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アイラ島の暖炉の前で

アイラ島の暖炉の前で

「本当にあんたは本を読むのが早いわねえ」

 母の言葉を背中で聞きながらフミは次の本を手に取った。

「文庫本一冊を五分で読むなんて普通じゃないわよ。ある意味、天才よ、天才」

 後ろからの声はもう聞こえない。フミは本の海の中にダイブする。文字と文字の間のわずかな空気を吸いながら、すべての文字に透明な手で触れていく。文字は触れた瞬間フミの体をつつみこみ、あたたかな水のように肌に浸透してフミの深いところまで行きとどく。文字の水はフミの心に満ちていき、文字の持つ『イミ』をイメージにして身体中に巡らせる。フミは身体中ですべての文字を、イミを、イメージを吸収すると本を置いた。

「……って鈴木さんの奥さんがいうわけ。どうなのよ、それって。フミ、あんたどう思う?」

 ずっと話し続けていたらしい母の質問がいったい何についてなのか分からなかったが「いいんじゃない?」と適当に答えておいた。

「まーあ、この子は本当に冷たいんだから。ちょっとはお母さんの味方になってくれてもいいでしょうに。だいたい鈴木さんの奥さんはさ……」

 フミは次の本を手に取る。

 一日に十冊。フミが読む本はそれだけだ。本当はもっとたくさん読みたいのだが、中学校の図書室の本はもう読みつくしてしまった。それ以外で無料で本を読めるところ、近所にある開館したばかりの市立図書館で貸し出してくれる本が一度に十冊だけなのだ。

 市立図書館ができてから毎日やってきては大量に重い本を借りていくセーラー服姿のフミを見て、貸出カウンターにいる司書のお姉さんはいぶかしげな表情を見せた。疑問が沸点に達したのか、ある日、司書のお姉さんが貸出カードをフミに手渡しながら話しかけてきた。

「ねえ、本田さん。毎日、十冊も本を借りて何に使っているの?」

 フミは質問の意味がよく分からず首をかしげて答えた。

「読んでますけど……」

「十冊ぜんぶを?」

「はい。……何かいけなかったですか?」

 お姉さんはぽかんと開けていた口を閉じ、目をつぶった。

「それが本当だとすると、大変なことよ」

「大変? 何が?」

「あなた、この図書館の本、あっという間に読み終えちゃうわ」

 フミが不安げな顔をすると、お姉さんは吹き出した。百二十万冊の蔵書を誇るこの図書館の本を一日十冊ずつ読んだとして、読み終わるには十二万日かかる計算だ。中には英語の本もドイツ語の本もラテン語の本もある。それに日々、新しい本がやってきて古い本と入れ替えられていく。すべての本を読み終える日は遠く遠く、フミがおばあさんになってもやってこないだろうと、お姉さんはなぐさめてくれた。フミはほっと胸をなでおろしてその日も十冊の本を借り、ついでに十冊の本を読んでから帰った。

 司書のお姉さんの名前は大崎さんと言った。フミは大崎さんの目が好きだった。彼女の眼鏡のガラス越しに垣間見える本への愛情が好きだった。大崎さんもフミを気に入ってくれたようでカウンター越しの会話では飽き足らなくなり、大崎さんの休日に合わせて外で話をするようになった。話題は主に本についてだった。好きな本、ぴんと来なかった本、難しかった本、それに買ってみたい本。フミは図書館も大好きだけれど本を買って収集するのが趣味だと語った。

「うちの地下に書庫を作るのが夢なんです。本棚をいくつも置いて、何千冊っていう本をしまうの」

 うっとりと宙を見上げるフミを大崎さんは優しく見つめた。

 ある日、大崎さんが一冊の本をフミに差し出した。

「この本が私の夢よ」

 大崎さんの手の中にある本は何度も繰り返し読まれたようでカバーに擦れがあり、全体的に湾曲していた。

「もう三冊目なの。何度読んでも飽きなくて、ぼろぼろになったら新しいのを買ってるの」

 その本は村上春樹の『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』だった。村上春樹が彼の妻と共にウィスキーを主題にした旅をつづった旅行記で、ページの半分ほどは村上春樹の奥さんが撮った写真で埋まっていた。

「アイラ島の小さなロッジの暖炉の前でウィスキーを傾けながらゆっくりと読書をするの。冬のアイラ島は荒天続きだけど、それもゆっくり眺めたいの」

 五分もかからず本を読み終えてしまったフミに大崎さんはいたずらっぽく笑って見せた。

「お酒は一滴も飲めないんだけどね」

 フミはこの本に魅了された。大崎さんを好きなように、この本も好きになった。フミもアイラ島に行ってみたくなった。そしてゆっくりと読書する。ゆっくり読書、というのがどういうものか五分間読書のフミには分からなかったけれど。そしてゆっくりとウィスキーを飲む。お酒を飲めるようになるのか分からなかったけれど。

 フミは何度も何度も繰り返し『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』を読んだ。何度も、何度だって、フミは五分間の未来を夢に見る。

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