
「ああはい、それは聞きました。良かったっすね、食べる前にモカさん気付いてくれて」
「良くないわよっ!!」
因みにライアスがモカから聞いたのは、以下の通りだった。
王女の朝食に毒が入っていた、食べる前に気付いたので王女に大事はない、犯人を捕まえてくる、自分が戻って来るまでの王女の護衛を頼む、とだけ。
今までのモカの働きぶりから、そんなモカの言葉には信頼しかなく、ライアスはただ「あ、そうなんですか。了解です」とここに来た次第である。モカならば犯人を捕まえて来るだろう、という絶対的な安心感から、緩々とした言葉を返していたライアスだったが、対してグレイスは切迫した表情で叫んだ。
何が良くないのか分からないライアスは、ただ不思議そうに首を傾げる。
「何が良くないんすか?」
「だってあいつ毒の入ったスープ飲んだのよ!? 少量だったけど、飲んで、大丈夫かって聞いたら多分って……! 多分じゃダメじゃない!! なのにっ!!」
グレイスの取り乱す理由が分かり、ライアスは「ああ、」と言葉を漏らしたものの、それよりも気になることがあった。
「――ふうん、モカさんが“多分”なんて言ったんすか」
「はあ!? それが何よ!」
「いやあ、彼、完壁主義者っぽいじゃないっすか。多分なんて不確定な言葉、俺には言いませんよ。なのにグレイス様には“多分”って言うなんて、グレイス様モカさんに信頼されてるんだな~って……」
切迫した様子のグレイスを、少しでいいから落ち着かせるために、そんな軽口を叩いたライアスだったが、グレイスの反応はライアスの予想していたものではなく――グレイスは、何故か顔を真っ赤に染めたのである。思っていなかった反応から、気付いてしまったあることに、ライアスは「おやあ?」と厭らしい笑みを浮かべた。
そんな笑みを浮かべられたことに、「それ」にライアスにまで気付かれてしまっただろうことが分かり、グレイスは「ああ、もう!」と声を上げる。
「何ですか~グレイス様、そうかな~とは前々から思ってましたけど本当にモカさんのこと……」
「うるさいうるさいうるさい!! 今そんなことどーでもいいでしょ!! そんな事よりあいつが……!」
慌てふためくグレイスに、ライアスはやれやれと息を吐き、「ま、大丈夫でしょ」とグレイスの頭をぽんっと叩いた。
「モカさんなら、すぐ解決させて戻ってきますよ。んで、改めて大丈夫かどうか聞きましょう。今グレイス様がそんな風にあたふたしたって、どうしようもないですよ」
穏やかな声色ながらもライアスの冷静な言葉に、グレイスは納得をしたのか漸く少しだけ落ち着きを取り戻し、黙り込んだ後、「はあっ」と息を吐いて椅子に深く体重をかける。それを見て、ライアスも同じく近くの椅子に座ったかと思えば、ライアスはにやにやとした厭らしい笑みをまた浮かベ、グレイスの顔を覗き込んだ。
「それにしてもいつからっすか~? グレイス様がモカさんのことを好きになったのは」
「はあっ!?」
「いやあ、あの時は冗談で言ってましたけど本当にそうだとは……色々悪い事言っちゃいましたねえ」
「何の話してんのよ……! ライアスには関係ないでしょ! 放っといて!!」
「確かに関係ないっすけど、知ったからには応援しますよ! グレイス様に釣り合うくらいにモカさんはいい男ですしね~」
「も~何なのよみんな! 余計なお世話よ!!」
そんなグレイスの叫び声は、言われている当人のライアスには全く響かず、ただ音として消えて行くのだった。
*
「ただいま戻りました」
そんな言葉と共に、グレイスとライアスが待つ食事部屋に、モカが戻って来たのは数十分後のことだった。やはり宣言通り犯人を捕らえて来たらしく、ことの経緯をモカはライアスに話した。そんなモカのことを観察するように眺めつつ、グレイスはぎゅっと眉を顰め、不機嫌な表情を浮かべる。
「はあ、つまり一週間前に雇ったメイドが犯人だったと」
「そのようです。 もう憲兵には引き渡しましたので、以降はひとまず王が帰還するまでは新しい人間を雇わないようにしましょう」
「そうっすね~その方が良さそうです。じゃあ俺はそれをメイド長のフレイドルに伝えるとして、そのまま持ち場に戻ればいいですか?」
「あ、ええっと、 ひとまずまだ居て貰ってもいいでしょうか。僕はこれから王女の朝食を作りたいと思いますし、他にもちょっとやりたいことがあるので一時間ほどこのままで……」
「え? モカさん料理できるんです?」
「人並みには。すみません王女、また少し離れます」
言うと、モカはグレイスの返事も聞かず、忙しなく部屋から出て行った。そんなモカを見送ったライアスは、モカが消えて行った方向を見たまま「はあ~」と感嘆を漏らす。
「モカさん強くて頭がいいだけでなく、料理も出来るとは……俺なんかそっち方面からっきしですよ」
「……なんならあいつ掃除洗濯もこなすわよ。この間座学の一環で教わったから」
「へえ~! なんか粗探す方が大変ですね、彼。イケメンだし。いやあ、でも良かったですね、グレイス様」
「は? 何がよ」
唐突に言われた、ライアスの「良かったですね」の言葉にグレイスが首を傾げると、ライアスはグレイスに振り返り笑った。
「モカさん、元気そうじゃないっすか。聞くまでもなく」
言われたそれに、グレイスは何故かきゅっと目を細め、それに同意をせず息を吐く。
「……ライアスには、そう見えたのね」
「ん? 何か言いましたか?」
不機嫌そうな顔で、小さく呟かれたグレイスの言葉は、ライアスの耳には届かなかった。それにグレイスは「ふんっ」と鼻を鳴らし、ライアスから目を背ける。
「――何でもない!」
グレイスが酷く不機嫌な理由は、結局その時ライアスには何一つ分からなかった。
*
モカの作った朝食に対し、ライアスが「わあ~俺も食べたいです!」と言ったが、グレイスは「自分の持ち場に戻れ!」とライアスを跳ね返し、そんな朝食も取り終って早数時間――もうすぐ昼食の時間になる。
本日午前中は剣の稽古であったため、グレイスとモカは城の中庭に出て、鍛錬を行っていた。基礎訓練に続き、モカと手合せ――と言ってもかなり手加減されている上に、モカは利き手ではない左手しか使わない――をしている中、グレイスは唐突に動きを止める。
「――王女? どうかされましたか」
「ねえ、あんたさっきから変じゃない?」
質問を質問で返されてしまい、モカは不思議そうに首を傾げた。
「変、とは……」
「いつもより微妙に動き悪いんだけど。あと、あんたがそんな仮面被ってるせいで顔色なんか分かんないけど、唇の色はいつもより悪いわよ」
真っ直ぐにそう指摘してきたグレイスに対し、モカは少し固まった後、何故か力なくふと笑う。
「……王女は、観察眼も優れているんですね」
「はっ?」
モカがそんな言葉を吐いたかと思えば、直後、モカの身体はぐらついて、モカは持っていた木刀をつっかえ棒のように地面に突き刺し、何とか地面に倒れないように踏ん張った。けれどすぐに足から力が抜け、ずるりと木刀を支えに、モカは地面に膝を着く。
当然、そんなモカを見るのは初めてのことで、グレイスは「えっ!?」と声を上げ、 慌ててモカの近くに駆け寄った。
「ちょ、ちょっと! 大丈夫――……」
「すみません、 王女……倒れます……」
そんな言葉を吐いて、モカはガシャンっと鎧を鳴らし、地面に倒れ込む。
緩やかにではあるが、モカが地面に倒れたことに、グレイスはどうしていいのか分からず、慌てて倒れたモカの見えている肌の部分――顎下の辺りに自分の手を当ててみれば、子供のグレイスでも分かるほどに、異様に熱かった。
「ちょ、ちょっと!! あんたいつからこんな――……」
「人、を……呼んで下さ……それと、僕の机、に……――」
「机!? 机に何っ!?」
問いかけるも意識は無くなってしまったのか、倒れたままモカは動かず何も答えない。それにグレイスは「ああ、もうっ!」と声を上げると、中庭から飛び出し駆け出した。
「誰かっ! 誰か来て!! ライアス!! 居ないのっ!?」
そんなグレイスの声に反応し、近くに居たらしいライアスがグレイスの前に姿を現し、廊下にて走っていたグレイスとぶつかりかけ、ライアスは「おっと、」とブレーキをかけ止まる。
「はいはい、どうしたんです? グレイス様、血相変えて……」
「あいつがっ!」
「はい?」
「倒れたの! 助けてっ!!」
中庭を指差され、ライアスはグレイスと目線を合わせようと屈んでいた身体を起こし、中庭を覗き込んで、「おやまあ」と声を漏らした。そして、すぐさま倒れているモカに駆け寄り、モカの傍で膝を着く。
「こりゃ一体どうしたんだか……」
「分からないわよ! ただ、凄い熱で……!!」
「……モカさん倒れる前に何か言ってました?」
「え……? なんか、机の上がどうとか……そんなことよりベッドのある部屋に運んで! 早く!!」
「ああ、はい。その前に……」
くるりと辺りを見回し、ライアスは目についたメイド――フレイドルを呼び寄せた。
声を掛けられたフレイドルは、すぐに中庭に入ってきて、倒れているモカの姿を目に入れて目を見開く。
「まあっ! モ力様、一体……!」
「分からんがとりあえず高熱で倒れたみたいで。俺は近くのー……第三客室にモカさん運ぶんで、フレイドルはちょっと寄宿舎のモカさんが使ってる部屋の机の上見て来てくれないか? 多分、何かあるから。その後に氷のうやら用意して来てくれるとありがたい」
「ええ、はい、分かりました。すぐに」
「グレイス様は俺について来て下さい。んじゃ、行きましょう」
言うとライアスはモカの脇下に腕を差し込み、「よいせっ」とモカの身体を持ち上げ、肩に担ぎ上げた。流石、この城の兵を束ねる立場に居るのは伊達ではないらしく、百九十センチ近くあるモカの身体を、ライアスは軽々と持ち上げ、何とも普通にすたすたと歩き出す。
そんな中、ふとライアスはグレイスがその場に立ち尽くしたままであることに気付き、グレイスに顔だけで振り返って呼びかけた。
「――グレイス様? 行きますよ?」
「……ええ」
答えて歩き出したグレイスの表情は、一言で言えば「悔しそう」だった。