万国菓子舗 お気に召すまま ~波のまにまに~
万国菓子舗 お気に召すまま ~波のまにまに~
福岡の繁華街から少し離れた町に、その菓子店はある。『万国菓子舗 お気に召すまま』という一風変わった名前のこの店は注文があればどんなお菓子でも美味しく作り上げてみせる。
今日もショーケースには『万国』の名に恥じぬ世界各国のお菓子が並んでいたのだが、昼過ぎには早くも売り切れてしまった。
「荘介さん、たまには追加のお菓子を出しましょうよ」
半ばあきらめ顔で、店番をしていた久美は店主の荘介に苦言を呈した。
この店のお菓子はすべて店主の荘介の手によるものだ。この店に日参する客のなかにはお菓子の味はもちろんだが、荘介の美貌に惹き付けられた人も多い。
だが、ギリシャ彫刻のような荘介の顔は店に来ればいつでも見られるわけではない。荘介には放浪癖があり、朝一番にショーケースをお菓子でいっぱいにすると、どこへともなく出掛けていってしまう。
今日もどこへ行っていたやら、帰ってきたのは夕焼け頃だった。
「追加ですか。そうですね、たまには。でも今日はこんなものがありますから」
荘介は手にしていた一枚のチラシを久美に差し出した。
「花火大会? 今日なんですね。真夏じゃないのって珍しくないですか?」
「最近は季節に関係なく打ち上がってる気がするね。真冬の花火大会も増えているらしいし」
「真冬の夜は寒そうですよ」
「それを思えば初夏の今頃なら過ごしやすいでしょうね」
「そうですね。東区の海辺であるんですね。入場料がいるんだ……、え!高い!」
久美が熟読しているチラシには芝広場席3500円と書いてあった。
「高いですよ、荘介さん!」
「花火と音楽のマリアージュらしいですからね。昼に開場で、明るい間はライヴもあるらしいね」
「あ、本当ですね。何組か出演するんだ。それなら高くもないのかな。荘介さん、ライヴを見に行くんですか?」
「いいえ、チケットがないです」
「売り切れですか」
「残念ながら」
「じゃあ、お菓子の追加を作れるじゃないですか」
久美が口を尖らせると荘介は楽しそうに笑ってみせた。
「ライヴは見られませんが、花火は見に行きましょう」
店を早じまいして二人はバスに乗り込んだ。花火大会は東区で開催されるのだが、荘介が乗ったバスは西区行きだった。
バスの座席に並んで座り、久美がどこへ行くのかと尋ねても荘介は「ひみつです」といたずらっ子のように笑うばかりだった。
たどり着いたのは西区の浜辺。ぐるりと丸くCのような形をした博多湾を挟んではるか向こうに東区の海岸が見える。
「わあ、ここなら花火が見えますね。けど、かなりズルいかもしれません」
「来年は早めにチケットを取るよ」
日中は真夏日で汗をかくほど暑かったのだが、日がかたむいてだいぶ涼しくなった。海風に当たっていると少し肌寒いくらいだ。
荘介は持っていたカバンから魔法瓶とコップを二つ取り出して温かいコーヒーを注いだ。
コップを受け取り口を付けた久美が「ふわあ」と気の抜けた声をあげる。
「荘介さん、このコーヒーすごく美味しいです。甘みはそんなにないのに、口のなかに甘い香りが広がります。幸せがコーヒーに姿を変えたみたいな感じです」
「それは良かった。これはアイリッシュコーヒーです。ウィスキーカクテルの一種なんですが、お酒の量を少なくしてみました。本当は生クリームを浮かべるのですが、さすがに持っては来れないので今日はこれを」
荘介は湯気がたつ久美のコップに真っ白で真ん丸なマシュマロを二つ入れた。マシュマロはシュンと音をたてて溶けだした。
コップに鼻を近づけて香りをかいだ久美が首をかしげた。
「オレンジの匂いがします」
「オレンジのピユーレを使ったマシュマロを作ってみました。ウィスキーの香りと合うかと思って」
「すごく良い香りです」
マシュマロが溶けて広がって、コップはすぐに白で埋め尽くされた。久美はオレンジのアイリッシュコーヒーを飲んでみた。
柑橘の爽やかさが鼻に抜け、その後を温かなウイスキーの香気が追いかける。コーヒーのほろ苦さが二つの味をぎゅっとまとめていた。
夕日が海の向こうに沈んでしまうと風はなおさら肌に寒い。アイリッシュコーヒーが体を温めてくれなかったら風邪をひきそうだ。
海の向こうでパッと赤い光が弾けた。
「始まりましたね、花火大会」
荘介の言葉で顔を上げた久美は波際ぎりぎりの高さに上がる花火を不思議な気持ちで眺めた。
「海の中から打ちあがってきたみたい」
ぽつりとつぶやいた言葉は海風にさらわれて荘介の耳には届かなかったようだ。荘介は静かにコーヒーをすすっている。
花火は海の底から湧いてきて波に浮かぶように花開く。赤青黄いろ、紫、緑、いろとりどりに華やかに、踊るように花火は揺れた。
「まるで音楽みたいですね」
花火に見入っている久美の言葉に荘介は頷き返す。
「『音楽と花火のマリアージュ』会場では音楽に合わせて花火が上がっているそうだよ」
「そうなんですか。もったいないな……」
「もったいないって、なにが?」
「波の音と花火、すごく似合うのにって思って」
波は穏やかにざ、ざ、ざ、と砂浜に打ちあがり、ざ、ざ、ざ、と海へ落ちていく。まるで花火が打ちあがり、散り落ちる時のように。
「久美さんは、海と山、どちらが好きですか?」
「海と山ですか? うーん、どっちだろ。でも、なんでですか?」
「日本人は海好きか山好きかで二つに分けられるそうです。海が好きな人は外へ出て行きたがり、山が好きな人は自分を深く探求したがるとか」
「私は、この町が好きです」
「町ですか?」
「はい。海も山もあるこの町が好きです。どっちもあるって贅沢ですよね。どっちも好きだって言ったら、欲張りですか?」
荘介は遠く海の向こうの花火を見つめた。
「僕もこの町が好きですよ。ここには大切なものがたくさんありますから」
「大切なものって『お気に召すまま』ですか?」
「もちろん、それもあります」
「他には?」
久美が荘介を見上げても、荘介は海の向こうの花火を見つめるだけだ。久美も同じ花火を見つめる。花火は海に映ってゆらゆら揺れる。
「僕は今のこの時が、久美さんと花火を一緒に見ることが出来るこの場所が好きですよ」
そう言ってコップに残っていたコーヒーを飲みほした。久美も飲み終えてしまう。花火はだんだん勢いよく上がりだしてクライマックスを向かえていた。聞こえないはずの音楽が波の音の合間から聞こえるような気がした。
それは鼓動のように力強く、恋心のようにひそやかだった。
ひときわ激しい花火の連射のあと、一発の花火が高く高く空に上がり、大輪に咲いた。
光の残像が去ると、砂浜には静寂と暗闇が戻ってきた。
久美は忘れていた寒さに肩を抱いた。
「冷えましたね。どこか暖かいところに行きましょう」
暗さに目が慣れずおぼつかない足取りの久美に、荘介が手を差し出す。久美はちょっとためらってから、そっとその手を取った。
暖かくて大きな手に包まれて、久美はなお一層この町が好きになった。荘介がいるこの町が、好きだと思った。