またいつの日か――
そのとき、ん? と瞳は気づいた。
坂道の方、林の陰からこちらを見ている登山ルックの年配の男が居る。
「あれ」
と瞳が指差すと、男はダッシュで逃げ出した。
「あいつが犯人だっ!」
と突然、武田が叫び出す。
「犯人は現場に戻ると言うからなっ」
此処に居る人間、凶器から犯人から、なにもかも思い込みで語っているのだが、大丈夫だろうか。
今にも冤罪を生みそうだ、と思ったとき、今、自分をおんぶしようとした体勢のまま、冬馬が立ち上がる。
真後ろに居た瞳は、ひょいとおぶわれてしまった。
「待てっ」
と坂を走り出す冬馬に、
「小早川さんっ、私を降ろしてください!」
絶対、その方が速いですっ、と叫んだが、冬馬は、
「今更、止まれるかーっ!」
と走り続けながら言ってくる。
「じゃ、走りながら、手を離してくださいっ」
「転がり落ちて大怪我するぞっ!
お前、ルックス以外、取り柄ないだろうがっ」
うーむ。
これは喜ぶべきなのだろうか? と思いながら、仕方がないので、冬馬の背に乗っていると、
「ひー!」
と叫びながら、登山ルックの男がUターンして走って戻ってきた。
何故、戻ってくるっ!?
と思ったとき、男の後ろから、ものすごい勢いでやってきたものがあった。
カピバラ様だ。
瞳は駆け抜けていく男とカピバラ様を振り返りながら呟いた。
「カピバラって、実は時速50㎞で走るっていいますもんね~」
武田が、走ってきた男に足を引っ掛け転ばせたが、カピバラ様は止まらずそのまま走っていってしまった。
「いや~、びっくりしました。
やっぱり気になって引き返してきたら、ものすごい勢いでカピバラがやって来て」
もう逃げられないと思いました、と犯人の男は青ざめた顔のまま言ってきた。
警察じゃなくて、カピバラからか……と瞳は思ったが。
まあ、人生に置いて、カピバラに追いかけられる機会とか、なかなかないからな、と思っていた。
止まれずに行きすぎて戻ってきたカピバラ様をねぎらい、武田が言う。
「偉いぞっ!
お手柄だなっ、ネズミッ!」
「……カピバラですよ」
「いや、塞の神だ」
とちょっと得意げに鼻をふこふこさせながら、カピバラ様は瞳の言葉を訂正してきたが、武田には聞こえてはいないようだった。
カピバラ様の言った通り、卵型の石が凶器だった。
山ですれ違う時、挨拶した、しないという、しょうもない理由から撲殺してしまったという。
「最近は、高齢者も元気がありあまって、気が短いですからね~」
と言いながら、瞳は花が供えられている石を拝んでいた。
後ろに立って見下ろす冬馬が、
「何故、拝む。
それ、ただの石だったんだろ?」
と言ってくる。
「いや~、そうだとわかってても。
こうして、花とか供えてあると拝みたくなっちゃいますよね」
と瞳が笑って言うと、
「警察で石がしゃべり出したらどうする」
と大真面目に冬馬は言った。
下に到着した鑑識が署まで持ち帰るようだった。
「ありがとうございました、塞の神様」
瞳はガラクタの山の前で、カピバラに頭を下げる。
うむ、とカピバラ様は頷いた。
「瞳、冬馬。
またなにか困ったことがあったら、私の許に来るがよい」
「ありがとうございます」
と頭を下げながら、瞳は、いや、まず、貴方が困ったことだったような気がするんですが、と思っていた。
ゴミの山に埋もれて、わからないんだが。
結局、塞の神様本体はどれだったんだとか。
なんで、カピバラがこの山に居たんだとか。
まあ、いろいろ思うところはあったのだが、二人は、そのまま帰ることにした。
「あ、そうだ。
これ、あげますよ、塞の神様」
と瞳は靴を脱ぎ、カピバラ様の前に置く。
「だが、お前たちはもういらないのだろう? このトンカチ」
「いや、どうせ買いかえようと思ってたし。
……金色なんで」
と冬馬にケチをつけられたことを思い出し、瞳は言った。
「犯人を捕まえてくださったので、お礼の貢ぎ物です。
新品でなくて申し訳ないですが」
と笑うと、
「いや、使い古したものでよいのよ。
物にこもった記憶とたくさんの思い出を我々は供えてもらっているのだから。
そして、その物の持ち主が幸せであるようにと我らも願うのだ」
と最後に神様らしいことをカピバラ様こと、塞の神様は言った。
「ありがとう、瞳。
では、これを」
となにか返さねばと思ったのか、だから、いらないんですが、と思うトンカチをカピバラ様は口にくわえて持ってきた。
「あ、ありがとうございます」
ととりあえず、ありがたくいただく。
「では、またいつの日か――」
と言って、塞の神の入ったカピバラは林の中へと消えていった。
二人でそれを見送っていたが、やがて、冬馬が呟いた。
「で?
靴を塞の神にやってしまってどうする?
俺がお前を車まで背負って歩くのか?」
「いやいやー。
このまま歩いていきますよー」
冬馬はひとつ溜息をつくと、瞳の前にしゃがむ。
「いいから、乗れ」
いろいろ文句は言ってくるが、いい先輩だ。
「いやいや、ほんとに……」
「うるさい。
黙って乗れっ」
と言い合っていると、下の道から、
「どうでもいいから、早くしろっ、お前らっ」
と武田が叫んできた。
署について、ヒールに履き替えた瞳は、デスクの上に置いたあのトンカチを眺めていた。
「どうした?」
と冬馬が訊いてくる。
「いや、結局、どれにもルミノールかけなかったなーと思って」
そう笑うと後ろを通った鑑識の釘本という若い男が、
「なに? ルミノールいるの?」
と笑って言ってきた。
「これあげるよ。
姪っ子にもらった、学習雑誌のふろく」
と小さなプラスチックの瓶を渡してくれる。
「あー、私も昔持ってましたよ、こういうの」
と言いながら、瞳は、なんとなく、かけてみた。
ふふ、と昔を思い出しながら、手で覆い、暗くしてみる。
「……光ってるんだが、瞳」
後ろから冬馬が言ってきた。
あらー、という顔を釘本もしている。
「……誰かがなにかの事件の凶器を捨ててたんですかね?」
「あそこに捨てたら、神様が絶対渡さないと頑張ってくれるの知ってたのかもな」
「いやあ、単に、あの中に投げ込んだら、ゴミ……
失礼、貢ぎ物に紛れてごまかせるからじゃないんですか?」
それに、誰かが釘を打ってて、怪我した血が飛んでいるだけかもしれない。
釘本が、
「大根なんかにも反応するよ、ルミノール。
ぺルオキシダーゼって酵素に反応して。
心配なら、ちゃんと検査しようか?」
と言ってきた。
「いや……いいです」
と瞳はトンカチを見ながら言うと、冬馬が、
「じゃあ、大根を叩いたトンカチを誰かが捨てたってことで」
と勝手にまとめる。
「そ、そうですよね。
農家がたくさんありましたもんね、下の方」
釘本は、いや、農家の人、トンカチで大根叩かないと思うが、という顔をしていたが、わざわざ厄介ごとを掘り返すこともないと思ったのか、そのまま行ってしまった。