File3:永遠の瞳(7)
闇の世界が光の渦に包まれた瞬間、忽ち地響きのような雷音が轟いた。
その大音響と共に凄まじい量の雨が地面を叩き始める。
服部の予想通り、その夜は酷い雷雨に見舞われた。
服部は自宅で、ぼんやりと読んでいた本を閉じて、窓に叩き付けられる雨をうんざりと眺めた。
不意に鳴り始めた携帯電話に服部は、沙里奈の顔が浮かぶ。
「…遂に、来たか」
時間は零時を回っている。
土砂降りの雨の中、外にでると、ロビンのフェラーリが行く手を遮るように服部の前で止まり、ドアが開いた。
「ロビンにも、じいさんから連絡が入ったのか?」
「ええ。入ったわ。今回は予告状出せなくて残念だわ」
冗談を言うロビンの顔は浮かない顔だった。
服部も同じ気分だ。
深夜の病院はシンと静まり返り、非常口にある緑色のランプが不気味に光っている。
0.01秒の光の渦が、病室を埋める。
そして、その数秒後に空間を支配していた雨の音を貫き、雷鳴が鳴り響く。
「綺麗だな」
稲光に照らし出される沙里奈の顔は穏やかに眠っているようだった。
「これで、いいの?」
看護婦に変装したロビンは椅子に横たわる沙里奈の母親を見おろし言った。
クロロフィルムで眠らせたのだ。
「この人には何を言っても無駄だよ。沙里奈の想いは当分分からないだろう。沙里奈の遺書も有るし、時間を掛ければ娘が何を考えていたのかいずれ分かる時が来るさ。問題は…」
バタン
開かれたドアから震える涼子が現れた。
肘や膝には擦り傷が数カ所でき、ワンピースも髪も濡れていた。
おそらく走ってきたのだろう。
目の見えない涼子は何度も何度も転んだに違いない。
「知らないおじいさんから電話が来て…。沙里奈が死んだって…。嘘でしょう。沙里奈?」
病室の先客に気付かず涼子は震える体で、一歩一歩沙里奈に近づいて行った。
「沙里奈。沙里奈。返事をして。お願い」
何度も訪れた病室、そしてベッドの位置も分かっていた。
それでも、何も喋らない沙里奈が今そこにいるのか涼子には分からない。
「お願い。そこにいるのでしょう。私を一人にしないで」
涼子の震える手があちこちと空を彷徨った後、沙里奈の頬を捉えた。
「ほら、暖かい。沙里奈、起きて」
涼子は微笑みとも悲しみとも区別しがたい表情を、その顔に浮かべる。
「沙里奈はもう起きないよ」
静かに服部は涼子に真実を告げた。
「誰?」
誰もいないと思っていた部屋に先客がいたことをようやく悟り、涼子は声の聞こえる方向を仰いだ。
「沙里奈の瞳を盗みに来た泥棒だよ」
「…何、言っているの?」
激しい雨。
地面を叩き付ける雷鳴。
喋ってくれない沙里奈。
瞳を、盗みに来た…、ドロ…ボー…?
頭がグルグル、グルグル。
「沙里奈の最後の望みだ。君に瞳を、光を返してあげるように、と」
「沙里奈が…?」
涼子の震える手が沙里奈の頬をゆっくりと撫でる。
見えない目から、涙が溢れる。
「いや。絶対いや」
「嫌でも、時間がない。早く、手術室へ」
服部が涼子の手を掴む。
稲光がそこに満ち、涼子の右手が空を切る。
パチン!
ガラガラガラ…ダーン。
空気の亀裂が地を貫く。
服部は自分の頬を押さえた。
「あなたに何の権利があって、そんな事するの?」
「ホントに目が見えないのか…」
そう思える程見事に涼子の左手は服部の頬に命中したのだ。
そして、さらに右手を服部の胸にぶつける。
そして、左手を。
何度も何度も服部の胸を力尽くで、叩いていた。
「返してよ。沙里奈を返してよ。私の光だったのよ」
服部は涼子に押されるままに、窓に背中がぶつかるまで後ずさった。
「あなたに何が分かるの?あなたは何でそんな事するの?何の為に?お金?」
涼子の顔に激しい怒りがこみ上げる。
「お金じゃない」
「じゃあ、何?ボランティアでもしているつもりなの?」
焦点の合っていない目は、憎むべき何かを追っている。
涼子の口元が皮肉に笑う。
「教えてあげるわ。それは、偽善よ。私の母さんが大好きな偽善よ。恵まれない子供。恵まれない可哀相な動物達。哀れみを与えて自己満足しているエゴイスト…」
絶望が一瞬冷たい光に包まれ、涼子の濡れた瞳にその光が漂う。
そして、服部の瞳には、さらに深い闇が落ちる。
服部は涼子の両腕を掴んだ。
「じゃあ、涼子。教えてくれ。善と偽善の境目は誰が付けるのか?人が善を施すのは自分が嬉しいからだろう?それが自己満足の偽善なら本当の善はどこにあるんだ?」
「そんなの…」
凄まじい音が地響きと共に空気を振動させる。
そして、闇が服部の心に忍び込む。
「人が人や自然に優しくしようとするのは、自己満足の為だ。そんな事知っているだろう?何が捕鯨反対だ。可愛くて頭がいいから殺すな、って?ブスでバカは死ねって事か?動物愛護でベジタリアンは、何故植物を生命と認めてやらない。痛覚というラインを引いてギリギリと所で差別しやがる。植物が大好きと詠うヤツは、周りの雑草を平気で除去できる。本当に動物や植物を愛するヤツは、死んで彼等の栄養分になれ。大人達は、子供に小さな生き物を飼わせて命の尊さを教えながら、給食を残すなという。飼っていた兎を給食で出されたら、子供達はどうすればいい?食べるんだったら、野良猫を殺してもいいのか?矢鴨と鴨鍋の鴨はどっちが偉いんだよ?結局は自己満足だろう?」
闇は夜よりも遙かに深い。
「そんなこと。私には、分かんない。分かんない」
耳にまとわり付く不快な言葉に犯されまいと涼子は首を激しく振る。
「分からない?何故だ?お前が言ったんだ。自己満足だと。抱きしめられれば嬉しい。ぶたれれば痛い。全てそこから来ているのに人間の感情が複雑になれば成る程、社会の法律が混沌としていく。もう誰が作ったか分からない意味不明な常識や観念が平気で人を傷つける。秩序と名のついたラインに守られた人間は、自らを守る為、はみ出た人間を除去する。オレには全てがばかばかしいよ。人間は自然に作られたモノだ。その人間が何しようが、核で地球を滅ぼそうとも、それは自然の中の出来事なんだよ。人工は自然という範疇の中の一部に過ぎないんだ」
涼子の鼓膜が容赦なく服部の泣いたような、笑ったような、冷たい声に叩き付けられた。
「それなら、人間達が何とかしようと足掻くのも自然でしょう」
ロビンの声が、やや低い溜息の後、空気を変えるように響いた。
ロビンは服部の腕を掴んで、少し呆れたように服部を見た。
正気に戻った服部はゆっくりと涼子の腕を放した。
「ごめん。君には関係ないことだったね。とにかく沙里奈を」
服部が近付こうと一歩踏み出すと、涼子はビクッと肩を揺らした。
「イヤ。絶対ダメ」
見えない目を真っ赤に腫らした涼子は子供のように何度も首を振りながら、ゆっくりと後ずさる。
沙里奈が眠るベッドにぶつかる。
目に見えない、わけの分からない恐怖から沙里奈を守るように、か細い声で呟く。
「行かせない。そんな光いらない」
「ずっと、そうしているつもり?」
「リミットは8時間よね?ずっとここにいる。どこにも行かない」
もう、分からない。
服部の言葉にメチャメチャに掻き回された脳がグルグル駆け巡る。
「沙里奈の、君に光をあげたいという想いを無駄にするつもりか」
「私の目が見えないのは、沙里奈のせいじゃない。…あの男のせいよ」
「あの男?」
服部が眉を顰める。
涼子のそれは、単なる逆恨みだ。
自分の浅はかな行動が事故を招いた。
でも、悔しかった。
何が悔しいのか分からない。
心を奪われたこと?
違う。
いとも簡単に、でも、無意識に人を動かしてしまう彼が憎かった。
何も知らない雲の上の人に、少しでも分かって欲しい。
あなたが奪ってしまった心が、しでかした浅はかな行動を。
「彼を連れてきて。彼を盗んできてよ!」
窓に叩き付ける激しい雨の音。
耳が痛くて服部は目を細める。
涼子は正気を失っている。
奪ったのは自分だ。
ロビンはチラリと服部を見下ろし、耳打ちする。
「時間がないわ。そろそろナースが見回りに来る。とりあえず、沙里奈の眼球から角膜を取り除く手術を先に済ませましょう」
「でも…」
ここで、騒がれてはまずい。
今の涼子の声も誰に聞かれているかわからない。
眠らせてしまうか?
だが、だったら何故、わざわざ彼女をじいさんは呼んだんだ。
そうだ、涼子を説得しないまま手術をするわけには、今回の仕事は成立しない。
「私達は怪盗ハットリよ」
艶やかなロビンの声で、思いがけない事実を涼子は知った。
見えない目を見開く。
「…怪盗ハットリ」
「私達に盗めないモノはない。栗原涼子の初恋の相手。盗んでくるわ」
「ロビン…?」
「だけど、その前に沙里奈の瞳は頂くわ」
白衣のロビンはベッドのキャスターに足を延ばしロックを解除する。
ベッドはそのままストレッチャーになる。
涼子は沙里奈のベッドが外へと運ばれる音を呆然としながら聴いた。