盗んでほしい
盗んでほしい
高校の通学用にと母が早々と自転車を買ってきた。受験すらまだなのに気が早いと父が笑うと、母は絶対に合格するからと言って美和に笑いかけた。美和は曖昧な笑みを返して自室に入り鍵をかけた。
部屋の鍵は先月やっとつけてもらった。それまでは母がいつでも勝手に部屋に入ってきた。美和はいつもびくびくしながら机の前で勉強しているふりをした。本当は漫画も小説も読みたかったけれど、母に見つかると取り上げられた。母は決して叱らなかった。怖い顔をしたこともない。いつも張り付けたような笑顔で、漫画を人差し指と親指でつまみ、美和を見つめるのだ。美和は黙って机の前に戻った。翌日にはごみ袋の中に切り刻まれた漫画が捨ててあるのだった。
美和は勉強が好きではない。普通一般の学生が嫌うような半端な嫌い方ではない。教科書を持つと手が震えたし、ノートに文字を書こうとすると吐き気がした。小学生のころは、こんなことはなかった。勉強は出来る方だったし好きな科目もあった。勉強にまつわる何もかもを受け付けなくなったのは中学二年の終わりごろだった。
成績が落ちたのだ。クラスのみんなは塾に通っていて、学校のテストもそれを前提に難しくなっていた。受験に向けての措置だった。美和は自分も塾に通わせてほしいと母に頼んだ。母は笑顔を張り付けて、美和なら自分で出来るわと強い視線を向けた。美和はその目の中に自分を縛り付ける鎖を見た。それ以来美和は勉強と同じくらい母を怖れた。
受験は散々だった。手が震えて名前さえ解答用紙にまともに書けなかった。それでもなんとか問題を読もうと用紙に顔を近づけたとき、胃の中のものが口から飛び出した。とつぜん吐いた美和に、周りの受験生は目を丸くした。皆の視線が集まって尚更気分が悪くなり、美和は自らの吐瀉物に顔を突っ伏して気を失った。
気付いたときには保健室のベッドの上にいた。母がベッドの側に立って美和を見下ろしていた。顔には笑顔が張り付いていた。美和はまた吐き気に襲われたが胃の中は空っぽで苦くて嫌な臭いのする唾液を無理やり飲み込んだ。
滑り止めも受けさせてもらえなかったので、定員割れしている高校の二次募集に応募して真っ白な解答用紙を提出した。合格発表の日に届いた合否通知メールに目を見開いた。合格していたのだ。入学式で隣の席になった女子が、この学校は名前さえ書くことが出来れば卒業させてくれるのだと教えてくれた。
一度も乗ることのない自転車は風雨から守るために軒下に入れられた。母は毎日自転車を磨き続けた。
休日に部屋に閉じこもっていると母が出かけていく音が聞こえた。美和は久しぶりに家の中を歩き回った。どこもかしこも綺麗好きな母の手で磨き上げられぎらぎらと光っていた。まるで母の目の奥にある鎖のような輝きだと美和は総毛だった。部屋の中を見たくなくて庭に出た。そこには磨きたてられた自転車がある。美和は恐る恐る自転車に近づくと、鍵をはずして家の前の道路に運んだ。そこに置いて自室に入り鍵を閉めた。誰かが自転車を盗んでくれたらいい。あんなものいらない。美和は祈る気持ちで窓から外を見ていた。
結局、夜になっても自転車はそこにあった。帰ってきた母が笑い顔のまま自転車を軒下に戻して何事もなかったように元通り鍵をかけた。
久しぶりに母が美和のドアをノックした。美和は諦めに似た気持ちでドアを開けた。いつもより厚い笑顔をかぶった母は一枚の書類を美和に差し出した。
「高校入学資格がもらえるフリースクールがあるの。一生懸命勉強したら今からだって大学へ行けるわ。だから、これにサインをしなさい」
唐突にひどい吐き気がした。朝から何も口に入れていなかった美和はせり上がった胃液に喉を焼かれた。母は紙切れを美和に押し付ける。美和の顔にぐいぐいと紙を押し付ける。
「すぐによ、今すぐに。サインしなさい。できるでしょ、美和はいい子なんだから。ママの言うこと聞けるわよね」
美和は紙から目を背けて部屋に逃げ込もうとした。勢いよく閉まりかけたドアの隙間に母が手を差し込み、何かが潰れたような嫌な音がした。美和は思わずドアを開けた。母の手は力が全く入らないようで、ただぶらりと下がっていた。それでも母の顔には笑顔が張り付いている。美和は母の脇をすり抜けて玄関へ走った。
ドアを開けて外へ逃げ出すと、庭に見知らぬ老人がいた。自転車の鍵をこじ開けて、まさに今、盗もうとしている所だった。
「持って行って!」
美和の叫びにぎょっとしたらしい老人は自転車にまたがると門から飛び出していった。母がその後を追って走っていく。ぎらぎらした目で老人の背中を睨みつけながら。
「お願い……、盗んでしまって……」
美和は倒れこみ、ぼろぼろと泣いた。それが叶わない願いだと知りながら、祈り続けた。




