1995.1.17.05:46
衝動的に書いたので文章構成が全くもってなされてないと思います。頑張って読んでください。
私には小さい時から抜けない癖がある。
聞くとかなり痛い癖だと思う。
私は強いストレス状態に陥ると、足の小指の爪を剥いでしまう。
強いストレス状態と言うのは最近分かった。
例えば両親の喧嘩。
例えば大学受験。
部屋で一人小指の爪を触り、運が悪ければ小指から血を流し、次の日に靴が痛くてまともに歩けなくなる。
親は気付いていた。
「あんた、またやったんか!」
姉は未だに癖が続いていたとは去年まで知らなかったようだ。
母は言った。
「あんたの癖はあの地震からやねんで」
1995年1月17日午前5時46分
当時4歳の私は寝ていた。
母だけが起きて、コーヒーメーカーの電源をいれた時だった。
嫌な天気だな
母は5分前に新聞を取りに外へ出た時にそう思ったそうだ。
遠くから迫ってくる轟音は我が家を揺らした。
母の目の前で熱々のコーヒーが壁に飛んだ。
あまりにも非日常過ぎる出来事にも母は冷静だった。
揺れている間に布団で寝ていた私を片手で掴んで(いわゆる火事場の馬鹿力か)姉が寝ていた二段ベットの下段に放り込み、玄関から家族の靴を持ってきて、最後にはふすまを外してガラスが散らばる床の上に敷いた。
数日後、家に帰ると私の寝ていた所にはオルガンが倒れ、人形が入っていたガラスのケースが砕けていた。
その話を聞いているとつくづく母の偉大さを思い知らされる。
私にある記憶は瞬間的なものばかりで、目が覚めた時に母の手によって吊されていた事だけ覚えている。
ベットに放り込まれた記憶もない。
揺れが収まり、異常とも言える静けさの中で、当時私が愛用していた蛙の人形がケロッケロッと鳴いた。
覚えている。
だが、それに対して私がパニックになり
「スイッチを切ってー!!」と何度も叫んだ事は覚えていない。
姉に連れられて、外に出る。
パイプが折れて水が流れている。
人は沢山いるのに話す声は聞こえない。
私と母、2番目の姉は家の隣にある銀行の植え込みに座っていた。
1枚の毛布(父の友人が持って来たらしい)に3人で包まり、道路を挟んだ向こうを眺めていた。
賑やかな商店街だ。地震を期に有名になった市場もあった。
今ではただの木片とがらくたである。
商店街の入口が見えない。
私は眺めながら無意識に
「怖い……怖い……」とずっと呟いていた。
父と1番目の姉はいない。
婆ちゃんと姉の友人を探しに行った。
婆ちゃんも友人も目の前のがらくたの中にいる。
元々曇っていた空に黒煙が昇りはじめた。
がらくたが燃えはじめた。
昔ながらの長屋の2階で寝ていた婆ちゃんは父の声に気付き、床下から発見された。
数名のベトナム留学生の協力で、家が燃える前に救出。
留学生達は名前も告げず、他の人を助けるために瓦礫の奥へ入って行った。
父は救出の際に釘が腕に刺さり、婆ちゃんと共に近くのM小学校で治療。
姉は友人を探しに行った。
友人は既にM小学校に避難していた。
友人の父は還らぬ人となった。
毎日家に来て私を可愛がってくれた、父の友人も死んだ。
余談になるのだが、無料配布していた冊子に阪神大震災の詩が載っていた。
地震で亡くなった母がくれたチャイナマーブルの味は忘れない。
そんな詩だった。
姉はその詩を見て、驚きながら言った。
「あんたが地震の前日におっちゃん(父の友人)から貰ったお菓子がチャイナマーブルやってんで」
私はおっちゃんの顔は覚えていない。
だが大きな手から渡されるお菓子が大好きだった。
無料配布の冊子だが、私の記憶の一部の様に大事にしている。
銀行前で待っていた私達には火が迫ってくるにつれ、人の流れが激しくなった。
人は叫び、人手を求める。
だが私には静寂に思えた。
静寂の中、いくつものサイレンの音が迫る。
不思議な感覚。
叫び声が聞こえるのに静かだった。
母が言った。
「あのガソリンスタンド……」
がらくたになった市場の隣にはガソリンスタンドがあった。
火は迫る。
いろんな人の口から爆発という言葉が発された。
記憶に有る。
私は母に聞いた。
「爆発するとどうなるの」
母は答えた。
「ここもおうちも危ないよ」
だったら逃げろよ、と今は思ってしまうのだが、母は父と姉の帰りを待っていた。
私も黙り、また
「怖い……」と呟いていた。
姉が戻り、M小学校まで誘導されて、そこで腕に包帯を巻いた父と頭に包帯を巻いた婆ちゃんに会った。
無事を喜ぶ暇もない。
余震が起こる度に体育館では人達が声を発する。
寝なさいと言われても瞼が閉じれない。
体育館の天井を眺め(私は瞬きもしなかったそうだ)怖いと呟きつづけた。
明るくなって、救援物資が届いた。
メロンパンを貰った。
食べた記憶はない。
母は自分の実家は潰れたと思っていた。
10時半頃。
母方の一家が探しに来た。
古い家だが、海が近いせいか揺れが弱く、潰れるどころか電気も通っていた。
電気が通っているのはとても有り難かった。
未だに情報が掴みきれなかったからだ。
母の実家に避難させてもらった。
テレビには衝撃的な画が写った。
大きな道路が倒れている。
バスが道路から突き出ている。
町が黒煙に包まれている。
画面の隅に見覚えのある家が写った。
私の家だ。
黒煙に包まれているのは、婆ちゃんの家だ。
婆ちゃんは静かにお経を唱えた。
この家での生活は数日間だったが、私には一月近くに思えた。
あんたは余震が来たらお母さんに抱きついて、目を開けながら寝とったんやで。
今では笑い話である。
この家で暮らした辺りから、私の癖は始まった。
血が出たら母に泣いて飛び付いた。
懐中電灯用の電池を買った時、電気屋の店主からひょっこりひょうたん島の双六をもらった。
唯一のおもちゃだった。
大事に大事に遊んだ。
それからの記憶も薄い。
家に帰るとき、幼稚園の園長に会った。
「あなただけが連絡がつかなかったのよ」と私を抱いた。
地震の数日後、父と婆ちゃんの家の跡を見に行った。
家を支えていたであろう鉄筋がアスレチックに思え、楽しんだ覚えがある。
幼稚園の帰り、母が我が家にガスが通ったと聞いた。
2番目の姉と何故かピザを作れとせがんだ。
小学校に上がって数年経った時、1年生の時の健康カードが見つかった。
家族から学校に言っておきたいこと、の欄に
「幼稚園のカウンセリングで一番精神的後遺症が強いと言われました」
と母の字で書いてあった。
ごく最近まで雷、ミキサー、電車、花火、強風の音が聞けなかった。
婆ちゃんの家が焼けたのは、道幅が狭くて消防車が通れなかったから。
頼りになる水は、M小学校のプールのみだった。
今では道幅が広く整理され、私が住む家も建っている。
私の頭の阪神大震災。
ちょっとの記憶と大量の情報で組み立てられた私の阪神大震災。
私を苦しめるもの。
私を育てたもの。