虹を渡って
虹を渡って
春です。雨が降りました。
庭の木や花が雨を浴びていきいきと輝きます。
タンポポはかたいつぼみを開き、桜の木は秋から冬の間に蓄えた力を花びらに変えようとしていました。
ただ一人、庭のすみに立つ年取った女の人だけがうつむいて冬の寒さをそのまままとっているようでした。女の人は何年も閉じこもりきりだったので今がいつか、季節が移ったのかも分からないようでした。
女の人は雨に濡れた長く白い髪から、ぽたぽたとしずくを落としたまま、じっと地面を見つめていました。
そこには何もありません。茶色の砂と小さな石粒があるばかりです。
女の人が見つめているのは今ではないのでした。ずっと昔の思い出を見ているのでした。
それは、とてもとても美しい思い出でした。深い愛とかけがえのない夢がありました。多くの友と心を通わせることが出来ました。けれど、そのどれも、今はもうなくなってしまったのでした。心の底にはただ真っ暗な孤独だけが彼女の友としてありました。それはとても冷たい石のように女の人の足を縛るのでした。
雨はしだいに小降りになってきました。木の葉の陰で雨宿りをしていた小鳥が明るく鳴き始めました。雲が流れて陽がさしてきました。まぶしい光が女の人の目を差しました。女の人はぎゅっと目をつぶって手で目の前にひさしを作り、ゆっくりと目を開けました。
陽の光は草木がまとった露をきらきらと真珠のようにきらめかせました。女の人はじっと草の露を見つめました。虹色の輝きは、女の人が愛したあの人が大好きなものでした。女の人を誰よりも愛してくれたあの人の大好きなものでした。
女の人はそっとひざまずくと草の葉に触れました。露はころころと転がり落ちて地面に染み込みました。あの人が眠る大地に染み込みました。
地面は今はもう何もない土くれではありませんでした。虹色が消えたように見えても、大地の中に、あの人の側に確かにその輝きはあるのだと女の人は知りました。消えてしまった者たちも確かにあるのだと知りました。
立ち上がり顔を空に向けると、雲はすっかり姿を消してどこまでも晴れやかな春が女の人を包んでいました。新しい季節が女の人の体のすみずみに、心の中のすみずみに、染みわたっていったのでした。