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 公園の真ん中にある大きな池に舟を浮かべて老人が釣糸を垂れていた。

 老人は昔話のような笠をかぶって、しわだらけの顔でにこにこ笑っていた。


 一人の男がベンチに座って老人を見るともなく見ていた。男はくわえている煙草を指でつまみ、長い長い息を吐いた。煙草の煙がもくもくっと空に向かってのぼったかと見えたころにはすうっと消える。男はそれを三度くりかえし、チビた煙草を足元に落としてぎゅっと踏んだ。


 舟は水の流れのせいか、少しずつ少しずつその場で回転しているようだった。男が煙草を吸いだしてから消すまでの間に舳先が西へ少し向いたようだ。老人の釣糸が斜めになびいている。

 老人はいっこうにあたりのこない釣りに飽きることもないらしい。かわらずにこにこ笑っていた。

 

 男は目をこらして池の中を見た。どうやら鯉かなにか泳いでいるらしい。餌には困っていないのだろう、まるまると肥えている。

 池のほとりにある売店では鯉の餌が売られているのだが、男はそんなことは知らない。それでも老人のハリに魚がかかりそうな予感はしなかった。


 男はそのままずっと老人を見続けた。ほかに見るものもなかったのだ。

 舟は少しずつ西へと回る。老人の釣糸はおいてけぼりで、釣りざおの先から東の下方へ一直線に糸がピント張っている。

 

 さらに舟が回って老人の顔が男の真正面を向いた。男はなんとなく会釈した。老人は軽くうなずいた。


 そのとき、老人の竿が強く引かれた。舟が勢いよく東へ回る。大きな波をたてて水の中のなにかが泳いでいく。老人の舟は釣糸に引かれるまま波間を走っていく。舟は池の中をものすごい勢いでぐるぐると回り老人の笠が、ぽーんと飛んでいった。


 老人は釣りざおを舟の縁にかませて立ち上がった。舟はますます勢いよく回る。老人は舟の軌跡の真ん中にざぶりと飛び込んだ。


 舟はばしゃりばしゃりと波をたててあちらこちらに大きく揺れる。今にも転覆しそうな勢いだ。

 男が思わず立ち上がると、舟の動きがゆったりとおさまった。波の荒れもおさまった。気づくと釣糸はたゆんと弛んでいた。


 船縁にしわだらけの手がかかった。右手、左手、それからにゅうっと頭が現れた。

 老人が大きな鯉をくわえていた。きつく噛みついているようで、ばたばたと暴れる鯉のしっぽに顔をはたかれながらも老人は笑っていた。


 男はぞっとした。鯉の血を口の端から垂らしてにやにや笑っている老人は悪鬼のようで、こちらに向かってくるかもしれないと足が勝手に駆け出した。男は老人から目を離せないまま公園の出口むかって走った。

 老人は鯉を船の上に吐き出すと舟を押して泳ぎながら岸へ向かってきた。その目は男を捕らえて離さなかった。男を目がけて泳いできていた。

 男はますます速度を上げて走った。ドン! と衝撃が走った時、男は老人に噛みつかれたという妄想に襲われた。

 しかし男を襲ったのは公園の出口付近を走行していた乗用車で、男は車道に跳ね飛ばされ意識を失った。


 気が付くと真っ白い天井を見上げていた。病院のベッドの上だと気づいたのは白衣の天使が男の点滴を取り換えに来た時のことだった。

 男は一目で恋に落ち、入院の間中、天使を口説き続けた。


 あまりの熱烈な求愛にひいていた看護師も、一年を過ぎたころには折れた。男と結婚することを了承した看護師は家族に男を紹介した。


 真新しい豪奢な家。あきらかに金を持っている家なのだということが分かった。看護師はその家の一人娘。男は自分が引き当てた幸運に舞い上がった。

 娘の両親は男を歓迎した。娘の婿として申し分ないと褒めさえした。男は深い満足とともに促されるままリビングからダイニングに移動した。そこで信じられないものを目にした。


 大きなテーブルの上に人数分の大きな鉢が置かれている。その上には鯉が乗っている。びちびちと跳ねながら逃げ場を探しているが、深鉢は鯉を捕らえて離さない。

 家族は何でもないように鯉が乗った鉢の前の席に座る。鉢のそばにはナイフもフォークももちろんん、箸もない。


 男はふと気づいた。

 大きなダイニングテーブルの上には父親、母親、娘、自分の鉢のほかにもうひとつ深鉢が用意されていた。四匹の鯉を前にして男は背中に冷や水を浴びたような気持になった。


 ギイ、とダイニングの扉が鳴った。

 男はその音をどこかで、はるか昔に聞いたことがあるような気がした。

 振り返りたい、振り返りたくない、だけど振り返らずにはおれなかった。

 

 そうっと首をめぐらすと、扉の陰から老人が姿を現した。

 なぜか部屋の中なのに笠をかぶっている。釣竿をかつぎゆうゆうと部屋に入ってきた。

 あの老人だった。

 口に大きな鯉をくわえている。

 鯉の血が老人の口の端からぽたりと床にこぼれ落ちた。

 びちびちと跳ねる鯉をぎりぎりと噛んで息の根を止めると、にんまりと笑った。

 それは空虚な闇のような笑みだ。

 何ものも寄せ付けず、何ものも呑みこむ空虚だった。

 黒くおおわれた目で老人は男を見た。

 その目は男を釣り上げた漁師の目のようで。


 男は招かれるままにテーブルにつくと鯉を両手で抱え上げかぶりついた。

 ごそごそした鱗と生臭さ、鯉の尻尾で頬を打たれて不快だった。

 だがそれも数回のことだろう。

 男の八重歯はするどく尖り鯉の血をすすり上げ、にやりと笑った。

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