バスの旅
バスの旅
山道を歩き疲れたころ、やっとバス停を見つけた。ところがバス停の標識ポールは錆び付いて書いてある文字も消えてしまって読めなかった。本当にこんなところにバスが来るのかと不安になったが、もう歩けそうにないし、何より、午後四時だというのにすでに辺りは薄暗くなっていた。四方八方山深いために陽が遮られるのだ。気温もずいぶんと下がってきた。濡れたままの手がしびれるように痛む。
車を捨ててきたのは失敗だった。咄嗟に足がつくと思ってしまったが、山を抜けるまでは使えば良かったのだ。こんな山奥にそうそう人などいないだろう。まして警官なんか。
少しでも暖をとろうと両手をポケットに突っ込んだが、体の震えは止まらない。ポケットの中のナイフがキンキンに冷えて刃に触ってもいないのに手が切れてしまいそうだった。
遠くに小さな灯りが見えた気がした。山肌を舐めるように少しずつ動いている。バスだろうか。それとも通報を受けたパトカーだろうか。じっとしていられなくて近くの大木の後ろに身を隠した。
風が遮られ寒さが少しはやわらぐかと思ったが震えはますますひどくなった。かちかちと歯が音をたてている。
突然に道路が黄色のライトに照らし出された。車が来たのだ。木の陰から顔を出してうかがうと、古ぼけたバスが人気のないバス停でドアを開けて停まっていた。暖かそうな黄色っぽい灯りに、周囲を警戒するのも忘れて駆け出した。
バスに飛び乗るとドアはすぐに閉まった。ぶるんぶるんと数回エンジンをふかして走り出した。
「お客様、どちらまでですか?」
女の声に驚いてそちらを見た。紺色の制服を着たバスガイドらしい風体の女だった。
「このバスは観光バスなのか?」
怪しまれないように精一杯優しい顔を作って尋ねた。女は興味なさげに首からさげている木製の小さな箱から取り出したぺらぺらの小さな紙を差し出した。かすれた字で「無間行き」と書かれていた。切符のようだ。
「無間ってどこですか?」
「終点です」
女のいう通り百円玉を六枚、小箱に入れた。どうやら今日の客は俺一人だったらしい。木に金属がぶつかる鈍い音がした。
緑の布張りの座席に座って、やっと人心地ついた。落ち着いて車内を見ると、どこもかしこも信じられないくらい古かった。通路の床は木製で、車体はブリキででも出来ているのか鈍い銀色をしている。
バスガイドもずいぶん古くさい制服だ。ウエストが絞まった上着と同色のスカートは膝下、脹ら脛の半分ほどの長さで、全体的にもっさりした印象だ。古くても暖房はしっかりしているのか車内は暖かかった。それだけでもありがたい。
切符を取り出して見た。「無間」という地名に聞き覚えはなかった。そもそもこの辺りの地名など知っているわけがない。誰も俺を知るものがいない。そんな場所を選んだのだから。
田舎の独り暮らしの老人は家に小金を貯めている。それは俺の経験則だ。今日も路駐していた車を盗んで舗装の悪い道をたどって山の中へ向かった。たまに運が悪いと林道に入って人家がないこともある。
今日は幸運にも一軒の農家に行き当たった。周囲は竹林で、その家の前の道を行きすぎると林道へのゲートが固く閉められているだけで人が通る気配はない。人家自体も老人の独り暮らし特有の荒れた感じがしている。
車を止めて人家をたずねた。呼び鈴もないので戸を叩いて呼ばわった。けれど返事はない。が、人がいる気配はある。耳が遠いのか、寝ているのか。どちらでもかまわない。靴を脱いで家に上がった。
案の定、家のなかには老人が一人きり寝ていた。俺は眠りこけているじじいの腹をまたいで胸ぐらを掴んで揺さぶった。
「金」
俺の声にじじいはうっすらと目を開いた。
「金」
がくがく揺さぶってやると、やっと目が覚めたのか、俺の手を離そうともがいた。けれどあまりに弱弱しい力に俺は拍子抜けして、じじいを突き放して家探しすることにした。
じじいが寝ていた部屋のタンス、居間の戸棚と立派な液晶テレビの裏側、台所の漬物桶と冷蔵庫の中。金を隠すならだいたいそんなところだ。あとは、玄関を出て裏の倉庫。使われていない様子なのにホコリが積もっていない農耕用機具が置いてある奥の方。ガラガラと音高くスコップやら鋤やら鍬やらをなぎ倒すと隠されていた手提げ金庫が出てきた。
「ビンゴ」
ダイヤル式の金庫の蓋を鍬で叩き壊そうと躍起になっていると、後頭部にひどい衝撃を受けた。一瞬、目の前が暗くなって倒れかけたが、壁に手をついてなんとか踏みとどまった。それでもうまく動けず、膝をついまま首を巡らせると、俺の背後にじじいが立っていてスコップを振りかざしていた。スコップの尖った先端を俺の首目指して振り下ろしてくる。
俺は何も考えていなかった。ただ、体が自然に動いた。スコップを避けて床を転がった。じじいは勢い余って床につんのめった。それでもスコップを離そうとはしない。やたらに振り回す。じじいの隙を突きスコップの柄を蹴り上げると、スコップは壁まで飛んでやたらに高い金属音で鳴いた。
じじいは俺の足にしがみつき、歯を立てた。肉を噛み切られるかと思った。気づいた時にはじじいの背中に俺のナイフが突き立っていた。それでもじじいは俺の脛に噛みついたままだった。俺はナイフを引き抜き二度、三度とじじいの背中を刺した。じじいが力尽きたのか床に崩れ落ちた。それでもまだ噛みついてくるのではないかと靴先でじじいの耳のあたりを蹴ってみた。身動きしないと分かって、横腹を蹴り上げて上向かせた。白目をむいて、血の混じった涎をたらしているじじいは悪鬼のようで、ぞっとした俺はもう二度と生き返らないようにじじいの腹を何度も突いた。
気が付いた時には俺の体は血でべっとり濡れていた。じじいの家にもどって水で血を洗い流し、じじいの服の中からなんとか着られそうなものを探し出した。ドライヤーを探している時に居間の電話がけたたましく鳴り響いた。
じじいが出なかったら誰かが様子を見に来るだろう。行き会ったらヤバい。山を下るのは危険だ。そう思って林道を歩いて登って行くことにしたのだ。
ふと気づくとバスガイドのような女が俺の側に立っていた。
「面白いもんを持っているのね」
ポケットの中のナイフをいじっていた俺は、ぎくりと動きを止めた。
「ちょっと見せてよ」
女は冷たい目で俺を見おろしている。
ばれている。
なぜだかそう確信した。
そう思った瞬間に俺はポケットの中の真っ赤なナイフを女に向けて突き出した。ナイフは間違いなく女の腹部に深々と刺さった。なのに女は表情を崩すこともない。
「へえ。これで人を殺したの」
腹からナイフを突き立てて平然としている。この女、人間じゃない。
女を突き飛ばして助けを求めて運転席へ走る。そこは、無人だった。誰も動かしてはいないのにハンドルが細かく右に左に動いていた。
「お客さん、駄目ですよ」
通路の奥から女が歩いてくる。腹にはナイフが突き立ったままなのに、血が流れるでもなく、痛みをうったえるでもない。ごく普通に雑談をするように話しかけてくる。
「お客さんは切符を買ったんだから。無間までお連れしますよ」
俺は恐くて歯の根が合わない。カチカチという歯の奥から、なんとか声を絞り出した。
「無間ってどこなんだ……」
「もちろん」
女はさも楽しそうに笑った。顔の半分ほども開いた三日月形の口の端からするどい牙がのぞいた。
「無間地獄までですよ」
すべての照明が切れたようにバスは真っ暗になった。