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口福

口福

 くちさけおんなの噂を聞かなくなったな、と和世はふと思った。小学校教諭として三十年勤めてきた。子どもたちになつかれる質の和世は、放課後の教室で子どもたちの怪談を聞く機会もたびたびあった。


 トイレの花子さん、呪われた鏡、ひとりでに鳴るピアノ、定番の怪談はそんなところだ。


 くちさけおんなの話も根強い人気があったものだが、もう二、三年は聞いていないように思う。世の中にマスクをしている人が増えすぎて、くちさけおんなのトレードマークであるマスク姿のインパクトが弱まったからかもしれない。

 怪談人気が落ちてしまって、今頃くちさけおんなは草場の陰で悔しがっているかもしれないと思い、和世は少し可笑しがった。


 初夏に向かうこの頃は日が長くなって、残業続きの和世も夕焼けを見ることが出来る日もある。

 黄昏の町をほちほちと歩いて帰りながら遠くの山がかすんでいることに気がついた。


 黄砂だ。この町の春先の風物詩だったが、最近では大分暖かくなった今頃でも襲来しているのか。

 一日、黄砂まみれの空気を吸っていて今さらかとは思ったが、カバンに常備しているマスクを取り出して口を覆った。


 ふと、電柱の陰に女性がたたずんでいることに気付いた。スマホでもいじっているのかと思ったが、どうやら下を向いて両手で口元を押さえているようにも見えた。

 声をかけようかどうしようか、しばらく迷ったが具合いが悪くて動けないのかもしれないと老婆心で話しかけた。


「あの、大丈夫ですか?」


「……イ?」


「え?」


「アタシ、キレイ?」


 振り返った女性はサラサラの長い黒髪と抜けるような白い肌をしていた。顔半分はマスクで覆われて見えない。マスクがやけに大きく見えるほどに小顔だ。目元は涼しげで、真っ黒な瞳はうるんでいる。マスクを取ったらさぞやキレイだろう。うらやましくて和世は軽くため息をついた。


「キレイですね」


「これでもか!?」


 女性は勢いよくマスクを外した。マスクの下から現れたのは耳の下から反対の耳の下まで切り裂かれたような口だった。くちさけおんなだ。和世はあっけにとられた。まだこの世にいたのかと感心もした。


「これでもか!?」


 くちさけおんなは反応しない和世に焦れて同じ問いを繰り返した。


「うん、すごく美人」


 くちさけおんなは予想していなかった答えにひるんだが、気を取り直したように、両手をつきだしてジリジリと和世に近づいてきた。


「嘘つきはころし……」


「嘘じゃないわよ。大きなくち、個性的ですごくいい。長い髪もエキゾチックで似合っているし、なにより長身でスレンダーでカッコいいわ」


 くちさけおんなは両手を下ろして自分の髪に触れた。頬がほんのりと赤くなったようだ。


「そんなこと初めて言われたわ……、だって私なんか、古くさい妖怪だし……」


「リバイバルっていうこともあるし、流行は三十年で一週するらしいし。自信持って!」


「いいのかな、私、また妖怪として有名になれるかな」


「そうだ、教え子を紹介するわ! くちさけおんなを怖がっていた子だから、きっと自信を取り戻せるよ」


 くちさけおんなは喜びいさんで和世と共に歩き出した。和世と二人、マスク姿で歩いていると、道行く人は振り返ってくちさけおんなを見た。くちさけおんなは視線を集めていることが嬉しくて胸を張って堂々と歩く。

 和世はくちさけおんなが元気を取り戻す様を嬉しく思いながら隣を歩いた。


 二人がやって来たのはオフィス街の立派なビル。誰もが耳にしたことがあるような大企業が何社も入っている。

 和世は受付で教え子にアポイントを入れて、広々としたロビーのフカフカでオシャレなソファに座って待った。

 通りすぎるパリッとした服装の大人たちに、くちさけおんなは怯んだようで背中を丸めて小さくなって座っていた。


「大丈夫だって、あなたを見たら絶対みんな叫んじゃうから」


「でも私、子供しか驚かせたことなくて……」


「あ、来た来た。美穂ちゃーん」


 エレベータから降りてきたスーツ姿の女性に和世が大きく手を振る。くちさけおんなは和世の陰に隠れるように身を縮めた。それはあたかも手ぐすねひいて子供を待ち構えている往時の勇姿そのものだった。


「和世先生、ご無沙汰しています! あら、そちらの方は……」


 美穂の足がピタリと止まった。くちさけおんなは静かに進み出ると美穂に尋ねた。


「アタシ、キレイ?」


「えっ? ええ、はい。おキレイです」


「こーれーでーもーかー!」


 くちさけおんなはマスクを顔から引き剥がした。大きく裂けた口を目一杯開いて美穂に襲いかかる。美穂は目をみはって叫んだ。


「きゃーあ!」


 くちさけおんなは美穂の叫びにえもいわれぬ悦びを感じた。さらに怖がらせてやろうと美穂に近づくと、美穂はくちさけおんなの両手を握った。


「あなたみたいな方を探していました! いいえ、みたいな、じゃないわ! あなたじゃなくちゃだめなんです!」


「えっ、えっ?」


 戸惑うくちさけおんなの手を握る美穂の声に力がこもる。


「一緒に世界を征しましょう!」


「えっ、えっ?」


「そうと決まれば、さっそくオフィスへ来て! すぐに契約をしましょう!」


 美穂の勢いについていけないくちさけおんなは目線で和世に助けを求めた。


「ちょっと待って、美穂ちゃん。契約ってなあに?」

 

「もちろん、専属契約です! うちのモデルになってくれれば間違いなく売れます! いいえ、売ります!」


「まあ、すごい。モデルさんだって。よかったわね、くちちゃん」


「くちさんっておっしゃるんですね! さあ、さあ、くちさん! 逃がしませんよお」


「た、たすけてー……」


 くちさけおんなのか細い叫びはビジネス街の喧騒に飲まれて消えた。


 その後、くちさけおんなはその類い希なる個性で世界をまたにかけるトップモデルになったとか。


どっとはらい

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