4.好奇心
気になるのは。
「――ねえ、課題終わったから見て頂戴」
「ああ、はい。分かりました」
モカに出された座学の課題をやり終えたグレイスは、ノートを広げモカを呼び寄せた。モカの出した課題に対して、書かれたグレイスの答えにモカが目を通していると、グレイスはじっとモカのことを見つめる。
「ねえ、そういえばあんた何歳なの?」
唐突に飛んで来たグレイスのそんな質問に、モカはふと息を吐いた。
「――最近は質問ばかりですね、王女」
モカが溜め息を吐いた理由はそこにあった。
あれから――来客があってからのここ五日間、ことあるごとにグレイスはモカ自身についての質問をしてくるのだ。やれ何が好きだの、ここに来る前は何をしていたのかなど、そんな質問。
聞いてくる理由を聞けば、
「あんたのこと、気になるから。答えられない質問なら答えなくていいわよ」
こう返されてしまう。そうなれば、突っ撥ねる理由もないモカは、される質問に答える他なかった。
「それで? あんた何歳なの」
「……十八です」
「じゅうはち!? ヴェリス様の子だから若いとは思ってたけど、本当に若いのね……」
「王女に若いって言われると何とも変な気分ですが……というか父さん別に若くないですよ? 今年四十五の筈ですし」
「えっ!? あ……なんか、そっちの方が驚きだわ……あんな四十五歳他に見たことないわよ」
「まあそうですね……若々しくはあります。はい、全問正解です。では座学はこれにて終わりましょうか。剣術ですが――……」
言いながら、すいっと窓の外に目を向けて、モカは息をまた吐く。
外は雨が降っていた。雲の様子からして夜には止むだろう雨だけれど、今は土砂降りである。
「室内の稽古場でしか出来ませんね。本当は外の方がいいんですけれど」
「天気は仕方ないじゃない。じゃあ行きましょ」
そう言って廊下に出たグレイスをモカが追いかけると、グレイスの質問はまだ続いていた。
「ねえ、あんた兄妹は居るの?」
「言ってませんでしたか? 居ますよ。双子の姉が一人」
さらりと答えられたモカの返答に、グレイスは「えっ」とモカに振り返る。
「双子!? 初めて聞いたわよ! ええ……あんたみたいなのがもう一人居るの……?」
「失礼な反応ですね……それに残念ながら僕と姉は全く似てません。二卵性の双子ですので、そもそも見た目も似てませんし。僕は全体的に顔以外は父さんに似たんですけど、姉さんはその辺母さん似です。顔は僕が母さん似で、姉さんが父さん似でして。それから、性格も真逆です」
「真逆?」
「例えるならそうですね……ロクさんは分かりますよね。彼女のような感じの人です」
そうして会話の流れで出た人物の名前を聞いて、グレイスが一瞬ぴくりと反応を見せたことに、モカは気付けなかった。
「ロクちゃん?」
「はい。一応王女の叔母に当たりますよね。僕の姉は彼女のように天真爛漫で、元気で、考えなしに動く感じの人です。だから僕とは全く似てません」
「……ふうん、そうなの」
「はい。あの人は僕と本当に真逆なので不器用ですし、表情も豊かですし、派手です。姉とはよく一緒に狩りに行くんですが、僕は振り回されっぱなしです」
「ふふっ、でも嫌いではないのね」
「えっ?」
「あんた、少しでも嫌いな人とは一緒に狩りに行かないでしょう」
踵を返し、前を向いたグレイスから言われた言葉に、モカは思わず目を見開く。
「……そんなこと、僕言いましたか?」
「いいえ。言っては無いけど、聞いていれば分かるわ。そのくらい」
――本当に聡明な彼女の発言に、モカは感心するばかりだった。
「ねえ、ところであんたがここに来て何日経ったかしら」
「えっ? 今日で十二日目ですが……それが何か」
聞かれた質問にモカがそのまま答えを返すと、グレイスはただ小さく「そう」と漏らす。
「……あんたと居るの楽しくて、すっかり忘れてたわ」
「……何をですか?」
「何だろう……何でもないわ――ねえ、今日こそ手合わせしてくれる?」
「……王女にはまだ早いです。今日も素振りです」
「だろうと思った。早く実戦的なことをしてみたいものだわ」
「王女、」
「早く行きましょ。素振りはいいけど、わたしが飽きないように頼むわよ」
言うと、それ以上聞くなと言わんばかりにグレイスは駆け出し、稽古場に向かって行った。その後を追うも、「聞くな」と言って来ていることが分かることを、わざわざ聞くほど踏み込む気のないモカは、それ以上何も言わなかった。
それからグレイスの様子はというと、何というか一言で言えば調子が悪かった。
剣術の稽古をするも集中力は無く、モカがそれを指摘すればグレイスは、「体調が悪いのかも」と稽古もそこそこに部屋に引いて行ってしまったのだ。
結果、城の衛兵たちに「モカさんは今日はゆっくり休んで下さい」と言われ、グレイスの様子が変であったのは確かではあるが、最近の様子からして、城を抜け出したりはもうしないだろうと判断したモカは、衛兵たちの気遣いに頷いた。
グレイスの護衛を離れ、明日の準備その他をこなし終えたモカは、ヴァイスに「休む時はここを使って下さい」と教えられていた衛兵たちが休むための城内寄宿舎の一室を借り、休息に着く――そして、そんな深夜のこと。
バタバタとした足音に、モカは目を覚ました。
外していた兜その他を着け直し、部屋の外に出てみれば焦った様子のライアスが目に付き、モカはライアスに歩み寄る。
「――ライアスさん」
「! モカさんっ、早いお目覚めでっ」
「城内が慌ただしく感じたので……どうかされましたか?」
聞けばライアスは目を泳がせ、その顔に苦笑を浮かべた。
「ええっ、と……休めと言った手前、大変申し上げにくいんですが……」
「はい」
「王女が脱走されました……」
ライアスの口から出たそんな言葉に、モカは思わず固まる。
「脱走……ですか」
「はい……」
「拉致誘拐ではないんですね?」
「はい……間違いなく脱走です……」
そうして、ライアスから話された状況はこうだった。
深夜、グレイスの部屋の内側から戸を叩く音が聞こえ、部屋の前で護衛をしていた衛兵が戸を開けると、そこにはグレイスが立っていた。なんでも「トイレに行きたい」とのことで、衛兵はトイレに向かうグレイスの後ろを着いて歩いた。
そんな中、グレイスから「あいつは居ないの?」と聞かれ、聞かれているのがモカのことだと分かり、「モカさんなら今日は休んでもらっています」と衛兵が答えれば、グレイスはそれにただ「そう」と一言返してきたらしい。
そしてトイレに入って行き、十分、二十分、経てどもグレイスはトイレから出て来なく、疑問を持った衛兵が失礼ながら声を掛けてみたが返事は無く、まさかと思い戸を開けたところ、窓が開いていて、そこはもぬけの殻だった――ということらしい。
今はグレイスの姿が消えたと分かってから三十分経ったところである、とそんな事情を聞き終えたモカは「なるほど……」と小さく言葉を漏らした。
「けど可笑しいんですよ、あそこはグレイス様がよく使う脱走経路なんで、その後の逃走経路は幾つか予想立ってて、いつもちょっと探したら見つけられるのに、今日は全然見つけられなくてですね……」
不意に言われたライアスの言葉に、モカは少し思案した後、ため息を吐く。
「――すみません、それ多分僕のせいです」
「へっ?」
「王女に最近教えてたんですよ、剣術の一環として敵から身を隠す方法や、それに適した場所の探し方とかまあ……そういった類のことを色々と」
いつも見つけられていた筈のかくれんぼが、急に見つけられなくなった理由はそこにあった。
グレイスはモカの目から見て、勘と吸収がとても良い。それ故、モカが教えたことをすぐに実践したのだろう。元々運動神経も良く、勘も良いのだから、モカが教えたそれらはどうやらすぐに身についてしまったらしい。
思ってモカは、再びため息を吐いた。
「ライアスさん、今王女の捜索をしているのは何人ですか?」
「えっ? あー……俺を含めて五人ですかね。他は万が一王女が城から抜け出ないよう、外に繋がる場所を警備してます」
「では、全員直ちに王女の捜索を止めてもらって、通常通りに動いてもらって構いません。僕が見つけますので、自分の持ち場に戻って下さいと伝えて下さい」
「ええ? けどモカさん全然休めて――……」
「いえ、五時間充分睡眠できました。ありがとうごさいます。王女の護衛は元々僕の仕事ですし、行きます」
「……なんか、すみません」
「いえ――それに、王女が脱走したのは僕のせいかもしれませんから。それでは、お願いします」
それだけ言うと、モカはすぐに駆け出した。
走りながら頭の中で思い返したのは、今日、モカがグレイスとした会話の全て。けれど、何も分からない。
――王女は、明らかに僕と会話をした後に元気が無くなった
どのタイミングでそうなったのか、分からないけれど「聞くな」と言われたことはある。
――「あんたと居るの、楽しくてすっかり忘れていたわ」
それが何を指して言っていたのか、分かればグレイスが急に居なくなった理由も分かるのだろうけれど、「聞くな」と言われていた以上、今のモカには分からなかった。
一体何を忘れていたのか、忘れていたそれを自分との会話の何をきっかけで思い出したのか、考えてもモカには分かる筈もない。
何故なら、モカが敢えて自分からグレイス自身のことを聞いたことは、ただの一度しかないのだから。確かめるためだけに聞いた、「ハンターという職業に興味があるんですか?」という、そんな質問だけ。モカがグレイスに向かって踏み込んだのは、ただのその一度だけ。
もう少し、話を聞いておけばよかったかなと、今更ながらモカは、漸くそんなことを思ったのだった。
*
「僕は王女が脱走するために色々と教えたわけではなかったんですけどね……」
「――――うるさいわね、寝てたんじゃないの。何であんたが来るのよ。あっさり見つけてんじゃないわよ」
モカがグレイスを探し始めて約五分後、ライアスにした宣言通り、モカはあっさりとグレイスのことを見つけ出した。
ひとまず件のトイレの窓の外から開始して、モカが自分ならあそこに行くと、ざっと思いついた場所五箇所程を回りだして、三箇所目にてグレイスは居た。
城を取り囲む塀近く、植えられた大樹の根元にグレイスはひっそりと座ってそこに居た。根元近くには少しの窪みと草で出来ている影があり、そこにグレイスは膝を抱えて座り、小さく収まっている。顔は膝に埋まっていたため、表情は伺えなかった。
「充分寝ましたよ。お陰で王女のこと早く見つけられました。寝る前だったらもうちょっと時間かかっていたかもしれないですね」
「……それでも見つけるのね」
「一応あなたの師ですから。自分が教えたことでまだ遅れを取ったりしませんよ。必ず見つけます。それが僕の仕事ですし」
「わたしから目を離さないのが?」
「はい」
モカの返答にグレイスは、ただ小さく自嘲気味に「そう」とだけ返し、それ以上は何も言わない。顔を上げることもしなかった。
そこに小さくなって、黙って動かないグレイスを見て、モカは仕方ないと言わんばかりにため息を吐いた後、グレイスに向かって膝を着く。
そうして、モカはあることを思って目を細めた。
――もう諦めよう、立ち位置を変えないで居続けることに
――今、目の前の彼女が何を思っているのか、どうしてこんなことをしているのか知りたいと思ってしまっている以上、もう無理だ
――僕自身がこの状況をどうにかしたいと思ってしまっているのだから
モカが先程ため息を吐いたのは、そんなことを思ってしまっている自分に対してだった。
面倒ごとが嫌いで、心底本当に嫌いであるというのに、モカが目の前の彼女に興味を持ち出してしまったのは少し前からである。それを何度も自分の中で、「ただの護衛対象なのだから気にする必要は無い」と言い聞かせていたものの、一度気になってしまえば、完全に無視することがモカには出来なかった。
彼女という人間に、モカは酷く興味を持ってしまったのだ。
そうして、モカは決意する。この三ヶ月間で、決して立ち位置を変えるつもりは無かったというのに、自らグレイスに歩み寄ることを。
「――王女、僕のせいですか?」
近くで聞こえたモカのそんな言葉に、グレイスはびくりと肩を震わせたが、顔を上げることはしなかった。
「僕が何か王女の気に障ることを言ってしまったから、王女は脱走したんですか?」
「……違うわよ。あんたは関係ない。わたしがただ、一人になりたかっただけ」
「でも、そう思うきっかけを作ったのは僕の言った言葉なんじゃないですか? そうですよね?」
その問いかけに、グレイスは何も答えなかった。やはり顔も上げなかった。
モカはそれを肯定と捉え、続ける。
「……王女を探しながら、王女との会話を全部思い返しました。ざっとですけど……多分、王女のこの脱走はあることに関係してますよね」
「……うるさい、黙って」
「王女は言ってました。自分にとっては王の連合国を作るという発表の方がどうでもいいと。そして今日、忘れていたと言っていました。それと、僕がここに来てからの日数を気にされた……王女のこの脱走や、王への反抗的な態度は――……王のする、もう一つの発表に関係していますよね。違いますか?」
静かに言葉を繋ぎながら、核心を突くように言ってくるモカの言葉に、グレイスは勢いよくばっと立ち上がった。膝を着いているモカよりも、グレイスの目線が上になり、それに伴いモカはグレイスの顔を見上げる。
そうして、漸く見えたグレイスの顔は怒りで染まっていた。
「うるさいって言ってるのよ……! だったら何だって言うの!? あんたには関係ないでしょ……っ!!」
叫んだグレイスの言葉に、モカは少しだけ黙り込み、独りでにぽつりと呟く。
「関係は……無いですね」
「だったら!」
「けど、王女も言っていたでしょう。僕も、王女のことが気になりますから」
「そ、んな理由で……」
「はい、そんな理由です。王女、僕は王女と出会った当初、正直に言って僕から貴女に何かを聞くことはないだろうと思ってました。僕はあまり他人に興味がないですし、いつものように淡々と仕事を仕事としてこなして帰るつもりでした。けど僕は、貴女に興味を持ったんです」
「なん、で……」
「――――僕は貴女ほど聡明な女性に会ったことありません。だから分からないんです、どうして王女が王に対してあんなにも子供染みた態度を取ったのか……返事をしなかったり、拗ねてみたり、脱走してみたり、反抗的な態度を取ったり……それがどうしてか――」
言っている途中でだった。モカの言葉に何かが引っかかったのか、グレイスはぎゅっと拳を握り、肺一杯に息を吸い込んだ。
「――――わたしは子供だもの!!」
「っ、」
「子供だから所詮わたしが何を言ったって、どうしたって、それが止められないことくらい分かるわ! 嫌なのに、止められない……だったら、悪あがきくらいさせてもらってもいいでしょう!? 子供のわたしには、他に戦う術が……訴える術がないんだから!!」
逆上し、怒りに任せて叫んだグレイスの言葉に、モカは「ああ、そうか」とどこか納得した。
――何が原因かはまだ分からないけれど、王女は自分の行動が子供染みていることを分かってて、敢えてそうしているのか
そんなことが分かり、やはりグレイスが聡明であることを思い、モカは立ち上がるとグレイスを見下ろす。
拳を握り、小さな身体を震わせてまでそれをしている理由が、モカは純粋に知りたくなった。そして、グレイスの頭をほぼ無意識に撫でていた。
お互いに自分から相手に触ったことなど無かったというのに、急にそんなことをして来たモカに驚き、グレイスが顔を上げると、モカはその手をそのまま滑らせ、グレイスのことを横抱きでひょいと抱き上げる。
「――ちょっと失礼しますね」
「え、何、ちょっと、ねえ」
「落ちないよう掴まっていて下さい」
「は、――何何何っ! ちょっと、ねえっ!!」
言って、モカはすぐ傍に生えていた大木に、器用にもグレイスを抱えたままするすると登った。グレイスが止める間もなく上まで登り切ると、モカは座っても大丈夫そうな木の枝に腰を掛け、グレイスをその横に下ろして同じく座らせる。
モカの行動の意図が分からず、グレイスがモカのことを見上げていれば、モカは一度グレイスに向かって笑いかけて、すいっと上を指差した。
「――見て下さい、今日は昼間にあれだけ雨が降ったので月が綺麗ですよ」
言われたことにグレイスがモカの指差す方に目を向けると、そこには真ん丸い月が浮かんでいた。いつもより少しだけ近い場所で見る月に、グレイスは吸い込まれそうなほど綺麗に感じる。俯いてばかりいたため、今日が満月だったのだとグレイスは、その時初めて気付いた。
グレイスの大きな両目に月が映ったのを見て、モカは指差していた手を下ろし、ふと息を吸い込んで、静かに言う。
「――ここなら、僕以外王女の言葉を聞く人は居ません。王女……よければ教えてくれませんか?」
「えっ……?」
「王女がそこまで嫌だと思い、止めようとした王の発表の内容を」
「……何で。聞いてどうするのよ」
「何で、は気になるからです。どう……は、そうですね……内容によっては解決案を出せるかもしれませんよ」
「……要らないわよ。あんたに借りとか作りたくないし」
言って、また膝を抱えて俯いてしまったグレイスに、モカはそのまま暫く黙ることにした。
木の上は地上と比べて少しだけ風が強く、風に乗って流れるグレイスの髪が月明かりに反射して輝くのに、モカは自然に「綺麗だな」と思う。
「……ねえ、聞いてもいい?」
「えっ? ……はい、何ですか」
「――人の気持ちって、二年くらいで変わってしまうものなの?」
顔を上げられず、俯いたまま聞かれたそんなグレイスの問い掛けに、モカは自分の考えを素直に答えた。
「そうですね……それは一概に要して言えません。変わる思いもあれば、変わらない思いもありますから」
「そう……じゃあ、お父様は変わってしまったのね」
「はい……?」
モカが聞き返せば、グレイスはゆっくりと顔を上げ、そして、また真っ直ぐに月を見つめた。その横顔に、モカは思わず息を止める。
何故なら、グレイスのその両目から、ポロポロと涙が零れ落ちていたから。今まで、グレイスが泣きそうになった場面は何度かあったが、彼女は決して涙を零すことはしなかった。
だから、モカはグレイスが泣くのを今初めて見たのだ。子供らしくなく、しゃくり上げることもせずに、静かに涙を零すグレイスの横顔に、モカは見惚れてしまったように動きを止める。月明かりを受けて輝くグレイスの涙は、ただただ綺麗に思えた。
「お父様……結婚するの」
「――え? 結婚……?」
「そう……、その発表が明後日あるわ。わたしは、それがどうしても嫌なの……」
そう言って目を伏せたグレイスを見ながら、モカは今与えられた情報について必死に考える。
――王が結婚? 連合国を作ると宣言をしたこのタイミングで?
――だとしたらそれは……
「……あの、お相手は――」
「……ロクちゃんよ。お父様の結婚相手は、ロクちゃん」
そこで、漸くグレイスが今日急に元気が無くなった理由が分かった。自分の口からロクの名前が出たせいだろう。
それと同時に、モカはあることを思った。
「わたしは別に、ロクちゃんが嫌いなわけじゃない。むしろロクちゃんのことは好き、大好きよ。でも、嫌なの。どうしても嫌なの……っ」
「王女、」
「だって、お母様が亡くなってまだたったの二年よ!? たったの二年しか経ってないのに……そんなの、お母様が可哀相だわ……! わたしは、お母様が亡くなられてからお母様を忘れた日なんて一日だって無かった! なのに、お父様はもう、他の誰かと結婚するの……? お父様はお母様のことを愛していたんじゃないの……? お母様への思いは忘れてしまわれたの……? そんなの……あんまりだわ……っ!」
言いながら、やっと表情を崩して泣きじゃくるグレイスは、初めて年相応の少女に見えた。
――彼女は、本当にマイさんのことが好きで……それと同時に王のことも好きなんだろう
そんなことを思って、モカは一度グレイスから視線を外し、吸い込まれそうに大きな月を見上げた。何となく、今日見た月を自分は忘れることがないのだろうとモカは思う。
「――“まだたったの”、ですか……きっと王女はどれだけ月日が経とうがそう思うんでしょうね」
「……え?」
「その相手がロクさんじゃないにしても、何にしてもきっと王女は認めることは出来ないんでしょう」
「――そんなことない! わたしはただ……」
「では聞きますが、どうしたら王女はそれを認めることが出来ますか? 三年経ったら? 四年経ったら? 五年……十年経ったらそれを認めることが出来ますか? 出来ませんよね? ――だって王女が思っているのはそんなことではないのだから」
見透かすようなモカの言葉に、グレイスはぎゅっと唇を噛んだ。
――何も言い返せない、言い返す言葉がグレイスには浮ばない。何故なら、それはモカの言っているその通りだったから。
――そう、わたしが本当に思っているのはそんなことじゃない
――けど、これを口にするのはあまりにも……
思って、また俯いて黙ってしまったグレイスに、モカはまたグレイスの頭を優しく撫でた。
「――いいですよ、我慢しなくても。ここには僕しか居ません。それにあなたもさっき自分で言っていたでしょう……自分は“子供だから”と」
そんなモカの言葉に、グレイスは一度はくっと口を開けて息を呑み、ずっと堪えていた分、全てが流れてているんじゃないかというくらいに両目からボロボロと涙を零して、両手でぎゅううっと自分の服の裾を握り締め、グレイスはしゃくり上げる。
「わ、たし、ほんとは、ただ、寂しくて……、お、父様が、お母様じゃない人と結婚するって聞いて、お母様のこと、忘れちゃったのかなって……わ、わたしのことも、忘れちゃうのかなって、思って、」
「……はい」
「わ、たしにとって、お母様はお母様だけで、誰も、代わり得ないのに、お父様はそうじゃ、ないのかなって、思ったら、寂しくて、だからっ……あ、あんたも、」
「……僕のことも、王が居ない三ヶ月間、代わりに来たようで気に入らなかった?」
泣いていることで、上手く言葉を繋げられないグレイスの代わりにモカが聞くと、グレイスは手で涙を隠すようにして、こくりと大きく頷いた。
「だ、れも、誰かの代わりになんか、ならないのに、お父様は、そうじゃないのかなって、思って、わたし……! わたしのことも、どうでもよくなっちゃうのかなって、思ったら、どうしても、嫌で……!」
漸く聞けたグレイスの本心と本音に、モカは失礼ながらもくすくすと笑う。それに当然グレイスはモカを睨んだ。
「――何笑ってんのよっ!!」
「ああ、いえ、ただ――王女は子供だったな、と思いまして」
「何よっ……! 子供よ! 子供で悪い!?」
「いいえ、悪くないです。むしろ良かった、と思ってます」
そうしてモカはまた、グレイスの頭を優しく撫で、目を合わせてグレイスを撫でる手と同じくらい優しく笑う。
「周りに大人しか居ないからって、あなたは急いで大人にならなくてもいいんです。泣くのだって、わざわざ我慢しなくてもいいと思います。我儘だって、もっと言ってもいいんじゃないですか? ……子供なんですから」
「ぁ……わ、たしっ、は――」
モカの言葉に、グレイスが思い返したのは自分の母親であるマイが亡くなってから、すぐに聞こえてきた大人たちの言葉。
――あれから王は毎日塞ぎ込んでおられる
――王女の方も同じだ。これから先、この国は大丈夫だろうか
――泣いてばかりいられる王女にはほとほと困る
――まだ子供だからと言えど、行く末は不安だ
――せめて、王女がもっと大人であれば……
思い返してしまった結果、グレイスはまた涙を流した。
――強くないと、わたしが強くならないとって、そう思って、あの日から人前で泣くことをわたしは止めた
――だって、そうしないとお母様が、お父様が、この国が悪く言われてしまう
――だから早く大人にならないとって、わたしは王族だから、いずれこの国を背負って立つ立場なのだから、そうしないとって思って、なのに……
――なのに、目の前のこいつはそれをしなくてもいいって言うの?
――何も知らないくせに、何も分かってないくせに、でも、どうしてわたしはそれが……
――こんなにも、嬉しいんだろう
「わ、たし……泣いてもいいの……? お父様、に、さみしい、って言っても……」
「はい……、いいです。僕はそれを許します」
「あんたはって……何それ、ばかじゃないの……」
――ばかみたい、だけど、なんて優しいのだろう
――それは、ずっと、わたしが欲しかった言葉だ
そう感じたグレイスは無意識に手を伸ばし、モカのマントを掴んだかと思えば、引っ張るわけでもなくそのまま強く握り締め、子供らしく、子供のように声を上げて泣く。
悪態を吐きながらも、ずっと、ずっとその小さな身体で耐えて来たのに、それを崩して泣くグレイスにモカは酷く甘い表情で微笑んだ。暫くそのままグレイスが、泣くのが落ち着くまでモカは何も言わず、あやすように一定のリズムでグレイスの背をぽんぽん優しく叩く。
そんなグレイスの涙もひとしきり出切った後、グレイスが落ち着いたのを見て、モカはグレイスに静かに問いかけた。
「……王女は、王の話をちゃんと最後まで聞きましたか?」
「えっ……?」
「結婚をすると言われて、ちゃんとその話を最後まで聞きましたか?」
そんなことを聞かれてグレイスは、それを言われた時のことを思い返した。
話があると言われ、聞かされたのは「結婚をしようと思っていて、それを連合国を作ると宣言した後に発表しようと思っている」というヴァイスの言葉。それにグレイスは「何で? どうして? お母様のことはもうどうでもいいの? 知らない、もう聞きたくない!」と突っ撥ね、それからヴァイスと話をしていなかった。
何か言われようとしても逃げ出して、突っ撥ねて、話など聞かなかったのだ。
答えなかったけれど、グレイスの様子でそれが分かったモカは、やれやれと息を吐く。
「王女、王は……あの人は僕の目から見たらただの父親でした」
モカが言わんとする言葉の意味が分からず、グレイスが「えっ?」と聞き返せばモカは続けた。
「僕と初めて顔を合わせてこの仕事を正式に頼まれたあの時、あの人は大事な一人娘を心配するただの父親でした。……ああ、そういえばこれは王女に話されると恥ずかしいから言わないでくれ、とか言われていたんですけど……互いにこういうことを隠すから拗れるんでしょうね。だからお伝えします」
「えっ、な、何……?」
その事柄が照れくさいことなのか、一瞬言い辛そうな表情を浮かべた後、モカは歯痒そうにばりばりと首の辺りを掻いて、そのまま身体を前に曲げ、グレイスの顔を覗き込む。
「――王は、貴女のことを愛していると言っていました」
「えっ……」
「王が余りにも王女のことを心配されるので、僕、言ったんですよ。そんなにも心配ならば目の届く場所に、一緒に連れて行けばいいのにと。そしたら間髪入れず“できません”と返ってきました。何でか理由を聞けば……“今から危険になるのは自分だから、そんな所に彼女を置いて置けない、何よりも大切だから僕のせいで起きる危険には出来る限り巻き込みたくない。だからこの三ヶ月間は連れて歩くことは出来ない”と。それからもう一つ、僕がそれに王女のことが大好きなんですねって言ったら王は……“大好き、とはちょっと違う。僕は彼女を愛している。亡き妻と同様に”と仰っていました」
「……お、とう、さまが」
「――だから、一度ちゃんと話し合った方がいいと僕は思います。というか、ロクさんからも何か王女にあったんじゃないでしょうか」
そんなモカの言葉に、グレイスはふとあることを思い出した。
「手紙……」
「手紙?」
「お父様からその話があった三日後に、ロクちゃんから手紙が届いたわ……読むのが怖くて、ずっと開けてない」
「そうですか……ならそれにある程度書いてあると思いますよ。僕の考えが正しければですけど」
「え? 考えって?」
「ただの予想ですので口には出せません。王女が一人で読むのが怖いと仰るのなら、僕が一緒に読んであげますから。まあひとまず、今言えるのは貴女は確実に王に愛されているということです。あの人が、貴女のことを忘れるなど有り得ない」
泣く自分を慰めるためにだろうけれど、それが嘘だったとしても、はっきりと言い切られたモカの言葉に、一度は止まりかけたグレイスの涙は、前が見えなくなるくらいに再び溢れた。
「ほんとうに……?」
「はい」
「うそじゃない……?」
「嘘じゃありません。だから、王女が思っていることをちゃんと王に言ったらいいと思います」
「でも、お父様……怒ってない……? わたし、ずっと逃げて、ばっかりで、」
「さあ……それは分かりませんけどいいんじゃないですか? 怒られたらいいと思います――子供なんですから。それで悲しくなったら、僕でよければ慰めますよ」
モカの口から出た言葉は、余りにも今まで見てきたモカらしくない言葉で、グレイスは思わず「あはっ」と笑う。その拍子に、ぽろぽろと零れ落ちた涙が、モカのマントに沁みを作った。
「――絶対よ?」
「はい、王女が望むのなら必ず」
そうしてグレイスはまた少し泣いて、泣き疲れたのだろう、モカに凭れ掛かりそのまま眠りについた。眠るグレイスを抱き上げると、モカは起こさないよう振動なく木から下り、部屋に向かって歩きながら、眠るグレイスの顔を見て思う。
あどけない寝顔は年相応だ。
大人だったり、子供だったりと忙しい彼女。
「……頑張れ」
十分頑張っているのは分かっていたけれど、モカはそう、応援したくなった。
眠るグレイスにエールを送ったモカの表情は、とても優しいもので、また、モカが他人にこんなことを思うのは初めてのことだった。