恋人姉妹はむやみにいちゃいちゃしない
姉妹で恋人の二人が過度なスキンシップに関して一悶着するお話
「もみじ、片手でごはん食べないの。お椀くらい持ちなさい」
夜の食卓に母の注意が飛ぶ。それを受けて姉が「はーい」と返事をした。
一応姉の名誉の為に弁明しておくと、普段はきちんと右手でお箸、左手でお椀を持ってご飯を食べている。それが何故今夜は行儀悪く食事をしているのか。
私は視線を下に移した。お椀を持っているはずの姉の左手が今私の太ももをさわさわと撫でている。食事中なのにも関わらず姉は空いた手で私を触っていたのだ。しかもこの手は何度払いのけてもここに戻ってくる。
(いい加減にしなさい!)
さすがにこれ以上は看過できない。私の空いている左手で姉の手の甲を思いっきりつねってやる。
「――っ」
姉が声にならない悲鳴をあげてようやく手を引いた。まったく、両親を前に何を不埒なことをしているのやら。もしもバレたらどうするつもりなのか。
これは一度きちんと話し合う必要がありそうだ。
「というわけで、家の中での決まり事を作りたいと思います」
私の部屋に戻ってからさっそく姉に切り出した。
「最近のもみじねぇの行動は目に余るものがあるのでやっちゃダメなことを明確にしようってことなんだけど、異論ないよね?」
「え~~~」
露骨に嫌な顔をする姉。
「ちょっと触るくらい姉妹として普通のスキンシップだよ」
「そのちょっとでお母さんに怒られたんでしょ。変に勘ぐられたりする前に自制しなさい」
「む~~~」
口を尖らせる姉を見て溜息を吐く。まるで小さな子供を相手にしているみたいだ。
私はぴしっと人差し指を立てて言い聞かせる。
「まず一つ目。お父さんかお母さんが近くにいるときは私に触らない」
「異議あり異議あり!」
「……なに?」
生徒のように勢いよく手をあげる姉をじろりと見やった。姉はこぶしを握って眉を険しくする。
「さっきは食事中だったから注意されただけで、ソファーに座ってるときに手を握ったりするのはありだと思いまーす」
「それを言い出したらキリがないから全部やめにしようって話。……部屋に戻ってからいくらでも触れるんだから」
姉が顎に手を当てて私の方を意味ありげに見てくる。
「ははぁん。結局さくらも私に触られるの好きなんじゃん」
「べ、別に好きとかじゃないし! もみじねぇが何処でも触ってこようとするから、だったら二人きりのときに触ればいいじゃんって言いたくて――」
「はいはーい、じゃあ今からたくさん触ってあげるね~」
姉が私に抱き着いてきてわしゃわしゃと手を動かす。
「ちょっと! まだ話は終ってないから!」
「要するに見つからないようにやれってことでしょ? 大丈夫だって~」
そう言うと姉がキスをしてきた。唇を合わせるだけの軽いキス。今では当たり前のように姉とキスをするようになったが、それも問題のひとつだ。
私は二本立てた指を顔の間に割り込ませる。
「さっきの続きの二つ目。キスをむやみやたらにしない!」
「それこそ大丈夫だよ。キスはさすがにお母さんたちの前ではしようとしてないでしょ?」
「洗面所とかで隠れてするのも無しだから」
「待って! それはいいじゃん! 見られてないし軽くちゅってするだけだし!」
「いつどこで見られるか分からないからダメ」
姉が動揺をあからさまにして狼狽える。
「さ、さくら、いったん落ち着こ? 過度な規制は国民を徒に抑圧するものなんだよ?」
「規制って……二人のときにするななんて言ってないんだけど。とにかく、お母さんたちが居るときは一階で変なことするのは禁止」
「そんなご無体な……」
この世の終りのような表情でわななく姉だったが唐突に何かを思いついたらしく、きりっと引き締めた顔で私の両肩を掴んだ。
「さくら、知ってる? キスって健康にいいんだよ?」
「は?」
「どこかの学者さんの研究結果でも出てたんだけど、キスをすることでストレスが減ったり免疫力が高まったりカロリーを消費したり、と良いことずくめなんだ」
「はぁ」
確かに何かのニュースで読んだ気はするが、だからといってどこでもキスをしていいわけではない。私に疑惑の目を向けられながらも姉は言葉を続ける。
「地下鉄の広告でも『キスをしよう』なんて言われるくらい日本人はキスをしたがらない。キスっていうのは健康にいいのもそうなんだけど、なによりも愛情表現じゃない? 恋人や夫婦がいつまでも仲良く健康でいられる秘訣こそがキスなんだよ」
「つまり?」
「キスしなきゃ死んじゃうってこと~」
隙をついて再び唇を重ねてきた姉を引きはがしてから私は三つ目を宣告した。
「三つ目! 一日にするキスの回数を制限すること!」
「……え」
「際限なく許してたらもみじねぇはずっとキスしようとするってことが分かったから、回数の上限を決めとこうよ。手を繋ぐとことかはもし見られたとしても仲がいいねで済むけど、キスは言い訳のしようがないんだからね」
「――――」
姉はまるで鬼や悪魔でも見たかのように驚愕と恐怖に包まれた表情で口をぱくぱくさせてから消え入るような声で囁いた。
「さくら、私を殺す気なの……?」
「なんでよ! おおげさすぎ」
「知らないならさくらに教えてあげる」
「何を?」
「私は毎日一定量さくら成分を摂取しないと死んじゃうんだよ」
「死ぬわけないでしょ!」
「死ぬの! 心が!!」
ああ言えばこう言う。よっぽどキスの回数が減るのが嫌なのだろう。……恋人としては喜ぶべきかもしれないが、だからといって甘やかしてしまってはお互いにダメになってしまう。
「とにかく、キスは一日三回まで。二人きり以外のときは禁止。今後はこれでいくからね」
「………………」
姉の表情が完全に死んだ。抜け殻になったようにベッドに倒れ込んだ姉はぴくりとも動かなくなった。
さすがに心配になりおそるおそる声を掛ける。
「も、もみじねぇ?」
「……くせに」
「え?」
「さくらだってキスし始めた頃は自分から誘ってきたくせに」
「そ、それは――」
私が姉と初めてキスをしてから少しの間はそれはもう毎日キスをしまくっていた。確かにそのとき私からキスをねだるような振る舞いもしていたと思う。今となってはなんて恥ずかしいことをしていたのかと自省するばかりだが、それはあれだ。熱病みたいなもので思考がおかしくなっていただけだ。そうに違いない。
「そういうのがいけないと思ったから抑えるようになったんでしょ! もみじねぇの方が年上なんだからもっとちゃんとしなよ!」
言い返しながらこれではまるで私がキスしたいのに我慢しているみたいだと思い、姉に突っ込まれやしないかとひやひや見守る。
だけど姉は気付かなかったようで、死人のように恨みがましく私に向けてこう呟いた。
「ハンストしてやる」
おどろおどろしい口調ながらその目には決意が宿っていた。
「もうキスもハグもしてあげない。私がさくら欠乏症で死ぬまでずっと続けてやる! あとで後悔しても知らないからね!」
言うがはやいか姉はばっと立ち上がりドアの方へと駆けていく。部屋を出て行く直前で私の方を振り返ると「べーっ!」と舌を出してからどたどたと隣の姉の部屋に戻っていった。
その勢いに呆気に取られた私は開けっ放しのドアを見つめたままぽつりと呟いた。
「……ハンスト?」
姉による自称ハンガーストライキはどうせ口だけで明日になったら平気な顔をしてまた私にべたべたしてくるものだと思っていた。
だが私は姉の本気を侮っていた。
翌日からの姉の行動は徹底していた。ソファーで並んで座るときは手を伸ばしても届かない位置まで離れ、洗面所ですれ違うときでさえ肩や腕が当たらないように体をひねってしっかりと躱す。それなのに挨拶や日常会話はこれまで通り普通というのが逆に恐ろしく感じられた。
「もみじねぇ、無理してない? 大丈夫?」
思わず部屋で聞いてみると、姉はなんてことはない風に笑った。
「全然平気だよ。さくらの言う通りあんまりべたべたし過ぎてお母さんたちにバレたらマズいもんね。これからはおねえちゃんとしてしっかりしていくつもりだから」
とても先日あっかんべーをして部屋を飛び出していった人物と同じだとは思えない発言に私はただならぬ気配を感じて強い視線を送る。
「なにかたくらんでないよね?」
「ひどいなー。さくらが言うからスキンシップ抑えてあげてるのにそんなこと言っちゃう? だったらまた前みたいに触りまくりキスしまくりに戻ろうか?」
確かに言い出したのは私だ。どういう経緯があったとしてもあの姉がここまで衝動を抑えて生活してくれているのだから私が文句をつけるのはおかしい。
「……今のままで結構です」
ほらみろと言わんばかりに姉は胸を張ってから、学校であったことを話し始めた。楽しそうに話す姉を見て私は息を漏らす。
これが私の望んだことだ。今までが姉といちゃいちゃしすぎだった。姉妹である前に学生なのだから節度ある交際を心掛けなければならない。こんなにも姉がきちんと我慢してくれているんだったらデートのときにでもしっかり手を繋いで触れ合おう。週に一回くらいだったらご褒美としてたくさんキスさせてあげてもいい。そのくらいだったらいいよね?
なんてお気楽に考えていたのも最初だけだった。
姉の部活が試合などで忙しくなりデートをしようと思っていた土日が潰れてしまったのだ。しかも二週連続。
つまり私は姉と二週間触れていないことになる。ここまでは私も予想していなかった。正直いくら注意しても姉のことだからなんだかんだで私にキスしてくると思っていたし、リスクのある状況下でのスキンシップさえ少し減ってくれればと考えての提案だったのだが。
姉のぬくもりが、唇の柔らかさが、今はとても恋しい。
(まさか私の方が寂しくて根をあげそうになるなんて……)
私だって本当は姉に触れたいし触って欲しい。キスだって人の目さえなければずっとしていたい。けど実家にいる以上はある程度抑えるべきなのだ。もしも両親にバレて姉と引き離されることになったなら、私はもう生きていけない。
せめて家を出るまでは――。
だと言うのに姉はそんな私の気持ちも知らずに勝手なことばかりをする。勝手に触って勝手にキスして、勝手に放置して。
(もう私に触れるのイヤになっちゃったのかな)
私があまりに口うるさく言うものだから嫌気がさしてしまったのかもしれない。そんなことを考えると胸の内側がじくじくと痛む。
だったら決まり事なんてやめにしてすぐに姉にお願いすればいいのにと思うかもしれないけど、ここまで時間が経ってしまってはもう引っ込みがつかない。それにここで私が折れてしまったらそれはそれで姉が今後調子に乗りそうだし。
いつまで私の精神はもってくれるのだろうか。なんて懸念しながら自室に戻ると、私のベッドで姉が寝ていた。
「…………」
テレビも観ずに先に上がったからてっきり宿題かなにかしているのかと思っていたらまさかこんなところで寝ているなんて。
「もみじねぇ」
呼びかけてもすぅすぅという寝息が返ってくるばかりで起きる気配はない。
なんで私のベッドで完全に寝入っているのか。もしかして私欠乏症によって溜まったフラストレーションを私のベッドに寝転がることで解消していたのかもしれない。それで気持ち良くなってつい眠ってしまったと。
今の私にそれを怒る気持ちはない。むしろこうやって発散していることが分かって安心したくらいだ。私も時間があるときに姉のベッドに寝に行こう。うん。
「もみじねぇ、寝るなら自分のとこに戻りなよ」
再度声を掛けるがやはり反応はない。
しょうがないなぁ、と姉を揺さぶり起こそうと近寄って、私は動きを止めた。
寝息を立てていた姉の小さな唇が私の方を向いている。ピンク色の唇は愛らしくてとても柔らかそうだ。
私はなんとなく周囲を見回した。ドアの方にも目をやって、二階に誰も上がってくる気配がないのを確認してから姉の顔の前に腰を落とす。
(少し、少しだけ、ほんのちょっとだけだから)
胸中で自分に対して言い訳をしてから音をたてないようにゆっくりと姉の唇に寄っていく。息を止めたまま私の唇が姉の唇に触れた。
次の瞬間、姉の目が開いた。
「――――」
ずざさと勢いよく体を離して私は両手を振る。
「ち、ち、違うからね! 今のはたまたま偶然もみじねぇの顔に近寄っただけでまったくこれっぽっちも変なことしようとしてたわけじゃないからね!」
姉は焦る私の声など聞こえていないかのように自身の唇を指でなぞり、とても嬉しそうに目を細めて言った。
「良かった。我慢してたの私だけじゃなくて」
その言葉に私のなかでずっと張っていた何かの糸が切れた。力無く座ったまま呟く。
「……もみじねぇが意地張るのが悪い」
「うん、ごめんね」
ごく自然に謝る姉に私は頷いて返した。姉が寝転んだまま両手を広げる。
「おいで」
私は躊躇せず姉の胸に飛び込んだ。二週間ぶりの姉の感触、匂い、ぬくもりに心のなかがあたたかいもので満たされていくのを感じる。
「もう一回さくらからキスして欲しいなぁ」
私の頭を撫でながら姉が優しい声で言った。
自分からキスをするのは恥ずかしい。だからいつも姉からしてもらっていた。でもその強情さのせいで二週間も姉と触れ合えなかった。だったら多少恥ずかしくても私の方から姉に触りにいくほうがずっといい。
姉の顔に両手を添えて、目を瞑ってから私はキスをした。
「――やっぱ無理! 恥ずい!」
数秒も経たずに顔を離した。姉がくつくつと笑う。
「さくらからしてくれるようになっただけで嬉しいよ」
「っ、絶対もみじねぇの方が先に我慢できなくなるって思ったのに」
「あー、うん、私もそう思ってた。だから溜まったフラストレーションは全部部活にぶつけちゃった。いやぁ、お陰で後輩たちから『最近の彩歌先輩ピリピリしてる』とか言われちゃってさぁ」
なんというか、ごめんなさい。私の所為で部員の方々にまで迷惑をかけてしまって。
心の中で謝る私の頬に姉が唇を寄せる。
「でもそろそろ私も限界が近かったからさくらが寝込みを襲ってくれて助かったよ。寝たふりして待ってた甲斐があったもんだ~」
「……寝たふり?」
「あ、しまった」
口を押さえる姉に私は剣幕を強める。
「もーみーじーねーぇー?」
「いやいや違うんだって! さくらを騙そうとかじゃなくて、近づいてきて油断したところを引き込んでやろうって考えてただけで――」
「どっちみち騙そうとしてるのに変わりないでしょ!」
ひぃ、と顔を背ける姉に詰め寄って、私はぎゅっと抱き締めた。姉の耳元で小さく告げる。
「……今回は許してあげる」
過程はどうあれ結果として以前のように戻れたのだから本当はお礼を言ってもいいのだが、下手にイニシアチブを取られても面倒なのであくまで私が許すという体裁を保っておく。
思えば私が姉と付き合うきっかけになったのも、姉の寝たふりが始まりだった。姉的には味をしめているのかもしれない。今後は姉が寝ていたらまずくすぐるところから始めてやろう。
「ところでさくらさん」
「なに?」
姉がおずおずと私に尋ねてくる。
「前に決めた決まり事はなかったことにしていいんでしょーか?」
一応私の口から聞いておきたいと姉の目が語っていた。
私は答える代わりに姉に三度目のキスをする。今度はさっき以上に早く唇を離した。
「言わなくても分かるでしょ」
姉の表情がどんどん輝いていくのが見てとれた。あぁこれは今まで以上にスキンシップしてくるな、と私が予想した次の瞬間、姉は私を強く抱き締めてキスをしてきた。
姉にされるこの行為ももはや懐かしさを感じる。
(もみじねぇはやっぱりこうじゃなきゃね)
二週間分の空白を埋めるような激しいキスの嵐にさらされながら、私は姉の手を取り想いを込めてぎゅっと握った。
翌朝、一階に降りると洗面所でちょうど姉が顔を洗っていた。私は居間の方をちらと窺ってから洗面所に入っていく。
「あ、おはよー、さくら」
タオルで顔を拭いていた姉が挨拶をしてきた。いつもならここですぐに挨拶を返すところだが。
私は不意打ちで姉のタオルを奪い取ると、驚き顔をした姉にキスをした。
「……おはよ」
さすがに姉の目を見るのは気恥ずかしかったので、タオルを突き返してさっさと蛇口から水を出して顔を洗う。その後ろで姉が騒ぎ出した。
「え、ウソウソ? まさかさくらの方から朝にしてくれるなんて――昨日ので足りなかった? いいよ、一回と言わずに何回でも。ほら、ほら。あぁいいや次は私からするから」
「ちょっと! 顔洗ってるでしょ!」
「私ももう一回洗うから大丈夫だよ~」
「ちょ、やめっ、水が飛び散る――」
「水くらい後で拭けばいいじゃん。濡れた唇ってのもいいよね~」
じゃれつく姉を押し止どめていると居間の方から怒声が飛んできた。
「こら! 朝から騒がないの! ご飯食べて早く行く準備しなさい!」
母の声で渋々引き下がった姉を見ながら、やはりキスをするのは時と場所を考えてからにしようと私は改めて思うのだった。
終