春はくる
春はくる
春子にとって春の味と言えばピースご飯。グリンピースを炊き込んだ素朴な味は亡き母の得意料理だった。グリンピースと塩。それだけなのにじんわりと美味しかった。母が亡くなったとき春子はもう高校生だったのだが家事の手伝いなどろくにしなかったため母の味は幻になった。同じように作ってみても、どうにも母の味には近付かなかった。
その味にたどり着いたのは新婚二ヶ月目。専業主婦をしていた春子は苦手な料理に取りくみ試行錯誤する日々を送っていた時だった。
年の離れた夫は料理にうるさいタチで好き嫌いも多かった。春子が作る旨みにかける料理では満足してくれず、毎日毎日、メシが不味いと叱られていた。料理上手だった母の味を思い出しながらなんとか夫が口に入れてくれる料理が作れるようになった。そんな時にピースご飯を炊いてみたのだ。
水が透明になるまで米を研ぎ、たっぷり時間をかけて吸水させる。
グリンピースを丁寧に皮からはずしてさっと洗って水気をきる。
米の上にグリンピースを浮かべる。
塩を振ろうとして、しばし考え込んだ。どれくらいの量を入れれば美味しくなるのだろう。ネットで調べたレシピには酒や出汁昆布を入れるものがほとんどだったが、母は確かに塩だけで調理していた。春子は迷いに迷って、母がしていたように指でつまんで三回、塩を振り入れた。はたしてその量が適当だったのか不安に思いながら炊飯ボタンを押した。
ご飯が炊けるいい匂いの中に、いつもの白飯とは違う青い香りが混じる。懐かしい香りだった。実家の台所が思い出された。木造の家の古い台所は北西に窓がありいつも薄暗かったが、春子が学校から帰ってくる時間にだけコンロの上の窓から西日が差してオレンジ色に輝いた。その光を受けた母が振り返って「おかえり」と迎えてくれた。
炊飯の終わりを知らせるメロディーが鳴って、春子は懐かしい台所から『今』に戻ってきた。蒸らし時間をおいてふたを開けると、まっしろい湯気がもわりと湧き出した。しゃもじで湯気を散らしてからご飯をさっくりと混ぜる。グリンピースからはやや色が抜けてシワが寄っている。しゃもじについた米粒を口に入れてみると、よく知ったピースご飯の味がした。母の味だ。胸の中から湯気のように暖かなものが込み上げてきて、春子はうふふ、と笑い出した。
帰宅した夫にピースご飯を差し出すと、急に眉根を寄せて不機嫌な顔になった。
「グリンピースが汚い。緑色じゃないじゃないか」
「でも、うちのピースご飯はずっとこれで……」
「お前の家のことは知らん。だがこれはひどすぎる」
「でも、味は美味しく出来たの」
夫は眉間のシワを深くして箸を取り、ピースご飯を口に運んだ。一噛みしてすぐに、茶碗に口の中のものを吐き出した。
「まずい」
ぱん! と乾いた音がして、春子の右手の平が熱くなった。夫が目を丸くして春子を見ていた。その夫の頬が真っ赤になっていて、春子は夫を殴ったのだとやっと気づいた。
「お前、なにをするんだ!」
夫が怒鳴る声を背中に聞きながら春子は家を飛び出した。
それからの日々を春子はうまく思い出すことができない。喧嘩、ののしりあい、おせっかいな親戚、冷たい友人、石のように固い頭の裁判官、一向に進まない離婚調停。すべてがバラバラのピースでしかなく、まとまることがない。けれど離婚できた今となってはもう、必要のない記憶だ。日々薄れて行っていることを如実に感じている。
一人で暮らすアパートは狭いようで広い。そして安い家賃にふさわしく日当たりが悪い。けれど夕暮れ時、北向きの窓から日が差し込むと、部屋はオレンジ色に明るく輝いた。
懐かしいきらめきを見せる部屋の中で、春子はピースご飯を炊く。湯気がもわっとあふれて、どこか青い香りが混ざったご飯の匂い。正座して茶碗と向き合うとどこからか「おかえり」という声が聞こえてくるのではないかという気持ちになる。
「いただきます」
手を合わせて一人つぶやく。自分一人の部屋、自分で自分を養う生活、自分のために炊いたピースご飯。今年初めての、離婚してから初めてのピースご飯。やっと待ち遠しかった春が始まった。




