【雑感】褒めるにしても、けなすにしても、作品と関係を作り上げる過程が欠けている。
一年ぶりくらいにここにきて、ランキングを瞥見するに、十年一日のごとく繰り返される様を見て、気が重くなるのを感じたものである。有名なブログ形式のアニメ総合情報サイトで、既に何千回と繰り返されただろう理屈を見かけたものだから、そういう次第だろうと思ってはみたものの、実際に目にするとなるとまた格別である。
流行りの形式でもって読者を楽しませるのは、まぁ、よろしい。この際内容にも言及しまい。金に困って、いろいろ試して回り、小説で一発当てるというやり方もありましょう。しかしながら、トーマス・マンも言っていることだが、読者を非難するのはむなしいことである。VRMMOの流行がひと段落したこと以外は、何一つ変わっていないところに、この界隈の論壇の層の薄さと怠慢が如実に表れている。そういうものを書く人に私は言うのだが、そして、その昔私もその片棒を担いでいたことの反省から次のことを言うのだが、読者は自分の気に入った言葉以外に目にしないようにできているものだし、論壇諸君の辛辣極まる作文を推敲する労力は、読者教育のための小説に費やした方が効果的だろう。成功したあかつきには、お互い目的が達成されるわけである。すなわち、筆者は読者に自らの思想の感染を見、読者は各々読書の楽しみを見出している。
批判はこんなもの、「好きな事について語るべきだ」。もっともである。かといって、褒める方面でも、良い方向で進んでいるとは思えなかった。
小説の体をなしていないと言うが、小説という言葉の総合芸術に形式はない。小説における形式とは、発表時の姿である。やたらと誰も読めそうにない単語やら熟語を使っているという点や、設定の精巧さをほめるが、こういうところも昔から変わらない論壇の悪いクセだ。どうせ読んでもらうものなのだから、わかりやすいほうが良いのである。設定資料収集に係る勉強の成果は、論文でやればよろしい。――そうは言っても、では、どこをほめるのが正解なのか。まぁ、そういう考えであれば、別に無理してほめなくても良いのである。
みんな褒めるのは簡単だと思っている、だから失敗する。読書、ひいては、芸術鑑賞の一般は、作品と自分との個人的関係から出発するもので、時間がかかる。それはちょうど友達をつくるようなものだ。その友達がどんな人間であるかは、時間をかけてようやくはっきりとわかるようになるものだ。多かれ少なかれ忍耐も必要であろう。これは鉄則であるが、誰も個人的な関係を作品と結ぼうとしない。たかだか液晶画面の文字列にすぎないとみくびっているから、実は何が書かれているのかも分かっていない。わかるものしか見ようとしない。「読者は自分の気に入った言葉以外に目にしないようにできている」。前述の流行りの尺度、難しい熟語と、自分が知っているにすぎない重箱の隅の知識、これらは論壇向けのサービスシーンだ。見つけては「採点」してやる、これが褒めることだと思っている。そして知識を保有する自分も間接的にほめてやる。つまらぬ自尊心である。
繰り返しになるが、作品と関係を作り上げる過程が欠けている。まずは愛読書をつくるところから。好きだった作品たちを読み直してみること。初めての読書で見落としていたことが一体どれほどあるかを知るのである。また新たな魅力をそこに見出すかもしれない、魅力を見出す自分を発見するかもしれない、――まぁ、もしかしたら、二度目は全然おもしろくないのかもしれない。それはそれでよろしい。その過程で、何冊かは手元に残るようにできているものだ、不思議なものだが、それは人生を歩いていて出会う、どういうわけか続いている、あの人との長い長い付き合いと似ているものではないか? 愛読書に終わりはない。