時間泥棒
時間泥棒
眠らない都市、東京に時間泥棒が闊歩しているという事実は、なぜか隠蔽されている。世界的にも珍しい組織的犯行に対する世間の混乱を避けるためと思われる。しかしどんな意見もマスコミに取り上げられることなく、ネットで普及することもなかった。和比古はそんななか、たった一人で時間泥棒の存在を世に知らしめようと奮闘していた。
和比古は時間泥棒被害にあったうちの一人である。当初は自分の時間が盗まれていることに気付かず、ただ忙しい時期を過ごしているのだと思い、張りきって仕事をこなしていた。
しかし、仕事は次々と、終わることなくやってくる。和比古は休むことなく仕事をこなす。自分の努力がいつか報われると信じて。しかし、その時はいつまでたってもやってこない。そんなとき、小学生の娘が『モモ』という本のあらすじを教えてくれた。
時間泥棒がみんなの大切な時間を盗んでいるのだという。その時間泥棒たちと戦ったモモという女の子の話だという。
なんということだ、和比古は愕然とした。自分の時間も盗まれていたのだ。だからいつも時間がない、時間がない、と思い続けているのだ。これは大変だ。時間泥棒から時間を取り戻そう。そうすればもっともっと仕事ができる。和比古は孤独な戦いを始めた。
まずは大勢の人に知ってもらおうとネット掲示板に書きこみ、SNSで拡散しようとした。しかしどうしたことか、いつまでたっても誰も反応しなかった。そうか、すでに皆、時間泥棒に心まで奪われたのだな。和比古はテレビ局や新聞社にも投書や電話をしたが、いずれも握りつぶされた。
そこで、ハッと気づいた。家族は大丈夫なのだろうか? 和比古は妻と娘を前に時間は盗まれてないかと聞いてみた。娘は「私は大丈夫! 『モモ』を読んだもん」と答えたのだが、問題は妻だった。
「時間? いくらあっても足りないわ」
ああ、何てことだ。妻も時間泥棒の被害者だ。和比古は妻をぎゅっと抱きしめて「僕が時間を取り戻してあげるからね」と約束した。妻は感激したようで、和比古を抱きしめかえした。
和比古の戦いは激しさをました。投書や電話は毎日できるだけ続けた。ネットでも手当たり次第に掲示板や、何かのコメント欄を見かけたら書き込んだ。それでも世間には時間泥棒のことが知られていない。業を煮やした和比古は、駅前で手作りのチラシを配り始めた。
チラシ配りを始めて三日目、駅前に妻がやって来た。
「あなた、何してるの!」
「皆に時間泥棒に注意するようにってチラシを配ってるんだよ」
話しながらも和比古は道行く人に無理やりチラシを押し付ける。
「やめてよ、どうしたのよ。会社も無断欠勤してるって、連絡があったのよ」
「仕事なんかしてる場合じゃないんだ。大切な時間が盗まれてるんだよ」
「あなた、もしかして、『モモ』のことを言ってるの?」
「そうだよ。そうだ、皆にあの本を知ってもらえばいいんだ。さっそく買って駅で配ろう……」
「あれは物語でしょ。ねえ、私のこと、からかってるの?」
「からかう? なんで? それより、君も手伝ってよ。本をたくさん買いこまないと。手がいるんだ」
「しっかりしてよ! やめてよ! ほんとにどうしちゃったの、あなた、普通じゃないわ」
「そうさ、普通じゃない。だって僕の時間は盗まれてるんだから、普通の生活なんかできないよ。僕自信の時間がないのは君が一番わかってるたろ」
「分かってるわ。だから仕事を休んでって何度も言ったわ」
「うん。だから僕はこうやって……」
「あなた、疲れてるのよ。仕事ばかりで休日もまともに取らなかったんだもの。ねえ、まとまった休暇をとって、ゆっくりしよう。そうしたら、きっとよくなるから」
「だめだよ、ゆっくりなんかしていられないんだ。急がないと時間泥棒が」
「いないの! 時間泥棒なんて本当じゃないの! 作り話なのよ!」
「そんなことないよ。だって、現に僕の時間は……」
妻は悲しげな目で和比古を見つめた。和比古はどこを見ているのか定かでない表情をしていたが、一瞬、まっすぐに妻の目を見た。
「あなたは、あなた自身で、時間を盗んでいたのよ」
「僕が?」
「そうよ、あなたが、大事な時間を無駄にしてきたの」
「無駄……? 僕は何もかも投げ出してきたなのに、無駄だなんて」
和比古は体を二つに折って笑い始めた。妻が驚いて動きを止めると、和比古は妻の両腕をがっしりとつかんだ。
「いたい! 離して!」
「そんなわけないじゃないか、そんなわけないじゃない。それじゃ僕は何のために働いてきたんだ、時間を無駄にするため? 君たちを放っておいて、僕は何のために、僕は、僕は」
和比古は天をあおいで笑った。もう和比古には時間は存在しなかった。和比古はすべての時間を手放した。
いつまでもいつまでも、時間のない世界で笑い続けた。