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人生のレッスン

人生のレッスン

 歌手になることが沙保里の夢だった。子供の頃からそのためだけに努力してきた。二十年間、腹筋を最大限に使える体を作るためにランニングはかかさないし、ボイストレーニングも一度も休んだことはない。声楽も勉強した。感情表現を増すために演劇も学んだ。すべて歌手になるためだ。


 高校を卒業して歌手を目指し続けると言うと母は大反対した。

「もういい加減にあきらめなさい。夢は夢よ」

 沙保里の夢はそんな言葉であきらめられるほどやわではなかった。それでも、母に分かってもらえないのは悲しかった。そんな時に、祖父だけは味方になってくれた。

「沙保里の努力はきっと実るよ。じいちゃんが沙保里の一番のファンだよ」

 そう言ってもらうと沙保里はまたがんばれるのだった。


 ライブハウスで歌いながら、保険勧誘の仕事をした。色々な人と話をするのは勉強になったし、歌っていることを話すと、興味をもってライブを見に来てくれる人もいた。そうやって少しずつ実力をつけながら、オーディションをいくつも受けた。けれどいつも、あと少しのところで落選してしまう。それがなぜなのか、沙保里はつかめずにいた。自分には才能がないのかと悶々とすることもある。そのたびに祖父がやる気をくれた。

「沙保里の歌は世界一だ。きっと皆に届く日がくる」

 そう言ってくれた。


 祖父が倒れた時、沙保里はライブの最中だった。その日の歌は自分でも驚くほどに響いていた。泣いてくれる客が何人もいた。何かを掴みかけている、そう思った。

「オーディションを受けてみませんか」

 ライブが終わって声をかけてくれたのは、沙保里が何度もオーディションを受け続けた芸能事務所の人間だった。その事務所とは色が会わないのだろうとあきらめようと思っていた沙保里に、その人は言った。

「あなたの歌は何度も聞かせていただきましたが、今日はその中で一番素晴らしかった。今ならきっと良い結果が出ると思うんです」

オーディションにエントリーして上がりきった沙保里のテンションは、留守録を聞いた途端に一気にしぼんだ。

『おじいちゃんが倒れて入院したの。すぐ帰ってきて』

 沙保里はライブハウスから駆け出した。


 病院についたとき祖父は眠っていた。付き添っていた母は言葉にはしなかったが、視線で沙保里を責めた。こんな時にのんきに歌を歌っているなんて、そういう無言のメッセージを沙保里は受け取った。

 病気は重かった。このまま目覚めない可能性もあると医者は言った。沙保里は予定していたライブをすべてキャンセルして祖父に付き添った。祖父がいなくなって、応援してくれる家族がいなくなって、それでも歌える自信がなかった。歌うことが怖くなるなんて今まで考えたこともなかった。それ以上に祖父が倒れるなどと考えたことはなかった。


 歌わないと時間はあっという間にすぎた。窓の外、北風に乗って雲が流れていくように、不安定なままに沙保里の時間はただ流れていった。

「沙保里」

 呼ばれた時、沙保里はうとうとしていた。夢の中から懐かしい声がやって来たのだと思った。

「沙保里」

 もう一度呼ばれて目を覚ました。祖父が目を開けていた。

「おじいちゃん、気がついたの」

祖父のベッドにすがりついた沙保里の頭を祖父は優しくなでた。

「ずっとついていてくれたんだなあ。沙保里は優しいな」

「おじいちゃん、私、これからもずっと一緒にいるから。おじいちゃんのそばにいるから」

 祖父は静かに沙保里を見つめた。

「沙保里、お前は決めたんだろう、夢を叶えるって。じいちゃんは沙保里の一番のファンだ。沙保里が歌わないと悲しいよ」

「おじいちゃん……」

「行きなさい、沙保里。夢の世界に。今すぐだ」

 今日はオーディション当日だった。沙保里は祖父の手をぎゅっと握ってから立ち上がった。振り返らずに病室を出た。


 喉のコンディションは最悪だった。何日も発声練習すらしていない。食事も喉を通らなかったから、力も入らない。それでも沙保里は歌った。プロになるとか、有名になるとか、そんなことはどうでも良かった。沙保里は心の底から歌いたいと思った。誰かのために、今まで積み重ねた歌への思いを届けたいと思った。


 オーディションを終えて病院に戻ると祖父は亡くなっていた。最後まで目を覚まさなかったと皆が言った。祖父の言葉を沙保里は自分の胸の奥にしまった。

 祖父の葬儀が終わってすぐ、合格の知らせが届いた。沙保里は祖父の思いを秘めた夢と一緒に、人生を歌って生きていく。

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