二十年後のあなたへ
二十年後のあなたへ
西陽が部屋の中を黄色く染めている。
目の前に座る医師のの白衣も黄ばみ、古ぼけているように見える。
ぼんやりと医師の袖口を見つめる小枝子に、悠斗の主治医が声をかける。
悠斗は進行性の心臓病である。確実に二十年後までには移植が必要だが特殊な血液型のため親族以外の移植は難しい。
悠斗の母は早くに亡くなり、祖母である小枝子はすでに65歳。
これ以上高齢では、心臓自体が使えない。
万策尽きた。
そう思い、うなだれる小枝子に医師が言う。
「今は医療もどんどん進歩しています。これから先、悠斗くんが成人するまでに、この病気の画期的な治療法が見つかるかもしれない。もし、それがなくても、何年か先に、同じ血液を持った心臓の提供者が現れるかもしれない。そうしたら、凍結させて、悠斗くんが手術に耐えられる年齢まで成長するのを待ってから移植することも出来ます」
「とうけつ、ですか?」
「そうです。今は冷凍技術が進んでいますから、人体の一部を冷凍保存して、来るべき移植に備えることもできるようになったんですよ。
残念ながら、悠斗くんの場合、冷凍心臓の中に移植適合するものはなかったのですが……。
将来的に、現れる確立はゼロではありません。希望を持ちましょう」
”ゼロではない”。それは、悠斗が生き残れる確立も”ゼロではない”というだけのことだ。確証などひとつもない。
「先生、私の心臓は、私なら……」
詰め寄る小枝子に、医師はきっぱりと首を横に振る。
「おばあさん、お気持ちはわかりますが、生きている方からの移植はできません。第一、おばあさんが亡くなったら、悠斗くんは天涯孤独ではないですか。変なことは考えず一緒にがんばりましょう」
小枝子は、うつむき、唇を噛んだ。
もうすこし私が若ければ、なんとかなったかもしれないのに…
「先生、悠斗をよろしくお願いします」
小枝子は立ち上がり、深く深く頭を下げた。医師が、カルテを閉じながら急いで立ち上がる。
バサバサバサ、と紙が散る。
あわてた医師が袖を引っ掛けて、悠斗のカルテが床に散らばったのだ。
「ああ、失礼」
医師がカルテを拾い集める。
小枝子も床に散った書類を拾った。手にした書類には、こう書いてあった。
「榊原悠斗 三歳 当該患者の身体血液適合試験 甲種乙種 合格 榊原小枝子」
小枝子は紙面を凝視する。
「身体血液適合試験 合格」
医師が小枝子の手から書類をもぎ取った。
「おばあさん、いいですね、変なことは考えないで下さい。我々も新しい治療法を日々探しています。きっと、大丈夫ですから」
小枝子は、黙って深々と頭を下げると、部屋を出た。
小児病棟に悠斗を迎えに行く。
「ばーば」
悠斗は、やっと最近しゃべりだしたばかり。
最初に口にした言葉は「ばーば」だったのだ。その言葉を聞いたとき小枝子は思わず涙した。
「ばーば、いちゃい?」
駆け寄ってきた悠斗が心配そうに見上げてくる。
「大丈夫、ばーばは元気よ、大丈夫…」
悠斗と二人の帰り道、小枝子はホームセンターで太いロープを二メートル、買った。
帰宅して悠斗に夕飯を食べさせ、風呂に入れ、寝かしつけると、小枝子の今日の仕事は終わりだ。
居間でぼんやりと、買ってきたロープを眺める。
思えば、悠斗は不憫な子だった。
悠斗の母、美和子は、誰とも知れない男の子供を身ごもった。
以前から、うまくいっていなかった小枝子と大喧嘩したが、美和子は実家に戻り、悠斗を産んだ。
産後の肥立ちが悪く、出産後一週間で亡くなった。悠斗はほとんど母乳を飲めなかった。
小枝子は必死に育てたが、祖母では母の変わりは務まらないのか、悠斗は発育が遅かった。言葉を発するのも、立ち上がるのも、一般よりずっと遅かった。
それでも元気で生きていてくれれば、それだけでいいのだ。
それなのに……。
できることなら、変わってやりたい。
心臓に病気がある、と聞いた最初から小枝子はずっと思っていたが、今日はつくづくそう思った。
心臓がなければ二十才まで生きられないかもしれない。
小枝子は立ち上がると、戸棚からアルバムを取り出した。
開いたページには、悠斗を抱いて微笑む美和子の写真がある。
出産直後、看護師が取ってくれたものだ。
小枝子が見たこともない、幸せそうな表情で微笑む美和子。
ああ、美和子。あなたの子を、私、守れそうにない。
ふと、病院で見たカルテの「身体血液適合試験 合格」の文字がよぎる。
私の心臓があれば、悠斗は生きられる。
二十年後には使い物にならない心臓も、今なら間に合う。
今ならば。
ホームセンターで買ったロープを手にする。
たった二メートルなのに、ずしりと重い。
悠斗の未来は、手にするとどれくらい重いだろうか。
ふと、答えのない疑問を思う。
私がいなくなったら、悠斗は施設に入れられるだろう。頼れる人は誰もいない。
それでも、いい。
生き延びられるなら。
生きていてくれるなら。
小枝子は台所から椅子を持って来ると、和室の鴨居にロープをかけ、逆の端を輪にして首にかけた。
その状態で携帯で119とプッシュし、耳に当てる。
「はい、救急ですか? 消防ですか?」
「私、これから首をつります。どうか、私の遺体が新しいうちに、孫に。悠斗に、心臓を移植してください」
「ちょっと、待ってください、落ちついて、くわしく話を聞かせてください」
「こちらの住所は……」
住所を伝え終えて遠くから聞こえてきたサイレンに耳を澄ませ、小枝子はほほえみ、椅子を蹴った。
「悠斗くん、気分はどうかな?」
「はい、おかげさまで。胸苦しさもなくなって、うそみたいです。僕に心臓をくれた人に本当に感謝しています」
病院のベッドに起き上がり答える悠斗を見て、主治医はしばらく言葉を発しなかった。
顔をあげると、白衣のポケットから一枚の便箋を取り出し悠斗に渡した。
「この手紙は、君のドナーからだよ」
「えっ……? ドナーとは連絡をとってはいけないのでは……?」
主治医は黙って便箋を見つめていた。悠斗は便箋を受け取り、そっと開いた。
「 悠斗へ
この手紙を読んでいるとき、私はもう、この世にいないでしょう。
あなたを一人ぼっちにしてしまったことを、謝ります。つらかったでしょう。さびしかったでしょう。
私は、たとえどんなにあなたが辛くても、生きていてほしかった。
私が、あと十年若ければ、十年、あなたと一緒にいられた。
私が、あと二十年若ければ、二十年、あなたと一緒にいられた。
だけど時間だけは、どんなに科学が進んでも、どうしようもありません。
悠斗、手術はうまくいきましたか?
私の心臓は、あと何年、動きますか?
あなたが長生きしてくれること、それだけが、ばーばの願いです。
どうかお願い、一日でも長く、私の心臓が動きますように。
あなたが幸せでありますように。祈ります」
手紙を読み終わり、悠斗はしばらく呆然とした。主治医が口を開く。
「君の心臓は、君のおばあさんのものだ。おばあさんは20年前に亡くなったが、心臓を君のために冷凍するよう遺言があった。われわれは全力を尽くし、冷凍保存と、今回の君の手術にあたったよ」
「ばーば……? そうだ、思い出した。俺がまだ小さかった時、ばーばと一緒に暮らしてた。
先生! ばーばは、祖母は、なんで死んだんですか!?」
「自殺だった」
医師の答えを聞いた悠斗は胸をかきむしり、俯せた。
「悠斗くん、どうした!? 大丈夫か!?」
「……大丈夫です、発作じゃありません。心臓は、ばーばの心臓は、確かに、動いています。
ただ、なんでしょう。くるしいんです。胸がくるしいんです」
悠斗はぼろぼろと涙を流しながら話し続ける。
「僕は、ずっと一人ぼっちだと思っていた。僕には産まれ付き身内はひとりもいないって……。でも違った。
祖母がいた。僕はそのことを忘れていた。
祖母は、祖母は僕のために命を捨てたと言うのに、僕は祖母のことを忘れていたんです!」
ぼろぼろと涙をこぼしつづける悠斗に、医師は静かに語った。
「君は当時、三歳だった。おぼえていなくても無理はない」
「いいえ! 命がけで僕を救おうとした祖母を、僕のために死んでしまった祖母を忘れるなんて……」
「おばあさんは、死んでいない。今も脈打っている。
わかるだろう? 君の胸に、おばあさんの鼓動を感じるだろう?
君の右手が、左手が。目が、耳が、君が感じるすべてが、おばあさんが生きている証だ。
さあ、もう泣かなくていい。そろそろ、消灯時間だ。ゆっくりやすみなさい。おばあさんと一緒に」
悠斗は医師の言うまま、ベッドに横になった。
どくん、どくん、と心臓の鼓動を、確かに感じる。
「先生」
立ち去ろうとする医師に、悠斗が呼びかける。
「うん?」
「祖母は死ぬ時、痛かったのでしょうか? 苦しかったのでしょうか?」
しばらく、だまって悠斗を見つめていた医師は言った。
「おばあさんの死に顔はとても安らかだったよ」
今度こそ振り返らずに医師は病室を出て行った。
どくん、どくんと心臓は暖かな血を贈り続けた。灯りを落とした暗い病室に確かに響いていた。




