昭和40年代の青春ストーリー
プロローグ
暗くやけに広く感じる板の間に高い天井から一つだけぶら下がった水銀灯から光の帯が降りてくる。
シュッ、シュシュッと床を擦る音。トン、トトンと床を突く音だけが聞こえる。
時折、ダイヤモンドダストのような小さな光の粒が弓子の周りに現れては、たちまち消えていく。
トウシューズを履いて踊る弓子を、俺は片隅であぐらをかいて板壁に寄りかかったまま見るとは
無しに眺めている。
おどる、おどる 「1」
弓子と俺は同じ公立中学、高校と進んだことから不思議なつきあいが始まった。12歳で出会ったときから、なぜかあまり異性と感じることもなく、それでいてなんとなく話し出すと10分でも20分でも話が続く。それなのに別のクラスになった時期は何ヶ月も話さないこともあった。
弓子は俺のことを昔からユウジクンと呼ぶ。もっとも俺が泉祐司という名だから当たり前の事だが、俺は初めは弓子のことをゆみこさんと呼んでいた。いつからか自然に弓子、と呼ぶようなになったがもちろん俺の女、などと言うつもりは毛頭なかった。さん付けが面倒になったのか、自然とそうなった。中学生なんだから異性として意識しても不思議ではない時期だったのだろうが、なぜか互いにそんな気持ちにはならなかったのはどうしてだろう、と今でも思う。
中学校は横浜のはずれで自然あふれると言うと聞こえは良いが、かなりの山間部の丘の上にあった。
弓子は徒歩で15分くらい、俺は歩くと30分以上かかる所に家があったからバス通学をしていた。中学校からバス停までは丘を下らなければならず弓子の家も同じ方向だったので登校や下校の時に偶然一緒になることもあった。登校時は時間がないので軽く「オハヨー」位しか声を掛けないが、下校時はなんとなく話し出すことも多かった。一年生から同じクラスだったので、その日の教室での出来事などたあいもない話がほとんどだった。
たとえば、由美子が「今日の2時間目のS先生の話、覚えてる?数学の授業であんな話聞かされてもピンとこないよねー」俺は「そうかなぁ?俺は面白いと思ったよ、それより昼休みにAとMが揉めてたろ。家から富士山が見えるんだから、富士山からオレの家がみえるはずだ!とか、そのほうがよっぽどピンとこない話だったなー」などと、どうでもどうでもいい話がほとんどだった。話が長くなるとバス停で立ち話が続くこともあった。話が一段落つかないうちにバスが来ることもあった。そんな時は俺はバスに乗らない。車掌に「お客さん乗らないんですかー?」と聞かれることもあった。早く帰ってもする事がない時は話が終わらないうちはバスをやり過ごしたりもした。
中学1年生も7月になった頃、俺は科学倶楽部というクラブに入部した。友達の国枝が入部していたし、聞くところによれば活動は水曜と土曜の午後だけで、たいした事もしないで理科室でダラダラしてるだけと聞いたからだった。なるほど入部してみると顧問の先生も現れず2年生を中心にくだらない話をしているばかりだった。悪い先輩もいて理科室で煙草を吸う奴もいた。別に強制される訳でもなく、1年生部員には優しい先輩達だったので俺は最後まで部員でいた。
2年生になっても弓子とは同じクラスだった。2年生になってから弓子から聞いた話だったが月曜はそろばん塾、火曜と土曜はクラシックバレエのレッスンに行っていたらしい。電子計算機の時代になんでそろばん?バレエってテレビかなにかで見た記憶があったが、まったく興味はなかったから深く聞くこともなかった。弓子はなんとなく恥ずかしいからあまり人に話していないと言っていた。放課後は忙しいから部活動はしていないとも言っていた。互いに全く興味のない事を話し出すこともあったが別に腹立たしくも、不快にも感じなかった。フーンと聞き流すだけだった。
1年生の頃から国枝とはよく遊んだ。作ったプラモデルを見せ合ったり、モーターで走る車を作って競争させたり、時には自転車で駅のある街までいって模型屋や本屋を覗いたりしていた。国枝と弓子は接点がないようで、話しているところを見たことはなかった。俺はそんな合間にたまたま弓子と下校が一緒になると話をする事は多かった。ただ、二人でどこかへ行ったとか、行こうと相談したこともなかったはずだ。2年生の秋頃、俺は気になる女の子ができた。隣のクラスの太田悦子だ。少し背が低く色白の子だった。どうする訳でもなく廊下ですれ違ったりする時にちらっと見ているだけだった。あるとき弓子に太田悦子の話をすると「うーん、エッちゃんとは特別仲良くないけどユウジクンが好きなら何となく近づいてユウジクンのこと話してみようか?」俺は慌てて「バカ!そんなんじゃねえよ、余計なことするなよ!」と、言うと弓子は急に下をむいて両肩を震わせ出した。きっと笑っていた。