ふかふかマフラー
ふかふかマフラー
その話を聞いたとき、不思議な気持ちを抱いた。それをよく知っているような気がしたのだ。デジャ・ビュという言葉が一番近いように思う。けれどそうではない。私が確かにどこかで経験したことなのだ。
それは不思議な都市伝説だ。「ふかふかマフラー」というそうだ。夜道を歩いていると急に暖かくなり、気がつくと首にふかふかのマフラーが巻かれている。あまりに気持ちのいいふかふか具合いに、はずそうという気にもならない。家に帰りついて暖まり、嫌々ながらマフラーをはずそうと思うと、跡形もなく消えているという。そうして、マフラーを失った悲しみに埋め尽くされるのだ。
わけもなく、いつも、今だって、私は悲しみのなかにいる。楽しいこともある。嬉しいこともある。それなのに、どんなに美しい景色のなかにいても私の心は悲しみに満ちている。この気持ちを例えるならば、透明な水で満たされた、魚がいなくなってしまった水槽。それをただじっと見つめているのだ。私はいつも空っぽの水槽を見つめているのだ。
友人がしおれたようになっていたので何かと聞くと、ふかふかマフラーにあったという。それはそれは幸せな気持ちだったと話す様子も悲しげだった。何を見ても何をしても、ふかふかマフラーの後ではなんの慰めにもならないという。その気持ちは私にもよく分かった。私は友人を見ると哀れみを覚えるが、何をしてやることも出来ないということを知っていた。
ふかふかマフラーの噂はとどまるところを知らないようだった。テレビ、新聞、ラジオ、ネット、あらゆる情報網で取りざたされている。よくある都市伝説とは違うのだ。実際に体験した者が大勢いて、その人達は皆、人が変わったように厭世的になるのだ。都市伝説は事件に近い扱いになっていた。
ふかふかマフラーは、恐らく日本人全てを包み込むだろう。優しく包み込み、寒々とおいていくだろう。私たちは本当は知っているのだ。産まれたときから私たちは悲しみの中に生きているということを。暖かな幸せはもう二度と取り返せないということを。
ふかふかマフラーが日本人全てに訪れ、都市伝説がとうとう日本の日常になってしまった。もう悲しみに満たされていない人はいない。皆、一様に憂い顔で歩いている。もうすぐ娯楽という概念は消えるだろう。喜びや楽しみを欲する者はもういない。
私はなぜか、悲しみの中に安寧を見つけた。もうこれ以上、悲しくなることはないのだから。
ある夜、家に向かって歩いていた時のことだ。粉雪舞う寒い夜だ。ふと暖かになったことに気づいた。まさか、と思った。恐る恐る首もとに手をやるとふかふかな感触があった。
まさか、ばかな。これ以上の悲しみを抱えてしまったら、きっと私は生きていけない。
だが、そうだ。ああ、幸福とは、こういうものであった。確かに私は知っていた。けれど、この幸福が去った後の苦しみを、私は誰よりも知っていた。
もう二度とこの幸福を手放したくはない。マフラーは暖かい場所に着くまでは離れず私を暖め続けてくれる。
幸福とともに朽ち果てても、マフラーを手放す気にはなれなかった。私はいつまでもいつまでも寒空の下、立ち続けた。




