なにか楽しいことを考えよう、これからの僕は
なにか楽しいことを考えよう、これからの僕は。
うつ病だと思っていたら躁鬱病だった。
ずっと長いことうつ病だと言われてきた。うつ病が寛解して、しばらくたつとまたうつ病にかかって。
その繰り返しだと思っていたのだが、どうやら寛解していると思っていた気力に溢れた時期が躁状態というものだったらしい。何もかもに腹が立って攻撃的で偉そうで。
そんな自分に嫌気がさして、自分を許せなくなるせいで繰り返しうつ病になるのかと思っていたら、どうやら攻撃的なのは病気のせいで性格ではないらしい。
ほっとした。
性格ならいつまでたっても変わらないだろうが、病気なら治癒するじゃないか。それまで通っていた心療内科に通うのをやめて、精神科に通うことにした。
躁鬱病じゃないかと言ってくれたのは内科の医師。高血圧の治療に定期的に通っていて、心療内科に通っていたことも知っている主治医だった。
「君はどうやらうつ病ではないよ」
突然そう言われたときには詐病を疑われているのだと思った。気分の落ち込みは気の持ちようでなんとかしろ、体のだるさなんかただの運動不足だ。
親に言われ続けている言葉を主治医にさえも言われてしまうのだと。
「双極性障害じゃないかな。よかったら病院を紹介するから、行ってみるかい」
ポカンと口が開いた。聞きなれない病名、新しい病院。ずっと治らない薬を飲み続けていた僕は希望の光を見つけたと思った。
長い長い真っ暗なトンネルの向こうに針の先程の光が見えた。
紹介された病院は小さな木造平屋建てだった。「河原崎診療所」という看板がなければ民家と思っただろう。
少し迷ってからドア脇のボタンを押すと、ビーっというやる気が感じられないブザー音が鳴って、すぐにドアが開いた。
「古賀さん?」
半開きのドアから顔をつき出した老婆が、ぶっきらぼうに尋ねた。僕が黙ったまま頷いたのを注意深く確認してから老婆はドアを開けて僕を手まねいた。
家のなかは昔々のホームドラマに出てくるような感じだった。
長年磨き続けられて黒光りする床板の廊下がまっすぐ奥へ続く。廊下の右手は一面壁で、窓はなく薄暗い。
廊下に上がってすぐの左手にトイレらしいドア、奥に襖が二枚。襖はどちらも開けてある。
老婆は無言でスリッパを指差すと廊下を進んでいく。後について行くと老婆は奥の部屋に入っていった。
続いて入ってみると部屋のなかはほんのりと明るくて、爽やかな空気に満ちていた。
どっしりとした風格のある木製の机と、緑の布が張られた一人掛けのソファ、それと古代ローマの貴族が寝そべっていそうな寝椅子がある。壁一面を覆う本棚には難しそうな本が並んでいる。
老婆は机に脱ぎ散らかしてあった白衣に袖を通しながら「座って」と案外に優しい声で言った。
ソファに腰をおろすと老婆が「河原崎です」とそっけなく名乗った。
「古賀キミヒトさん。紹介状は持ってきた?」
カバンから取り出した封筒を河原崎先生が僕の手からひょいと取り上げた。
主治医が書いてくれた紹介状に素早く目を通すと先生はいきなり僕の顔を両手ではさんで上向かせた。親指で下まぶたを押さえて「上を見て」と言う。眼科みたいだな、と思いながら言われた通り眼球を上に向ける。
「あっかんべーってして」「爪見せて」よく分からない診察を怒濤の早さで繰り広げる先生が「手を見せて」と言った。
僕は一瞬ひるみ、恐る恐る先生が差し出した手のひらの上に、お手をするように手をのせた。先生が僕の手をくるりと裏返した。手のひらを上に向けられて僕はぎゅっと目をつぶった。
先生は僕の手首に指を当てて何事もないような様子で脈を診た。何も言われなかったことにホッとして目を開けると先生が言った。
「生き辛かったのね」
僕は誰にも見せたことがない手首の傷を晒したまま、泣いた。そうだ、僕はずっと生きることが辛かった。だから手首を切ったのだ。
誰かに見られたら軽蔑されると思っていた。あるいは可哀想なものを見るように哀れまれるか、命を粗末にするなと叱られるか。
けれどどれも違った。僕が知らなかった事実を先生は知っていた。
僕は生きていたかったんだ。
僕が泣きやむまで先生は黙って待ってくれた。ティッシュの箱とゴミ箱を手渡してくれた。僕はゴミ箱を抱えたまま、鼻水を垂らして泣いた。
鼻をかんで腫れた目で先生を見上げると「じゃ、あそこに寝て」寝椅子を指差した。何ごともなかったように触診は続く。お腹をあちこち押された。
それから症状を聞かれ、知能テストとよく分からない体操のようなことをさせられた。
全部終わってソファに戻ると「スイが溜まってる。漢方薬だすから。眠れてる?」ぶっきらぼうに聞く。
「いえ、あんまり……」
「じゃ、眠りやすくするのもだすから。薬のんで一週間様子見よう。テストの結果もその時には出てるから。それじゃあね、お大事に」
手早く書いた処方箋を渡されて部屋を出た。思いきり泣いたせいか妙にさっぱりした気分だった。根拠のない自信ではなくうっすらとした希望をまた感じた。
玄関に向かうときに隣の部屋を覗いてみると、積み木やブロックがたくさん散らばっていた。
ああ、あそこで遊びたいな。
小さい頃、ブロックで遊ぶのが大好きだったことを思い出した。もう何年も、思い出というと辛いことしか浮かばなかったのが嘘みたいに、ブロックは楽しかったのだということを思い出した。
玄関を出ると日の光が僕の目を射した。手庇で空をあおぐと雲一つなく真っ青だった。
これからは楽しいことを考えよう。なんでもいい。子供のころのことでもいい。先生にあっかんべーさせられたことでもいい。
今はちっとも楽しい気持ちにはなれないけれど、楽しいはずのことを考え続けたら、辛いことを考えるひまもなくなるはず。
でも生きてることは辛いよ……。
ほら、また。辛いことしか考えてない。大丈夫。大丈夫。僕はちょっと人より生き辛いだけ。
なにか楽しいことを考えて、好きだったことを思い出して。そうしたら楽しいと感じられる日がきっとくる。
だから。
楽しいことを考えよう。これからの僕は。




