私たちは未来に生きている
私たちは未来に生きている
三十年前の話になる。
小学校で社会科見学なる行事があった。五年生で一回、六年生で一回、それぞれ違う場所へ。
まあ、場所は違ってもどちらも工場だった。五年生の時はパン工場。六年生は自動車工場。
どちらも美味しかった記憶がある。
自動車工場ではオレンジジュースをいただいた。
パン工場はもちろんパン。銀チョコという名前の銀色の袋に入っている、チョココーティングされたコッペパンだ。
工場からの帰り、近所の公園でお弁当といっしょに開けてみたら、初夏の爽やかな気温でチョコが溶けてほとんどが袋の内側にへばりついて非常に悲しかったことを覚えている。
パン工場見学が私の生まれて初めての工場体験だった。
それまで私にとって工場というのは、人型ロボットがカキコキと勝手に働き、ベルトコンベアが縦横に走っている、星新一のSF小説のなかのものだった。
どんなロボットが働いているのかとワクワクしながら見学路を進むと、そこにいたのは人間だった。ベルトコンベアは一本だけで、焼き上がったパンを冷まして袋詰めの機械に向かう間だけのものだった。
袋詰めされたパンは丈の低いコンテナに入れられ、人間が抱えて運んでいた。
私はがっかりというより愕然とした。工場にロボットはいなかった!
世界はまだぜんぜん古いんだ。
そう思った。
その翌年に行った自動車工場はパン工場よりはずっとSFだった。
車の筐体がクレーンに吊り下げられて宙を進み、その長い列をたった一人の人が操作と監視をしているだけだった。それでもまだフロアの端、壁際には人手が必要な細々した作業が見受けられた。まだ私は過去にいるのだなあとぼんやり思った。
大人になってビール工場見学によく行った。
無料で見学させてもらえるうえ、試飲と称した飲み放題がついてくるのだ。ついでにお土産のビール酵母ビスケットもくれる。
そんなビール工場はかなりSFに近づいていた。広いフロアに縦横に走るベルトコンベア。高速でビールが詰められ栓がしめられる。
それを管理している人はたった一人。流れゆく瓶ではなくディスプレイを見つめていた。
その後、自分も工場で働くことになった。電子部品を作る工場だった。私が作った部品が使われるのはなんだか難しくてよくわからない最先端の機械だったが、部品は手で組み立てられていた。
アナログだった。
私は古い時代に生きていた。
ところが、時代のビッグウェンズデイが唐突にやってきた。
どでかいメカが一度に何台も導入されたのだ。
今まで手で組み込んでいた小さな部品をロボットアームを有する二千万円の機械が組み込む。人間だと十分かかっていた作業がロボットアームだと三分で仕上がる。人間は不具合が起きないか、不良品が出ていないか検品作業に三人ついていればいい。いままで同じ作業をするのに十人必要だったというのに。
そうやってSFがやって来て、私は職を失った。
星新一の未来の描き方は鉄腕アトムと似たところがあると思う。秩序立っていて知的で無機質だ。
だがそのSFが思い描いた時代、この現代には混沌と貧富の差と異常気象があるばかりだ。
世紀末は越えたのに『北斗の拳』の世界に近づきつつある。
職を失って初めて知ったが、世の中には歴然とした学歴差による隔てがある。実力社会などという言葉はまやかしだ。信じられないなら求人情報誌を見てみたらいい。学歴によってつける職とつけない職がはっきりと区別されている。
だがその区分から逃れる術はある。自分の居場所を自分で作ることだ。まったく新しい価値を自分の手で作り出すのだ。
一昔前にはSOHOなるものが流行った。それも一つの働き方だ。ただし、自分で自分をプロデュースする力と自分自身で飯代を生み出す力がなければ何もならない。だがしかしそれは江戸時代にはすでに普通であった、仕事を生み出すという能力であるようだ。
お江戸では地方にはない職が色々とあったらしい。その一つが『搗き屋』というものだ。
なにかというと、玄米をついて白米にしてくれるという業者だ。業者と言っても一人でぼてふりがやってくる。
江戸は農村と違い、米は玄米を買って精米は自分で行うものだったと杉浦日名子氏がおっしゃっていた。しかし米を搗くのは重労働。そこで現れたのが米搗き屋というニッチ商売だったという。
農村から上京した力自慢の若者が就いた職だという。
そこで上得意を掴めば、そこから金を廻して知恵を働かせればいくらでも成功できる。
それは現代でも同じだ。
要は掴むことだ。
腕を、時間を、人心を。
そんなもの、そのへんにいくらでも転がっている。
ただ、見えていないだけだ。私たち凡人には。
私には何も見えない。ただ、誰かが見出した価値を求め小銭をはたくだけだ。
毎日がそうなのだ。
SFの話に戻ろう。
未来が究極に進んだらどうなるか。それはウェルズが『タイムマシーン』で描いた未来像がもっとも現代においてありうる姿だと思う。
それを踏まえて、星新一の作品の中に、人口増加が止まらなくなった未来を描いた作品がある。その中で私が感銘をうけたものは次のような話だった。
毎日を無為に過ごしている青年。
欲しいものはテレビの中にあり、寝転がったまま注文すればすぐに届く。だが、食料はそうはいかない。人口が過密過ぎて食糧難の昨今、生きるのに最低限の食料しか与えられず、しかしロボットが世の中を廻すため働くこともせず寝転がっていればいい。ただ、腹だけが減る。だから動かずテレビを見続ける。
ここで、種を得られる植物と幾何かの土を準備できればカイワレやらバジルやら紫蘇やらアボカドやらを育てることが出来る。やる気さえあれば。
私たちはそんな食糧難の時代に差し掛かっている。
ロボットが社会を動かす時代には程遠いのに。
口を開けて待っていれば餌が届く未来はここにはない。
けれど自分で耕し泣き笑い誰かに分け与えるのだ。
その時はもう来ている。
私たちは未来に生きている。