File5:ホシノヒカリ(2)
二週間前。ロンドン。
街中はクリスマスのイルミネーションにキラキラと輝き、家々の窓からはツリーが間近なクリスマスを待ちかねている。
藤井はベーカーストリートで地下鉄を降り、ロンドンの冷たい風に襟を立て1件のパブに入った。
「随分久しぶりじゃないか、フジ!」
顔に年の分だけ皺を蓄えたバーテンが藤井を迎えた。
藤井は落ち着いたパブの変わらなさに安心しカウンターに腰を下ろした。
「この界隈も随分変わったな」
でも、ここは相変わらずだ。
そこまでいう前にバーテンは藤井にワンパイントのギネスを出した。
ギネスの黒い夜の色に月の色をしたきめの細かい泡が藤井を懐かしい気分にさせる。
「覚えてくれていたんだな。オレのオーダー」
「これは、オレの奢りだ」
年期の入ったロンドナーであるバーテンが、ウインクし懐かしい友人に笑いかけた。
藤井は短く礼を言うと地下鉄のスタンドで買った新聞に目を落とした。
王室のくだらないスキャンダルを読み流すと、隅にJAPANの文字を見付けた。
「サムライとゲイシャは元気か?」
藤井は新聞から顔を上げた。
バーテンの笑顔に、自分の両親について訊ねられた時、そんな冗談を言った事を思い出した。
この島から出た事のないこのバーテンは、サムライ、ゲイシャ、フジヤマという日本の知識しか持ち合わせていなかった。
もちろん、藤井の冗談を冗談とは思ってないらしい。
だから、ニッコリ微笑む。
「元気だよ」
「それは良かった。クリスマスはどうするのか。日本に帰るのか?」
「そうだな。ヨーロッパのクリスマスは独り者には淋しいからな。日本に帰って息子の顔でも見てくるかな」
「フジに息子がいるとは初耳だな。息子は何をしているんだ」
藤井は読んでいた新聞を折り畳み、ニッとバーテンに笑って言った。
「ニンジャだよ」
どんなに強くこんな家庭を望んだのだろうか?
ボクは幸せだ。
なのに、ボクの脳裏に焼き付いたあの言葉がボクを不安にさせる。
悪魔の子
ボクは人間の子を演じ続けた。
普通の日本人の男の子を演じ続けた。
しかし、それがボクの息を詰まらせる。
6年が過ぎた。
ボクは演じ続ける日々に、ワケが分からなくなる。
ボクは人間を演じる悪魔?
誰か教えてくれ。
誰か…
何の目印もない唯の十字路。
バカだ。
そう思いつつボクは、6年前に出会ったお爺さんを待った。
お爺さんはボクを見付けた時、あの時と同じ笑顔をボクに向けた。
しかし、黒い瞳に僅かに淋しげな色が加わっていた事をボクは見逃せなかった。
そして、ボクは、演技ではないもう一つの顔を手に入れた。
それは、人の物を盗むドロボーだった。
確かに、その時だけ、ボクはボクでいられた。
幸せなはずの家から出た時、ボクは息が出来た。
素性の知れないイギリス人がボクに沢山の事を教えてくれる。
小学校で習う下らない授業に散々な思いをさせられているボクには丁度いい刺激だった。
ボクがボクでいられる。
確かにボクはそう考えるが、そのボクが何なのか結局分からない。
じいさんは言った。
いつか、分かると。
ボクはそれを、本当の父親に会えることだと思っていた。
本当の“悪魔”に会えば、自分が悪魔か何者か分かる気がした。
『真理…』
そう、藤井真理を創った悪魔に。
なんてバカなことを…
ボクはバカだ。
『太一、起きなさい。朝よ』
朝?
朝…。
どうして、ボクは朝に起きないんだ。
なんてバカなんだ。
もう、何もかもが…。よく分からない。
ちょっと疲れたな。
もう、起きたくない。
ずっと、こうして眠っていたい。
『朝よ。朝よ』
起こさないでくれ。
『学校遅れるわよ』
そんなのどうでもいい。
全てどうでもいい。
お願いだ。
ほっといてくれ。
『ここ、ファミリー・トイ・ストアには、沢山の家族連れが、おもちゃを買いに訪れています。この店の名物のジャンボクリスマスツリーはオープンしてから13年間、沢山の子供達の目を楽しませています』
リポーターはオーナーにインタビューをし始めた。
『ここのクリスマスツリーの飾り付けは、13年間、一度も変えられていないとお伺いしましたが、何か意味があるのでしょうか?』
オーナーは、背の小さな垂れ目の中年の男だった。
『あの中には夢が詰まっているんですよ。夢はそんなにころころ変わるモノではないでしょう』
小首を傾げるリポーターの後ろには華やかなクリスマスツリーが見えている。
テツはテレビのスイッチをオフにし、未だに眠っている服部を眺めた。
「テツ君、リンゴ貰ったけど食べる?」
服部太一の母親がそう言ってリンゴを剥き始めた。
集中治療室から出て今は個室で眠る息子を切なげな瞳で母はなぞる。
ナイフを持つ手がいつの間にか止まっている。
「太一って学校ではどんな感じ?家では特に我が儘言って私達を困らせた事もないし、なんて言うか…、特技もないし、でも、不得意な事もない。テレビゲームが好きなどこにでもいる子。そんな認識しかこの子に持ってない事に今更気付いたわ」
らせんを描いたリンゴの皮がぽとりと落ちる。
「やだ、私ったら、何をテツ君に言っているのかしら」
「学校でも普通でしたよ。唯、僕には彼が普通すぎて不自然な気がしました。4年間、彼とクラスが一緒でしたが、どの教科も常にテストの平均点を取るんです。体力測定にしても彼はいつも平均値をキープしていました」
「そう…」
生返事の向こうで、病室のドアが開き今度は父親が入ってきた。
相変わらず眠っている自分の息子を哀しそうに見つめ、近くの椅子に座る。
「許せないよ。この子を轢いた人間。この子が何をしたと言うんだ」
独り言のように父親は未だ捕まらない轢き逃げ犯に憤りを感じていた。
もっとも、その轢き逃げ犯は存在はしないのだが、それを知る者はこの部屋には居ない。