黒い犬
黒い犬
幸町と書いて「サイワイチョウ」と読む。この町は六つの山に囲まれた盆地で、やけに広い。隣町は山の向こう、隣村も山の向こう、繁華街も山の向こうで、この町には畑と果樹園が広がるばかりだ。
トンネルが通っている山は二つ。山道が整備されている山は、その二つに加えてもう一つの計三つ。あとの三山は獣道程度にしか道はなく、猟場として有名だ。
町に黒い犬のうわさが流れたのは小学校の入学式が終わった頃のこと。小学生の間にさざ波のように静かに広がっていった。その噂に気付く大人は少なく、知っていても都市伝説くらいにしか思っていなかった。
カードゲームで負けて目ぼしいカードをすべて康太に奪われてしまってから真人は友達と遊ぶのをやめてしまった。どうせ対戦したって負けは決まっている。学校が終わるとランドセルを背負ったまま裏山に登る。生い茂ったクマザサをかき分けながら獣道を通ってしばらく行くと木が途切れて広場のようになっている場所に出る。そこに座って図書館で借りてきた本を読むのが真人の新しい楽しみになっていた。
ある日、いつものように山を登っていると木の陰から黒い犬が飛び出してきた。真人を睨み据え低く唸った。噂の通り熊のように大きな犬だ。真人は逃げようと思ったのだが足がすくんで動けない。だが、噂通りだとしたら。
「クロ」
涼やかな女性の声が耳に入ると黒い犬は唸るのをやめて真人に背を向けた。犬が向かった坂の上の方から声の主が現れた。とても美しい若い女性だった。すっきりと背が高く、長い黒髪は腰まで伸びている。濡れたように輝く黒い瞳、つやめく唇、真っ白な肌。真人はぽかんと口を開けて見惚れた。
女性は黒い犬の頭を撫でて真人にちらりと視線を寄越したが何も言わずに踵を返すと山の上に歩いて行った。真人は追いかけたい衝動に襲われたが、もし噂通りだとしたら二度と山から下りられなくなる。考えていると怖くなって真人は急いで山を下りた。
二、三年もすると黒い犬の噂はぱったりと聞かれなくなった。
『黒い犬を連れた女性と山で会ったらついて行ってはいけない。話しかけてもいけない。知らない世界に連れていかれるから』
中学生になった真人はその噂を半分は信じ、半分は疑っていた。確かに黒い犬と女性は存在した。けれど知らない世界に連れていかれるというのが本当だとしたら、誰がこの噂をながしたのだろうか。ついて行った人は皆知らない世界に行ってしまうというのに。冷静にそう考えることが出来るほどには大人になった真人は、あの日見た女性の面影を忘れることが出来ず、何度か山に登ってみた。けれど黒い犬は現れなかった。
「あの女について行ったらいけねえ」
バス停でバスを待っていた真人の腕に、突然現れた老人がすがりついた。
「いいか、あの女には近づくな。あそこにつれていかれるぞ」
「あそこって?」
思わず尋ねた真人に老人はぐいっと顔を近づけて答えた。
「誰も行ったことがない世界だ。だが誰もが行く世界だ。俺はそこに行った。そして帰ってきた。あそこに行っちゃいけない。いけないんだ」
老人はそれだけを言い残すと一人ぶつぶつと何かを呟きながらとぼとぼと歩み去った。真人は何かを尋ねたいのにそれは言葉にならず、老人の背中をいつまでも見つめていた。
真人は熱に浮かされたような頭で獣道を登って行った。ただ、あの人に会いたかった。今まで自分の心に蓋をしてきた知らない世界への恐怖は老人の言葉で溶けて消えた。もしも帰ってこられるのなら、誰も知らない世界、そんなところに行ってみたいという好奇心が湧き起こったのだ。
真人は山をさまよった。今まで足を踏み入れたことがない深山へ向かった。けれどどれだけ歩いても黒い犬は姿を現さなかった。
日が暮れかけたころ、道に迷ったことにやっと気付いた。帰り道のことなど考えもせず歩き続けていたのだ。生い茂る木々のせいで辺りはすぐに真っ暗になった。自分の足先も見えない闇、身動きがとれず真人は立ち尽くした。
すぐそばから犬の唸り声が聞こえた。姿は闇に紛れて見えない。だがはっきりと分かった。あの黒い犬だ。真人の鼓動が激しくなった。犬に対する恐怖より、あの女性に会えるかもしれないという期待の方が大きかった。
唸り声はゆっくりと近づいてきた。大きな生き物の気配がすぐそこに感じられる。生臭い動物の臭いがする。
地面を蹴る音がしたと思った途端、重いものがぶつかってきて地面に押し倒された。喉に激しい痛みを感じる。唸り声が顔のすぐ近くで聞こえる。喉に食いつかれたのだと気付いた時には体が動かなくなっていた。
木々の隙間からわずかに月の光が差してきた。真人は自分に覆い被さるものの姿を見た。銀色の毛皮の大きな狼だった。あの女性だ。なぜか直感した。この美しい生き物はあの女性だ。
狼は口から胸元まで真人の血で真っ赤に濡れていた。恐ろしくも美しい姿から目が離せない。だが、急速に血液を失いつつある真人の意識は暗いところに落ちていこうとしていた。落ちて落ちて落ちて、一番底に手が届いたとき、世界が一気に銀色に弾けた。
目を開けると明るい日差しの下にいた。やけに喉がかわいた。身を起こそうと手を伸ばした。が、そこに手はなかった。目に飛び込んできたのは真っ黒な犬の前足だった。
「クロ」
あの女性の声がした。顔を向けると、女性はあの日見たそのままの姿で立っていた。
「クロ、あなたは私とずっと一緒にいてくれるわね。年をとっても、人間の世界にもどりたいなんて言わないわね」
女性の胸元は真人の血で真っ赤に濡れていた。昨夜の狼はこの女性だったのか。バス停で出会った老人はあの日の黒犬だったのか。
もしかしたらそうかもしれない。けれど真人はそんなことはもう、どうでもよかった。
「行きましょう、クロ」
自分は黒い犬になった。それだけだ。誰も知らない世界を、黒い犬として生きるのだ。犬になった真人にそれは恐怖でもなんでもなかった。ただ、女性のそばにいられることだけが望みで幸福だった。
黒い犬の噂がまた幸町で囁かれるようになったことを黒い犬は知りはしなかった。




