胸いっぱいの花束を
胸いっぱいの花束を
どこで聞いた話だっただろうか。幸せになるには三つの方法があるという。
一つは誰よりも多く持つこと。
一つは誰にでも与えること。
最後の一つは誰にも出来ない秘密の方法。世界と一つに繋がること。
釈迦もキリストもモハメッドもなし得なかった方法。
「そんな新興宗教みたいなこと信じてるのか?」
「信じてるんじゃない。知っているだけ」
あれは誰だったろう。ずいぶんよく知っている人だった気がするし、まったく知らないやつだつた気もする。大切な人だったのに思い出せない、そんな気もする。
けれど俺に大切な人などいただろうか。この世にあるのは混沌と快楽と暴力だけだと知ってる俺に。
今夜も安いだけが取り柄のバーで悪酔いしかできないウイスキーを喉に流し込む。世間の裏側でしか生きられない奴らと目配せして自分の縄張りを死守する。たった50センチ。自分のまわりの50センチだけが俺の縄張りだ。バーカウンターで隣り合ったやつと肩が触れないぎりぎりの範囲。小さく肩をすくめて、それでなんとか自分を保っていられる。こんな世界は幸せには程遠い。
俺は何も持たないし、与える誰かもいない。ましてや世界と繋がるなんて出来るわけがない。俺のまわりには50センチの安楽をもたらす鉄壁の要塞があってなにものも拒絶するのだから。
悪い酔いが体を痛めつけるままに、よろよろと街をさ迷う。小汚い部屋に戻ることを考えると憂鬱だった。ごみ溜めの中で寝るのはゾッとしない。公園のベンチで凍死したほうがましだ。
路地を曲がって公園に向かう。街中だというのに鬱蒼と木々が生い茂りネオンも家灯りも届かない暗闇がわだかまっている。目が暗闇に慣れるまで公園の入り口でじっと目をつぶっていた。静かすぎる公園の奥から人がいる気配がする。人に会いたくはなかったが、ベンチは公園の奥にしかない。酔いで頭が回っていない俺はよく考えもせず歩き始めた。
だんだん音に近づくごとに。不穏な空気を感じ始めた。俺が生きている世界の空気だ。暴力の臭いだ。暗闇の中で、三人の若い男がホームレスを痛め付けていた。その場にはもう一人、ベンチに座って殴られるホームレスをニヤニヤと見ている男がいた。
「どいてくれないか」
声をかけるとベンチの男がうろんなものを見る目を、俺に向けた。
「なんだよ、お前」
「そのベンチは俺のベッドなんだ」
三人の男はホームレスから手を離した。ホームレスはぼろくずのように地面にうずくまっている。
「俺たちの邪魔するつもりか?」
「そんなつもりはない。俺は今すぐベンチで寝たいだけだ」
男がベンチから立ち上がり、俺に近づいてきた。低い身長をさらに縮めるような前傾姿勢で小馬鹿にした笑みを浮かべた。
「お前もホームレスかよ。なら、片付けなきゃなあ。公園はきれいに使わないと……」
男は最後まで言葉を続けず横倒れに倒れた。俺が拳を構えているのを見てホームレスを殴っていた男達が目に剣呑な光を宿した。
「なにすんだ、てめえ!」
そう言った一人が殴りかかってきた。体を開いて男をやり過ごし、足をかけて転ばせた。膝裏を強く蹴りつけ腱を絶つ。男は大仰な叫び声をあげてのたうち回る。うるさい、あほらしい、面倒くさくなった。残りの二人はと見ると、ホームレスの頭を掴み上げ、首にナイフを当てていた。
「う、動くなよ! こいつを殺すぞ!」
「好きにすればいい」
空いたベンチにごろりと横になったが、地面をのたうち回る男の叫び声がうるさくて寝られやしない。
「おい」
目を開けると、ナイフを持ったまま固まっていた男がびくんと震えた。
「そいつをどこかへ連れてってくれ。うるさくてかなわん」
顎で地面の男を指し示すと、男達はあわてて仲間を抱えて去っていった。
やつと静かになったベンチに寝転がると、今度はホームレスがうめき始めた。
「おい、じいさん。いい加減にしてくれ。俺は寝たいんだ。」
「……じゃない」
「あ? 何だって?」
「あたしはじいさんさじゃない。ばあさんだ」
断固とした口ぶりのホームレスに、俺はなんと言えばいいか分からず、口のなかで小さく「ああ……」などと呟いた。
「どっこらしょ」
唸りながらばあさんが膝に手をつき立ち上がろうとしたが、足を痛めたのかすぐに尻餅をついた。手を貸して立ち上がらせ、ベンチに座らせると、ぱあさんは目を丸くした。
「なんだ、あんた親切じゃないか」
「女性には親切にしろってのが母の遺言でね」
「いい母ちゃんだね」
「ああ」
「親切ついでにあたしを家まで送っておくれ」
「家があるのか?」
「ある。あっちだよ」
ばあさんが指差したのは木立の奥だった。ばあさんに肩を貸して木を避けながら公園のどん詰まりまで行くと、フェンスに立て掛けた段ボールハウスがあった。
「なるほど、立派な家だ」
「そうだろ。ちょっと寄っていきな。お茶くらいだすよ」
招かれるままに段ボールハウスに入ると、中は思いのほか広く、暖かかった。
ばあさんは何枚か積んである毛布を掻き分けてペットボトルの緑茶を取り出した。
「今朝、炊き出しの時にもらったやつだからきれいだよ」
「炊き出し?」
ペットボトルを受け取って座り込むとばあさんは満足そうにうなずいた。
「ああ。ボランティアが飯を食わせてくれるのさ。今朝はすいとんだったよ。あんた行く所ないなら、泊まっていきな。明日の炊き出しはおにぎりだそうだから」
おにぎりに釣られたわけでもないが、ありがたく泊めてもらうことにした。しかしばあさんは傷が痛むのか、横になることもせずにずっと唸っている。結局、俺も寝ることはできず、起き上がった。
「ばあさん、家族はいないのか」
「さてね、あたしが家を出たときは子供が二人いたけどね。生きてるやら、死んでるやら」
「家出か。なにか嫌なことでもあったのか」
「なんにもないさ。ただ、あたしの居場所があそこじゃないってことが分かっただけさ」
「ばあさんの居場所はここだったのか?」
「ここでもいいし、どこでもいいんだ。場所は重要じゃない。あたしがあたしでいられるところならね」
「家じゃだめだったのか」
「あそこではあたしは母親でいなければならなかった。子供達も子供でいなけりゃならなかった。それは不幸というもんだよ」
「今は幸せなのか?」
「ああ。あたしはあたしのためだけに生きてるんだからね」
「しかし、そのせいで今夜死にかけたじゃないか」
「それは仕方ないことだよ。死は誰にでもやってくるし、いつ死ぬかは選べない。大事なのはいつも生きているかってことだよ」
「死んでないなら生きてるんじゃないか?」
ばあさんは微笑んだ。垢じみてシワだらけの顔が猿のようになった。その時ふいに、幸せについて語ったやつの顔を思い出した。いつものバーで飲んでいる時に隣り合ったじいさんだ。やはり猿のように笑う老人だった。どこか死んだ父親と似ていた。俺たちは気が合い、その晩一緒に飲んだ。
「本当に生きるってのは世界と一つに繋がることか?」
俺が聞いてもばあさんは答えず、痛む足をさすって黙ってしまった。沈黙と暖かさのおかげで睡魔がやってきて、俺は横になった。
段ボールの隙間から差し込む朝日で目を覚ました。二日酔いと、固いところで寝たために固まった体、気分は最悪だった。ばあさんはと見ると、安らかな表情で眠っていた。いや、違う。ばあさんの鼻に手を当ててみると、息をしていなかった。
俺はしばらくばあさんの顔を見下ろしていた。猿のようだと思った笑顔が、今はとても美しく見えた。
段ボールハウスから這い出て腰を伸ばした。よろよろと歩いていくと、公園の入り口に行列ができていた。ばあさんが楽しみにしていたおにぎりの炊き出しのようだ。ぼんやり見ていると一人のじいさんがよってきた。透明なパックに二つ入ったおにぎりの一つを取り、残りの一つを俺に差し出した。
「ホームレスじゃなきゃ炊き出しはくれんのや」
俺は礼を言っておにぎりを受け取った。段ボールハウスに戻り、ばあさんの枕元におにぎりを置いて公園を出た。早朝の冷たい空気を思い切り吸い込んだ。なんだか久しぶりに息をした気がする。空が青い。俺は昨日よりほんの少しだけ、幸せを感じた。