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Not Good bye

Not Good bye

 深雪の唇はふんわりとやわらかだった。メンソールのタバコの香りがして、私は深雪が大人なのだと思い知った。

 私たちは出会うべきでない場所で出会った。深雪は、血だらけでナイフを持った私に「May I help you?」と言った。口封じという言葉しか頭になかった私は、あまりのことにポカンと口を開けた。

 その時、私は確かに誰よりも助けを必要としていたし、誰かに何もかも懺悔したかった。深雪は私と一緒に穴を掘って死体をうめてくれたし、私ががくがくと震えながらありのままをしゃべるのを、馬のように優しい目をして聞いてくれた。私は深雪の部屋で朝まで暖かくうずくまっていることができた。深雪は何もしゃべらなかった。私を放って眠ってしまった。


 朝早く、新聞配達の音で目を覚ました。深雪はまだ眠っていた。私は音をたてないように気をつけて部屋を出た。

 血だらけの服は深雪がごみ袋に入れてくれた。服も貸してくれた。私は早朝のいやに爽やかな空気のなかを、真っ黒なタールに足をとられているような気分で歩いた。ウォーキングしているおじいさんや運動部らしい女の子とすれ違って薄暗いところに帰った。


 オーナーが行方不明になったと知れたとき、店の女の子は皆驚いて心配げな顔をした。もちろん私もだ。それは「やあ」と言われたら「どうも」と返すのとおなじ、マナーの一貫だ。挨拶が終わればすぐに忘れる。どうせ通りすがりなのだ。

 ベビードールを着て待機していると、来客を知らせるベルが鳴った。受付でなにかもめているようだ。そんなことは日常茶飯事だから女の子たちは付けまつげをいじりながらぼんやりと聞いていた。

 受付の「おっちゃん」が私を呼んだ。空いている三番の部屋に向かう。しばらくするとドアを開けて深雪が入ってきた。

「HELLO」

「はろー」

 私は挨拶を返した。挨拶が終わっても深雪は帰らなかった。迷わずベッドに腰掛けて、隣のスペースをポンポンと叩いた。並んで座った私のことに気づいていないみたいに真っ直ぐ前を見ていた。私も同じ方向を見たが、そこにあるのは見馴れた浴槽と汚れたマットレスで、ちっとも面白くなかった。

 深雪は小さく口笛を吹き出した。聞き覚えがあるような気がしたがずいぶん拍子が外れていて何の曲だったのかは分からなかった。時間いっぱい、私たちは並んで座っていた。

「じゃあね」

「じゃあね」

 挨拶をして深雪は帰っていった。


 顔馴染みになって受付でもめることがなくなった頃、深雪が青い顔をして訪れた。いつものように「HELLO」とも言わずベッドに倒れこんだ。すぐに寝息をたて始めたので毛布をかけてやった。時間いっぱい寝て起きた深雪の顔色は少しだけ良くなっていた。

「あのさ」

 部屋を出る前に深雪が言った。

「面倒をかけるから、もう来ないよ」

 私は「ふうん」と返事をした。深雪は「じゃあね」と言って部屋を出て行った。私は挨拶を返さなかった。


 新聞に小さな小さな死亡記事が載った。崖から転落したらしい。車を運転していたのは深雪だった。なぜか店に刑事が訪ねてきて深雪のことを質問した。私が知っていることと言えば深雪が「Hello」と言う事や、かすかに猫みたいないびきをかくことくらいだった。

 刑事は「また何か思い出したら連絡をください」と言って帰っていった。深雪に何が起きたのか一言も説明しないままで。


 三番の部屋に呼ばれていくと、私より先に部屋に深雪がいた。

「やあ」

 深雪が挨拶したが私は返事を返せなかった。深雪は紙のように白い顔をして枯れ枝のように痩せていた。

「元気みたいだね」

 私が黙って立っていても深雪はそれで満足らしく一人でしゃべり続けた。

「悪いけど少し眠らせて。すごく疲れてるんだ。ちょっと休んだら出て行く。迷惑はかけない。だから……」

 深雪の言葉を唇でふさいだ。深雪の唇はふっくらとして甘かった。私たちは唇を重ねたままじっとしていた。深雪の唇からはメンソールのタバコの香りがした。深雪が巻き込まれていることはきっと、まだ子供のうちに数えられる私には分からないのだろう。それは「やあ」と言われたら「どうも」と答える、それくらい明白な事実だった。

 私が唇を離した時、深雪は泣きそうな顔をしていた。大人のそんな表情を見たことはない。そんな表情を誰かが私に見せたことはない。

 深雪は私の手を握って顔を伏せた。まるで祈るように、まるで懺悔するように。私はただ黙って、そこにいた。

 私は深雪を抱きしめてベッドに横たわった。腕の中にすっぽりとおさまった深雪は少女のように華奢だった。深雪が眠りに落ちるまで私は深雪の髪をすいてやった。

 目を覚ました深雪が私を見上げて手を差し伸べた。私はまた唇を合わせた。いつまでもいつまでもそのままでいたいと思うほど深雪は私を必要としていた。けれど。

「須藤深雪だな」

 静かにドアを開けて刑事が言った。

「一緒に来てもらえるね」

 深雪はゆっくりと体を起こすと刑事に向かって「Hello」と言った。刑事は何も言わず深雪の腕をとった。

「私は人を殺しました」

 私の言葉に深雪がゆっくりと振り返った。刑事が怪訝な表情をしている。

「この店のオーナーを殺して埋めました。だから私も連れて行ってください」

 刑事は突然のことですぐに動けないようだった。深雪が私に手を差し伸べた。

「Come with me?」

「Sure」

 私たちは出会うべきでない場所で出会った。会うべきでない場所で会った。そして行くべきところに共に行く。さようならの挨拶はしない。私は深雪を忘れないから。

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