恋人姉妹は雨にも負けない
彩歌姉妹が雨の日の帰り道に相合傘をするお話。
その日、授業も終わりいざ帰ろうと支度をしていると、雨が降り始めた。はじめはしとしとと窓をわずかに濡らすような小雨だったのが、荷物をまとめ終わる頃にはざぁざぁ降りへと変わっていた。
(天気予報じゃ夜まではもつって言ってたのに)
少し憂鬱な気分になりながらもカバンの中から折り畳み傘を取り出そうとガサゴソとあさり、愕然とした。
(え、傘忘れた?)
薄れた記憶を呼び起こしてみると、前に雨が降ったときに使って乾かしたところまでは思い出せた。おそらくそのあとカバンに入れずにどこかに置いたままなのだろう。
(うーん、走って帰るには雨が強いし、どうしよっか)
一緒に帰るような仲の良い友人はいない。最近仲良くなったクラスメイトもいるが、すでに教室を出ていってしまったようだ。他の人に声を掛けられるほど私はコミュ力が高くないし、それに自分が困ったときだけ誰かに頼るような人間には思われたくない。
そうなると頼れるのは――。
(もみじねぇ、予備の傘とか持ってないかな)
二つ上の姉のことを思い浮かべた。もしかしたら学校に置き傘をしているかもしれない。一縷の望みをかけて姉にラインで聞いてみる。
『傘忘れたんだけど予備とか持ってたりする?』
ただ、姉はバスケ部に所属しているのでもう部活に行ってしまっていれば返信もこないだろう。一階の玄関口まで行って連絡がないようなら走って帰ろうか。
私が教室を出た瞬間、姉から返事が返ってきた。
『傘ひとつしかないから一緒に帰ろ! すぐ行くから玄関のとこで待ってて!』
文字から伝わってくる勢いに何となく不穏なものを感じつつ、とりあえず一階に向かうことにした。
私の通うこの高校の校舎は4階建てになっていて、一番上の4階に一年生の教室、3階に二年生、2階に三年生、と学年が上がるごとに教室の階数が下がっていく。生徒たちの間では受験ノイローゼで窓や外廊下から飛び降りても助かるように、なんて言われたりしているが単純に三年生の移動の手間を減らす為だろう。三年生が一番時間に追われるだろうし当然と言えば当然か。
そんなわけで距離的に近い姉の方が私よりも早く玄関口に到着していた。
「さくら~、こっちこっち」
カバンを斜めに掛けたまま折り畳み傘を振る姉。途端に周囲にいた生徒たちから視線を浴びせられ、私は速足で姉に詰め寄った。
「声、大きい……!」
「そお? 普通に呼んだだけだよ?」
「呼ばなくていいから!」
「そんな恥ずかしがらなくても」
「恥ずかしいの!」
私は姉の腕を引っ張って玄関から外に出た。姉はやれやれと息を吐いてから折り畳み傘を広げた。鮮やかな橙色の傘で楓の葉の模様が描かれている。
姉が左手で傘を持ち、横のスペースを空けて微笑んだ。
「はい、帰ろっか」
私は俯き気味に頷いて傘の下へと入った。
雨粒が勢いよく傘の布地を叩き、慌ただしい音を鳴らしている。道路を走る車のタイヤがアスファルトに溜まった水をかき分け進んでいく。
「なにがそんなに恥ずかしいの?」
雨の日特有のBGMに交じって姉が聞いてきた。私はばつが悪くなってもにょもにょと言葉を濁す。
「だって家族に迎えに来てもらった小さい子みたいだし……」
「気にすることないって。急な雨なんだしみんなも分かってるよ」
「クラスメイトに見られたくない」
「え~、いいじゃん。『彩歌さん昨日一緒に帰ってた美人の先輩誰!?』『おねえちゃんだけど』『わぁー、あんな美人なおねえさんがいて羨ましい!』みたいな会話があるかもよ?」
「……普通自分で美人って言う?」
「じゃあさくらは私のことどう見える?」
にこりと問いかけられて私は視線を外した。私だって姉のことは美人だと思っている。綺麗で可愛い自慢の姉だ。
「……美人でいいんじゃない」
素っ気なく呟いて返すと姉は「んふふ~」と笑って体を寄せてきた。
「ちょっともみじねぇ、押さないでよ」
「寄らないと肩が濡れちゃうからさぁ。ほらさくらも、もっとこっちに寄って」
「私は多少濡れてもいいから、もみじねぇがちゃんと傘に入って」
「ダメダメ! さくらが濡れるくらいなら私が傘の外に行くよ」
そう言って傘の位置を私の方にずらす姉に、私は慌てて傘の柄を押して元の位置へ戻した。
「わかった、わかったからちゃんと傘に入ろ!」
きちんと傘を真ん中で差して、互いの腕と腕が触れ合うほど体を寄せる。二の腕が押し合う感触にドキっとしながらも平静を保って足を動かす。今更な話ではあるが姉と相合傘をしているこの状況はあまり人に見られない方がいいのではないだろうか。仲が良い姉妹ととってくれるならいいが、それ以上に思われでもしたら……。
つい不安になってしまう私の手を、姉の手が握ってきた。
え? と視線を下げる。いつの間にか姉は傘を持つ手を左右変えて、手を繋いできたようだ。
「あ、も、もみじねぇ……」
これまで学校の帰りが一緒になったとしても姉と手を繋いで帰ることはなかった。ルール、というよりは通学路だと生徒の誰かに見られる恐れがあるからだ。
「雨だし傘で顔も隠れてるから大丈夫だって」
「手は隠れてないんだけど」
「体で挟むように隠せば分からないよ」
「いや分かるって」
一応背後を窺ってみる。離れたところに通行人が数人いたが生徒の姿は見当たらなかった。
「じゃあさ、いっそ堂々と繋いでぶんぶん振り回すのはどう?」
姉が手を繋いだまま前後に大きく振りながら歌い始めた。
「あめあめふれふれかあさんが~、じゃのめでおむかいうれしいな~」
「ちょっとやめてよ恥ずかしい!」
たまらず注意するが姉は耳を貸すつもりはないようだ。
「さくら覚えてる? 『あめふり』って歌なんだけど」
「……はぁ、聞いたことはあるよ。続きはあれでしょ。ピッチピッチチャップチャップ――」
「「ランランラン」」
最後のところで二人の声が重なった。思わず姉と顔を見合わすと、姉はにやにやしていた。
「なんでちょっと嬉しそうなの」
「いやぁ、小さい頃もこうやって雨の日に一緒に帰ってたなぁって」
「もみじねぇって事あるごとに小さい頃の話するよね」
「それだけ私にとっての良い思い出だったってこと。あの頃のさくらは小さくて純真で可愛かったなぁ。あ、もちろん今だって可愛いからね」
「フォローありがと。もう小さくもないし純真でもないけど」
「すねないでよ~」
「すねてないよ」
普通の所感を口にしただけだ。成長すれば体は大きくなるし、様々な経験を積めば純真さもなくなっていく。それを嘆いたりすることはない。むしろ高校生にもなって雨の歌を歌いながら帰る方が色々と危ないと思う。
「そういえば小さい頃さくらにこの歌を聞かせたときに『じゃのめってなに?』って聞かれて困ったんだよね。私も知らなかったからさぁ、お母さんたちに聞きにいったらお母さんたちも知らなくて最終的に辞書で調べて解説してくれたっけ」
姉が懐かしそうに遠くを見やった。
子供によくあるやつだ。見たもの聞いたこと全部に『なんで?』と疑問を抱き大人に問いかける。その内容次第で大人がとても苦労することで有名だ。子供の作り方とか。
「それで、じゃのめって結局なんだったの?」
「え? さくら覚えてないの?」
「そんな昔のこと覚えてないよ」
「えっと、確か和傘の一種だったかな。唐傘みたいなやつで、傘のまんなかにぐるっと白い輪っかが描かれてるの」
「……まぁなんとなく分かったような」
唐傘といえば赤い唐傘おばけしか浮かばない。おばけはともかくあの和風の傘を差した母親が迎えに来るところを想像するとなんとも風情がある。現代だからこそそう思うのだろうか。
「ちなみに、『じゃのめ』って蛇の目って書くんだけど、その字をさくらに見せたら恐いって泣かれた」
「う、うそでしょ? さすがにその程度で泣かないって」
「ホントホント。それでお母さんに泣きついてさ、おいてけぼりにされた私はひとり寂しくその光景を眺めていたわけですよ。いやー、せっかく調べて教えてあげたのに悲しかったなぁ」
「……知らないし、そんなのもう時効だから」
「あはは、今気にしてるわけないじゃん。その当時の話ね。昔はどうあれ、今は雨の日にこうやって手を繋いで二人で帰ってる――それだけで幸せだよ」
私の手がぎゅっと握られる。そういえばずっと手を繋いだままだった。話しているうちにそんなこと気にしなくなっていた。姉と触れ合うことがあまりにも日常になっているせいかもしれない。
「手、離すなら今のうちだよ」
くすりと笑って姉が言った。まるで私が手を離すことはないと確信しているような口ぶりだ。
私は姉の手を握り返して振り子のように前後に振りながら言う。
「これは私が繋いだんじゃないから。能天気な姉にむりやり手を繋がれただけだから」
我ながら強引な理論だ。姉も私の言いたいことは分かっているようで一緒になって手を振りだした。
「そうだね、さくらは悪くない。私が手を繋がせちゃってるからしょうがない。もしお友達に何か言われたら存分に私の所為にしてね。『うちの美人で優しくて慈愛に満ちあふれたおねえちゃんの所為だ』って」
「さっきより修飾語が増えてるんだけど」
「ピッチピッチ気のせいランランラ~ン♪」
「歌ってもごまかせてないから」
「じゃあさくらも歌おう」
「絶対イヤ」
わいわいと言い合いをしながら帰路を進んでいく。天気は変わらず良くないけれど、私と姉の周りの空気はそんなことを感じさせないくらい活気に満ちている。
ふと、それは傘のお陰かもしれないと思った。雨から私たちを守る傘は同時に私たちを世界から切り離してくれる。雨粒さえ入ってこないこの空間は私たちだけのものだ。だから外だというのに家と同じように話せてしまう。
下校中はあまりいちゃいちゃするべきではないと分かっているが、まぁ、雨で視界が悪くなっているということで大目に見てもらおう。
恋人同士が相合傘で帰るとはそういうことなのだから。
家の玄関のドアの前に着いた。ひさしの下で姉が傘を開いたまま外に振って水滴を払っている。
私が先に中に入ろうとしたときに姉が話しかけてきた。
「そういえばこの傘どう? この前見つけて新しく買ったんだけど」
姉の持っている橙色の傘に目を向ける。
「可愛いんじゃない? 紅葉っぽくてもみじねぇに合ってるし」
「でしょ~? ピンクで桜模様のがあったらさくら用に買ってきたんだけど、無かったんだよね」
「私はいいって。別に傘なんて何でもいいから」
「そんなことないよ。ビニール傘とか無地で薄いのは絶対ダメ」
「なにそのこだわり。雨さえ防げるならどれでも一緒だって。折り畳みの方が助かるけど」
「そういうことじゃなくて、傘の向こうが透けて見えたらキスできないじゃん」
姉が傘を正面に広げて視界を隠し、私にキスをしてきた。
予想もしていなかった私は避けることも防ぐことも出来なかった。
「~~~もみじねぇっ!」
唇が離れてから姉を睨んだ。玄関の外とはいえ家には母がいるのだ。傘で隠したからといってこんな場所でいきなりキスするのはやめてほしい。
「相合傘にキス――いつか絶対やってやろうと思ってたんだけど、早々にチャンスが来てくれて良かった良かった」
満足そうに頷きながら姉が傘を畳み始めた。キスする為に傘を広げていたのかと思うとなんともしょうもない。姉らしいと言えばらしいのだが。
「……せめてもうちょっと場所とタイミング選んで」
「こういうところで不意打ちでするのがいいんだよ。いやぁ、部活休んだ甲斐があったってもんだ」
「休んだの!? こんなことの為に!?」
「こんなことじゃないよ。私にとっては部活より大事なこと」
「でも夏に大会あるんじゃないの?」
「だいじょぶだいじょぶ、うちの部けっこうゆるいから」
「そういうことじゃなくて――」
家の中に入っていく姉の後を追いながら、この姉はどんな天気でもどこに行ってもずっとこのままなんだろうな、と思った。
……そういうところも含めて、好きなんだけど。
終