ドアノブは右手で回すか左手で回すか論争 ~由香と夫のエトセトラ~
ドアノブは右手で回すか左手で回すか論争 ~由香と夫のエトセトラ~
由香と夫はテーブルを挟んで睨みあっていた。
テーブルの上には休日のなごやかさをことほぐようなステキなブランチが用意されていた。スクランブルエッグとベーコンのサンドイッチ、スモークサーモンとチコリのサラダ、フルーツたっぷりの豆乳ヨーグルト、そしてビール。
たまの連休、「リキュール類」ではない本物のビールを奮発した。そのビールが刻々とぬるくなっていくのにも気づかず二人はジットリと動かない。
「あなた、右利きじゃないの」
「そうだよ。だけど利き手は関係ないだろ」
「あるわよ。右利きは左脳で考えるから固まった思考に陥るのよ、あなたみたいに」
「それを言うなら左利きは閃きに頼るから論理的じゃないんだよ」
「そんなのヘンよ」
「ヘンってなんだよ。世の中の三分の二は右利きなんだぞ」
「そんな統計いつ取ったのよ。何年、何月、何日、何時、何分、何秒、地球が何回回ったときよ」
「そんなこと聞かれても答えられるわけないだろ。ていうか、恥ずかしくないのか、いい年して小学生みたいなこと言って」
「いい年ってなによ! 私は若いんですー、あなたと違って」
「お、俺だって若いぞ」
「干支一回りも年上なくせに若ぶっちゃって。そういうことはそのプニプニのお腹をなんとかしてから言ってよね」
「ぐ……、こ、これはもともとポッチャリ体型で……」
「嘘ばっかり。結婚式の時とくらべて二十センチもふくらんだくせに」
「ふくらんだってなんだよ。俺は風船じゃないぞ」
「じゃあ、ハリセンボン。お笑いじゃなく魚のほう」
「もっと悪いよ! そんなこと言うけど由香だって、最近ふっくらしてきたじゃないか」
「これはえっと、その……」
「いつもダイエットしてるんだって言いながらチョコレートばっかり食べてるじゃないか」
「それは、そのう……。い、今はそんなことはいいの! 私は絶対にゆずらないからね!」
「なにを?」
「え?」
「俺たち、何を議論してたんだっけ」
「議論じゃないけど……、そうね、なんだったっけ」
二人は腕組みして考え込んだ。しかしいくら頭をひねっても言いあいを始めた切っ掛けが分からない。
「まあ、いっか。ごはんにしようよ、お腹へったわ」
由香がぬるい缶ビールのプルタブを開けてグラスに注ぐ。二人で軽くグラスをあげてからぐいっとあおる。
「うーん、ぬるいのも、これはこれで」
「体に良さそうよね」
「体にいいと言えばさ、駅の近くにできたスーパー銭湯。電気風呂っていうのがあったよ」
「なに、それ」
「お湯のなかに電気が流れててピリピリするんだよ。静電気みたいに」
「やだ、そんなの恐い。静電気なんてドアノブでさえ嫌なのに……、あ」
「なに?」
「思い出した! ドアノブよ。あなた、なんで右利きなのに左手でドアノブを回すわけ?」
「そういう由香こそ……って、いやもういいんじゃないか」
「なんでよ、はっきりさせましょうよ。家庭内の平和は対等な議論から始まるのよ」
「議論しても意味ないじゃないか」
「なんで」
「うちのドアは全部レバー式だろ。回さない」
「あ、そっか」
「これで我が家は平和だな」
「うん。平和に乾杯しましよう」
夫が掲げたグラスに由香のグラスがカチンと触れる。
「あ! 由香、なにするんだ!」
「なにって、乾杯よ」
「あのなあ、本当の乾杯っていうのはグラスをぶつけたりしないんだよ」
「なによ。乾杯に本当も嘘もないわよ」
「あるんだって、それが」
「ない」
「あるの」
「そんなこと誰が決めたの? どこの国の、どんな仕事の、どんな年齢の、どんな眉毛の人よ?」
「いや、眉毛は関係ないだろ」
「あるわよ。あなたの眉毛だって……」
夫婦のブランチはそろそろランチになりそうだ。ぬるいビールはいよいよ生ぬるく二人の言い合いを見つめていた。




