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百年の糠床

百年の糠床

「ええ! いやだよ!」


「仕方ないでしょ。お母さん、仕事なんだから」


「一日くらい混ぜなくても大丈夫だよ」


「大丈夫じゃないから頼んでるんじゃない」


 出張先に持っていけば? という言葉を花はなんとか飲み込んだ。母が働いてくれるから花は大学に通えているのだ。そのことは本当にありがたいと思っているし、家事だってできるだけ手伝っている。でも、どうしてもダメなのだ。糠床だけは触れない。


「あなただって、いつかは糠床を継ぐのよ。今から慣れておかなきゃ」


「継ぐとか絶対ムリ! ムリムリ!」


「百年続いた糠床なのよ? 重要有形文化財よ? 途絶えさせるわけにはいかないの。ああ、もう時間がない。頼んだわよ!」


「や、ちょ、ムリ……」


 母がスーツケースをかかえて飛び出していき、ドアは無情にも花の声を遮った。


「もう、どうしたらいいのー!?」


 花は天井に向かって吠えた。



 花の家に伝わる糠床は、ひーひーひーばあちゃんの時代から受け継いでいるものだ。百年以上、糠を継ぎ足し継ぎ足しして今日まで生き続けてきた。

 女たちが受け継ぐので、糠床は婚家から婚家へと引っ越しを繰り返している。ひと抱えある巨大な瓶がよく割れずに残るものだと母は感心していたが、花は、今までの糠床の歴史のどこかで割れていてくれたら良かったのにと心の底から悔やんだ。


「ううう、嫌だよお」


 キッチンの地下収納庫の扉を見下ろしながら、花は泣きそうになっていた。絶対に触りたくない。けれど、本当に一日混ぜないだけで糠床がだめになってしまうのなら、やらないわけにはいかない。大きく息を吸って、止めた。急いで扉を開けて瓶を引っ張り出す。廊下に走っていって息つぎ。また息を止めてキッチンに戻る。

 瓶の前に正座して睨み付けた。蓋に触れるまでに三回息つぎをした。ようやく覚悟を決めて、目をつぶって勢いよく蓋を取り上げた。恐る恐る片目を開ける。瓶の中に茶色の泥のような糠が満々と詰まっている。もう片目も開ける。糠の所々に唐辛子の赤い色が散っている。そっと蓋を置いて息を吸ってみる。酸っぱいような、いたんでいるような、糠床特有の臭いがする。そっと右手を糠床に近づける。ガツっと手首をつかまれた。


「きいやあああぁ!」


 糠床から真っ白な手が伸びてきて花の手を握っていた。花は手をブンブンと振るが、糠床の腕はぬるりと伸びてどこまでもついてくる。床を蹴るようにして後ろに下がって行き、とうとう壁に背中がついてしまった。もう逃げられない。ガクガクと震えながら糠床を見つめていると、腕の根元が盛り上り、肩が現れた。それもぬるりと瓶から抜け出すと、頭、胸、腰とどんどん出てきて、あっという間に目の前に人が立っていた。


「……おばあちゃん?」


 花の目の前にいるのは、確かに祖母だった。いつも着ていた縞のエプロンをつけて、フラリフラリと揺れている。だが、祖母は三年も前に死んでいた。


「ごめん、おばあちゃん! ごめんなさい! 私が悪かったから成仏して!」


「まあ、あんた、またいたずらしたの? それともニンジンをゴミ箱にすてたの?」


 フラリフラリとしたまま祖母は懐かしい声で話した。


「何もしてないです、何もしてないです、何もしてないです……」


「はいはい、分かったよ。祟ったりしないから落ち着きなさい。ほら、深呼吸して」


 花は言われるままに大きく息を吸って吐いた。


「ね、落ち着くでしょう。さ、そうしたら糠を混ぜてちょうだい」


「ムリ!」


「なんで」


「その中、人がいるもん!」

「今はいないよ。ばあちゃんは出てきたじゃないか」


「え? 瓶の中の人はおばあちゃんだったの?」


「そうだよ」


「でも、待って。変よ。私が最初に瓶の人を見たのは小学生の時よ。その頃おばあちゃん生きてたじゃない」


「代替わりしたのさ。ほら、つべこべ言わずにさっさと混ぜて」


 祖母がフラリと近寄ってきて、花は逃げるように糠床のそばに這い寄った。祖母は怖い顔をして一歩、花の方に近づいた。


「混ぜなさい」


 もう一歩近寄られそうになって、花は慌てて糠に手を突っ込んだ。祖母の顔を盗み見ると、混ぜろとジェスチャーでうったえてくる。花は目をつぶって糠をかき混ぜはじめた。今にも手をつかまれて糠の中に引きずり込まれるのではないかとビクビクしていたが、糠の中には何もなく、いくら探っても瓶の隅から隅まで糠しか入っていなかった。

 少しずつ恐怖心が薄れると、糠の感触が分かってきた。ほのかに温かくて、ねっちょりしたさわり心地は幼い頃の砂遊びを思い出させた。日向で温まった土に触れた幸せを思い出した。


「ようし。良くできました」


 祖母の声にホッとして糠床から手を引っこ抜いた。まだまだ触れていたかったと残念に思っていると、祖母が怖い顔で言う。


「冷蔵庫のキュウリを糠につけなさい」


「なんで冷蔵庫の中身を知ってるの?」


「いいから、さっさと動く!」


 言い付け通りキュウリを洗って糠床に押し込んだ。


「さくらはキュウリをかかしたこと、ないだろ」


 さくら、と母を名前で呼ぶ祖母を、花は初めて見た。生きていた頃は花の前では「お母さん」と呼んでくれたのに。「花のお母さん」とは、もう言わないのかな。花は少し驚いた。


「うちの女たちはね、みんなそうなの。なにせ、糠漬けといったらキュウリだからね」


 そう言われても花は小学生の時に糠床が怖くなってから、一口も漬け物を食べていないから、よくわからなかった。


「キュウリなの」


 力強く断言されて、花はうなずくしかなった。祖母は満足げに少しずつ瓶に近づいた。花はじりじりと瓶から離れた。祖母は糠床に手をついたと思うと、すうっと消えた。






「あら、ほんとに混ぜてくれたのね」


出張から帰った母が糠床をのぞいてのんきな声をあげた。


「なにいってんの? 混ぜなきゃ糠床がだめになるんでしょ?」


「あら、一日くらい平気よ」


「平気じゃないって言った!」


「そうだったかな?」


「おばあちゃんに会った」


「そう」


 母は平気な顔でお茶をすすっている。


「母さんは知ってたの? おばあちゃんのこと」


「うん。だって、毎朝のことだもの」


 花はは深いため息をついた。


「言ってくれたらいいのに」


「言ったら信じた?」


「……ううん」


「懐かしかったでしょ」


「うん」


「いつかさ」


「うん?」


「いつか、母さんもさ、糠床の人になるのかな」


「さてね」


「おばあちゃんのお母さんも糠床の人になったんだね」


「そうだね」


「私、ひいばあちゃんに会ったよ」


「あら、そう」


「手だけだけどね」


母がおかしそうに笑った。


「私もそうだったわ。引っ張られたでしょ」


「怖かったんだからね!」


「私もよ。たぶん、みんなね」


「みんなって、おばあちゃんも、ひいばあちゃんも?」


「ひいひいばあちゃんもね」


花はふうっと大きなため息をついた。


「じゃあ、仕方ないか」


「そ。仕方ないでしょ」


 うーん、と伸びをして花は指先の匂いを嗅いだ。どこか懐かしい甘い香りがした。

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