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あおじるるる、涙るるる

おじるるる、涙るるる

 和明は休日の昼間のウォーキング途中で青汁専門店を見つけた。店の窓に張ってあるメニューを見ると、「ケール100%青汁」「フルーツミックス青汁」「牛乳青汁」などとともに「ブルーベリージュース」「有機リンゴジュース」など多彩だ。なんとも健康的なメニューを見たメタボ一歩手前の和明は、自分の腹を見下ろして、帰宅後のビールをやめて青汁で喉を潤すことにした。


 店内に入るとミキサーのガーガーという音が響いていた。こじんまりとした店で、カウンターがあるだけで椅子はない。客が一人、高齢の男性がカウンターの中の女性と話をしていた。


「いらっしゃいませ」


 女性は生真面目な表情で和明を迎えた。男性客はやや迷惑そうな顔をしている。女性を独占出来なくて悔しいのだろうか。話し相手が彼女しかいないのかもしれない。少し申し訳ない気持ちで和明は肩をすくめて頭を下げながらカウンターに近寄った。


「青汁をください」


 和明の注文に女性はただうなずいた。地味な服装に、顔からずり落ちそうな大きな黒縁メガネ、短いおかっぱっはサザエさんの妹のワカメちゃんのようで、あまりにも古臭かった。

 横目で見ているとミキサーの騒音が止まった。緑のドロリとした液体が透明なグラスに注がれる。撹拌してできた泡までスプーンでかき集めてグラスにこんもり乗せられた。見た目はまるで緑色のビールのようだ。そのグラスを受け取った男性客は喉を鳴らして一気に青汁を飲み干した。残った泡をスプーンですくって残さず食べ尽くす。


「くあー、うまい! やっぱり姫ちゃんの青汁はうまいなあ!」


 姫と呼ばれた女性は曖昧にうなずいて、ミキサーに緑の葉を大量に詰め込んでいる。そんなに大量の葉っぱがグラスに入りきるとは思えず、和明の目はミキサーに釘付けになった。姫はミキサーの蓋をぎゅっと押さえて真剣な表情でミキサーの中の葉っぱが青汁になっていくのを見ていた。とてもゆっくりとミキサーは回る。姫はミキサーから目を離さない。和明も少しずつくだかれていく緑の濃さに目を奪われていた。


 どれくらいの時間そうしていたのか、隣にいたはずの男性客はいつの間にかいなくなっていた。

 ミキサーを止めて姫がグラスに青汁を注ぐ。驚くほどの量の葉っぱがグラスに入ってしまうのを和明は感心して見ていた。泡がこんもり盛られた緑色のグラスを受けとり、代わりに代金を支払う。

 グラスに鼻を近付けにおいを嗅ぐと、青臭さの中にどこか甘い香りがした。ぐっとあおると苦味の中にみずみずしい清涼感があった。


「美味しい」


 呟いて、泡を最後まですすり飲んだ。目が覚めるような衝撃を受けた。


「青汁を美味しいと思ったのははじめてです」


 姫は小さくうなずいた。


「この葉っぱは何か特別な野菜ですか?」


「普通のケールです。ただ、完全有機栽培で朝摘んだものだけを使っています」


 ひとり言のように呟かれる声は冷たいと感じるほどによそよそしかった。姫は和明に背を向けてミキサーを洗い始めた。和明はなんとなく去りがたく、グラスに残った泡の粒をぼうっと見ていた。


 姫は洗い物が終わると、和明などいないかのようにブルーベリーの選別を始めた。小さな深い青の果実を丁寧につまみ、一粒ずつ丹念に傷がないかチェックしていく。手の平に乗るくらいのブルーベリーから三つの粒がはじきだされた。そうやって少しずつブルーベリーをえり分けて、ボールいっばいの量から十三粒が取り出された。


「ブルーベリー、好きですか?」


 姫が顔を上げずにたずねた。


「ええ、まあ。でもどうして?」


「熱心に見ていたから」


「いや、見ていたのは、あなたの仕事でして。ずいぶんと丁寧に作業なさるんですね」


「こうしないと美味しくないから」


 姫は冷蔵庫にボールをしまった。和明は傷の入ったブルーベリー十三粒から目が離せない。


「このブルーベリーはどうするんですか?」


「私が食べますけど……」


 姫はやっと顔を上げた。


「良かったら食べますか?」


 和明は自分が食いしん坊だと思われるのが恥ずかしくもあったが、姫が差し出したブルーベリーの皿をそそくさと受け取った。青汁があれほど美味しかったのだ。ブルーベリーはいかばかりかと好奇心が羞恥心に勝った。一粒つまんで口に入れたとたん、果実の発する精気のようなものを感じた。噛みしめると果汁が溢れだし、甘酸っぱい果肉がぷちりとつぶれた。小さな一粒から感じたとは思えないほどの満足感があった。和明はパクパクと十三粒を食べてしまった。

 名残惜しく皿を見ていると、クスッという笑い声がした。あわてて顔を上げると笑顔の姫と目があった。姫はあわてて目をそらしたが、はじけるような笑顔は和明のまぶたに残った。たった一瞬のこととは思えないほど濃厚な記憶になった。


 店を出て足取り軽く歩き出す。何だかお腹の中から清浄な血液が全身に巡っている気がした。それより何より、心がうきうきと明るかった。体に良いものはつらいものばかりだと思っていた。けれどそれは思い込みだったのかもしれない。つらいばかりと思っていたものも、噛み締めればぎゅっと濃縮された旨味を感じることができるのかもしれない。


 うきうきした気分で我が家のドアを開ける。と、寝巻のままの妻が台所から顔を出した。


「牛乳は?」


「あ」


 頼まれていたことを忘れていた。妻の表情がみるみるうちに険しくなっていく。


「お金は?」


 お遣いにと渡されたお金は青汁代に消えた。


「えっと、その……」


 妻の表情は今や悪鬼のごとく和明を睨み据えていた。


「どうせまた立ち飲み居酒屋にでも寄ってきたんでしょ」


「ちがう……」


 と言いかけて止まった。詳しく話せば青汁屋や姫のことも話さなければならなくなる。それらは誰にも教えないで、和明だけの宝物にしたかった。


「もういいわ。あとで私が買いに行く」


 妻は冷たい背中で和明を拒絶した。和明は一瞬、妻への怒りが全身に湧くのを感じた。けれど、ふと思いなおした。傷が入ったブルーベリーでさえ、あんなに美味しいんだ。どれだけ傷があろうと、妻もきっと味わい深いに違いない。話せばきっと分かってもらえる。そうしたら今度は二人で青汁屋に行こう。


「なあ、あのな……」


「言い訳は聞きません!」


 ぴしゃりと跳ねのけられて和明の言葉は宙に消えた。ああ、そうですか。じゃあ、いいですよ。

 和明は青汁屋のことも姫のことも自分の胸にしまい込んだ。青汁屋で会った高齢の男性客の気持ちが、今ならよく分かった。

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