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君の名を

君の名を

 君は覚えているだろうか。あの夏の約束を。

 その年は母が亡くなって、けれど夏休みの習慣で別荘行きは敢行された。小づくりなバンガローはやけにガランとしていた。

 母がいない寂しさを埋めるための感傷旅行ではない。人が住まない家は荒れる。風を通しに来ただけのことだった。窓を置あけ放ってただぼんやり部屋で過ごすことに飽きた僕は、海岸に散歩に出かけた。

 暑い日だった。あまりに陽が強く、影が砂に焼きつけられそうだった。けれど楽しそうな家族連れに混じって海に入る気にはなれない。僕は大岩を乗り越えたところにある入江に向かった。そこは母のお気に入りの場所。三方を岸壁に囲まれているため、めったに人が入ってこない。まるで我が家のプライベートビーチね。そう言って母はいつも上機嫌で歌っていた。

 熱く焼けた岩を這いのぼると真っ白な砂浜が見える。先客がいた。砂浜に座って足に波をあびているようだった。僕はなんとなく足音を忍ばせて近付いて行った。もし女性だったら、そっと帰ろうと思っていた気もする。案の定そこにいたのは長い髪の女性で、きらきらと光る虹色の水着を着ていた。いや、それは水着ではない。大きな魚のひれだった。僕は思わずたたらを踏み、その音に気付いた女性が振り返った。女性は、人魚だった。人の上半身に魚のような下半身。僕はその姿に驚くよりも先に、女性の裸の胸に目がいってしまい顔を赤らめ視線をそらした。横目で、出来るだけ胸を見ないように人魚を見ると、彼女は腕で胸をかくし僕ににっこりと笑いかけた。

 それから毎日、僕は入江に行った。彼女はシュリと名乗った。日本語を喋るんだねと言うと、さもおかしそうに笑った。僕は彼女に歌を教えた。彼女は僕に潜水を教えてくれた。夏の間中、入江は二人だけのものだった。

 家に帰るその日、僕たちは約束した。来年の夏もまた会う事を。けれど翌年、父の事業が失敗し家も別荘も何もかもを失った。父も僕も寝る間を惜しんで働いて、なんとかすべての借金を返し終わったのは五年がたったころだった。それからも僕は働きづくめだった。家庭を持ち、年をとった。あの日の彼女との約束を守ることが出来ずに彼女の名前も忘れてしまった。

 子供が独立し、妻が亡くなり、僕はたった一人の僕に戻った。もう責任に足を取られることなど何もなくなった。無性にあの歌を歌いたくなった。

 入江はかわらず透き通った青だった。老いた足で崖を這いのぼってたどり着いた白い砂浜に彼女の姿はなかった。僕は海に向かって歌った。君に向かって歌った。何度もくり返し歌った。

 はるか沖合で魚がはねた。夕焼けのもと、虹色にきらめく尾びれが見えた。僕の口から「シュリ」というつぶやきが漏れた。 遠くでまた虹色がひらめいた。一回、二回。それは手を振っているようで。

 僕は暗くなるまで波打ち際に立っていた。月がのぼって白い砂浜が明るく輝いた。僕は海に手を振り返して崖をよじ登る。君の知らない町へ、君を忘れた僕が、君にあげた歌を歌い、君を思う。

「シュリ」

 僕はもう二度と君の名を忘れない。

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