File5:ホシノヒカリ(1)
一番、古い記憶。
それは金切り声のジャパニーズイングリッシュと、アクセントの強い北部訛りのアメリカンイングリッシュとの激しい怒鳴り合い。
原因は、ボク。
そして、最後の怒鳴り合いも、原因は、ボクだった。
「もう、イヤ。日本に帰るわ。エディ。あなたとは、やっぱり分かり合えないのよ」
「オレもそう思うよ。もう、たくさんだ。出てってくれ。その薄気味悪いガキも連れてな」
2ヶ月前からダディであるエドワードは皮肉な笑いを浮かべボクを指差す。
「そのガキは、正真正銘あの男のガキだよ。あの悪魔のガキだ」
「この子には、何の罪もないわ」
「見ろよ。このガキのこの眼。悪魔の眼だ。オレ達の会話をジッと聴いてやがる。まだ、二歳にもならないのに、完璧に英語と日本語を理解しているんだ。この間もどこかのお偉い博士とやらが、IQが何とか言って来てたぜ」
「あなたも最初は喜んでいたじゃないの。この子は頭がいいって」
「限度がある。昨日も勝手にオレの書斎にあるコンピューターの端末を弄っていたんだ。鍵が掛けてあるファイルが開かれていた」
「ほんの悪戯じゃないの。まだ、子供なのよ。よく分かってないのよ」
「子供か。オレは2ヶ月間このガキが泣いたのを見たことがない。子供は子供でも、悪魔の子だ。そのガキを早く連れてってくれ」
ボクは悪魔…。
母は、ボクを連れて日本へと向かった。
「まこと。日本に帰ろう」
ボクの名は何度か変わった。
一番古い名前は、藤井真理。
日本は冬だった。
初めての日本。
初めての雪。
ボクは浮かれていた。
母は開店したての真新しいおもちゃ屋にボクを連れていった。
その日はクリスマスだった。
イブにプレゼントを貰いそびれた子供達がおもちゃを真剣に選んでいる。
ボクは沢山のおもちゃに囲まれ幸せだった。
川岸にそびえる十階建てのビルの屋上には、その当時、日本で最大のクリスマスツリーが飾られていた。
ボクはぽかんと口を開けてツリーのてっぺんを見上げた。
口の中に冷たい雪が忍び込んだ。
母の手から伝わる温もりに安心したボクの悪戯心が、顔を覗かせる。
ボクはこっそりと母のバッグからピアスケースを盗み出した。
もちろん、すぐに返すつもりだった。
その温もりが消えてしまった事に気付くまでは。
おもちゃ屋は沢山の子供達の夢と共に閉店した。
ボクは雪の降る闇に一人放り出された。
ボクは母さんにも捨てられた。
川の水面にボクが写る。
悪魔の子。
エディの声が頭に響く。
悪魔の子供だから、ボクを捨てたの?
当てもなく雪の中を歩いた。
ずんずん、ずんずん雪が積もる。
ずんずん、ずんずん…。
頭にも、肩にも、白い白い雪がボクを埋めていく。
体中の神経が何も感じない。
寒いとか、冷たいとか、悲しいとか。
母さん。ボクを捨てないで…
ぼやける意識。
積もる雪。
母さん…
「太一。朝よ、起きなさい。学校遅れるわよ」
ああ、母さんの声だ。良かった。
今、起きるよ。
早く起きないと。起きないと…
雪は、まだ、やまない。
「太一。太一」
違う。コレはボクの母さんじゃない。
服部太一の母だ。
「おばさん、太一君、まだ目が覚めないんですか?」
テツは心配そうに服部太一の母親を見た。
「ええ。院長先生自ら執刀していただいたらしいから、手術はほぼ成功したらしいの。でも、さっき手を握ったら、母さんって呼んだ様な気がしたの。気のせいかしらね」
テツは集中治療室にいる服部を見ることは出来なかった。
「世間じゃ、もうすぐクリスマスだっていうのに、せめて犯人捕まるといいですね。轢き逃げって訊きましたけど?」
「ええ。院長先生がそう言っていらっしゃったわ。車に轢かれた傷だと」
今の、夢?
母さんの温もりは、嘘のように冷たい雪に消えた。
もう、どのくらい歩いたろうか?
住宅地の路地みたいだ。
家々の窓から零れる暖かそうな光は一層寒さを募らせる。
ボクは雪にかすむ光を見ないよう歩き続けた。
雪は何も言わず降り続ける。
どうして歩くのだろう?
ボクは知っていたのに。
どんなに歩いても、母は見つからない。ボクには行く所なんてないのに。
それでもボクは歩く。
どうしたら、ボクは許してもらえるの…
誰か教えて、ボクはどうして歩くの…
「ボクはどこに行くのかね?」
低い声が、ボクの足を止めてくれた。
「母さん…、を、捜している…」
ボクの口から出た言葉にボク自身が驚く。
そんなボクの心をまるで見透かすように微笑みを浮かべるその人は、サンタクロースよりも少ない白い髭のお爺さんだった。
お爺さんは西の方角を指差し、ニッコリと笑い言った。
「ここから、先へ5分ほど歩くと、一組の夫婦に出会うじゃろう。君の新しいお母さんとお父さんだ」
「新しい?」
「その夫婦には子供が出来ない。しかし、とても心のイイ夫婦じゃ。安心するがいい」
ボクは首を捻った。
お爺さんの日本語が理解できないのだ。
「君は頭のイイ子じゃ。ホホホ…。ワシにはほんの少しだけ未来が見える。じゃが、これは全て偶然じゃ」
「偶然…」
『偶然』の意味は知っている。
でも…、それが偶然と言うのだろうか?
「そして、6年後の今日、君が8歳になる頃、ワシとお前は偶然ここで会うじゃろう」
「なぜ?」
「ボクは、知りたくなるじゃろう?自分が何なのか。しかし、6年で見付けることが出来れば、偶然はないじゃろう」
「言っている意味がよく分からないよ」
お爺さんはそれ以上何も語らなかった。
そして、疑問と微笑みを残し、ボクの前から姿を消した。
ボクの足は西へと向かっていた。
そして…
その夫婦は『服部』という名字で、ボクに『太一』という名をくれた。
今度は悪魔じゃなく人間の子供になろう。
服部太一になろう。
その時、ボクは二歳にもなってなかった。
だから、ボクが生まれつき服部太一だと信じているとこの善良な夫婦は疑わない。
いや、ボクが信じたかっただけかもしれない。
藤井真理という悪魔ではなく、服部太一という唯の人間だと。