エル・ヴィーゼル。
「さてと~・・・冗談はこれくらいにして・・・」
キクちゃんさんはそう言うと少しの間を置いて『あのさ・・・』といつもよりだいぶ低い声を発した。
キクちゃんさんのその低い声に俺の背筋は自然と伸ばされ、そらしていた視線もいつの間にかキクちゃんさんへと戻されていた。
視線を戻すとすぐに真剣な表情をしたキクちゃんさんと視線が合わさった。
キクちゃんさんのその真剣な表情に俺は少し、戸惑ってしまっていた。
「春くんは花咲月くんのこと、好きなんだよね?」
キクちゃんさんのその唐突な質問に俺は迷わなかった。
俺は迷わず『好きですよ』と答えた。
けれど、それをキクちゃんさんは『違う』と言った。
キクちゃんさんの言った『違う』の意味を俺は知っている・・・。
キクちゃんさんの求めている『好き』は俺が答えた『好き』とは違う『好き』なんだ・・・。
「・・・好き・・・なんだと思います。・・・たぶん。花咲月くんのこと・・・」
俺はモソモソとそうキクちゃんさんに答えて顔や身体が熱くなっていくのを感じていた。
俺の返答にキクちゃんさんは『そっか!』といつもの溌剌とした高い声に戻っていた。
「けれど・・・どうすることもできません。相手が・・・悪すぎる」
俺はそんな言葉を漏らして苦く笑うことしかできなかった。
そんな俺の様子を見てキクちゃんさんは浮かべていたホワホワの笑顔を消していた。
「同性ってだけでも難しいのに相手が花咲月くんじゃ叶うわけないですよ。あの顔にあの声ですよ? おまけに長身細身で仕事できて女の子にモテモテで・・・」
俺はそれ以上の言葉を口にするのをやめた。
それ以上の言葉を口にすると立ち直れなくなりそうで怖かったから・・・。
「けれど、花咲月くんは春くんに興味、あるみたいだよ?」
キクちゃんさんのその言葉に俺は苦い笑みをじんわりと滲ませた。
「『興味』があるのと『好き』はまた別物でしょう? 大体、何でキクちゃんさんは花咲月くんが俺に興味あるのと思うんですか?」
俺の質問にキクちゃんさんは『根拠ならあるよ?』と言ってもう冷めてしまっているであろうミルクティーをゴクゴクと一気に飲み干した。
ミルクティーをゴクゴクと飲み込んでいくキクちゃんさんのその喉元を俺は不躾に見つめ見ていた。
キクちゃんさんのその白い喉元にははっきりと上下する男性特有の突起が出ていた・・・。
「どんなことでも『興味』があるってことはいいことだよ。春くんはエル・ヴィーゼルって人の有名な愛の言葉、知ってる?」
「あ、いえ・・・。知りません」
俺の返答にキクちゃんさんはニコリと微笑んで『じゃあ、教えてあげる!』と明るい声を発した。
「『愛の反対は憎しみではなく無関心なのです』」
キクちゃんさんの言ったその言葉に俺は『え?』と困惑の声を漏らしていた。
だって、その言葉は・・・。
「その言葉・・・マザー・テレサのじゃないんですか?」
俺はそう認識していた。
俺の言葉にキクちゃんさんはニコリとして『やっぱりそう思ってた?』と言ってテーブルの上に置かれていた古めかしい小さな置き時計へと目を向けて『そろそろ戻らないと』と呟いた。
キクちゃんさんのその言葉に俺は『はい』と答えたあと、すぐに『そろそろ戻りましょうか?』と言葉を付け加えた。
それにキクちゃんさんはコクリと頷いた。
「『愛の反対は憎しみではなく無関心なのです』。この言葉は本当はエリ・ヴィーゼルって人の言葉なんだって」
キクちゃんさんはそう言いつつ席を立って二人分の注文が記載されている伝票へと手を伸ばした。
俺はキクちゃんさんのその手をやんわりと遮った。