二月一日
二月一日
ピンポンピンポンピンポン!
けたたましい警告音と共に改札が閉じた。定期券の期限が昨日までで切れていた
のを忘れていた美琴は、制止板にしたたか腿をぶつけた。後ろについて歩いていた人たちの冷たい視線を浴びてうつむいた。列から離れると視線は美琴から離れて途切れ、美琴は都会的な無関心にホッとした。
ICカードになけなしの千円をチャージして「あうー」とうなる。今日の昼食代がなくなってしまった。寝坊して朝食も食べていない。昼食代は毎週定額と硬くちかっている。赤字はゆるされない。金曜日まで昼抜きだ。散々な思いで二月が始まっちゃったと美琴はため息をついた。
二月は憂鬱だ。美琴の勤務先では、女子社員がお金を出しあい、男性社員にチョコレートをプレゼントする風習があった。若い女子社員はぶーぶー文句を言うが、先輩たちは三月にやってくる豪華なお返しを楽しみにしていて、この風習は続けられている。
「プレゼントする相手がいないおばさんはいいだろうけど、私達は出費がかさんでしかたないわよね」
昼休み、ぶーぶー言い続ける伊藤が「ねえ?」と美琴に同意を求める。美琴は曖昧な笑顔を返して、手にしたマグカップに視線を落とした。美琴にはバレンタインに出費がかさむ原因になるような相手はいない。幼い頃から一人を愛してきた美琴は友達や恋人というものがこの世に存在する意味が分からない。子孫繁栄のためなら見合いでもすればいいし、友達などいなくても子供は育つ。現に美琴はそうやって生きてきたのだから。
職場でだって一人でいたいのに、群れがないとダメらしい伊藤は、唯一同年代の美琴を離してはくれない。美琴が迷惑に思っていることは理解しているのに丸無視だ。
今日も美琴が、お昼をお茶だけですませることについて、何も言わない。干渉されないと言えば言えるのだが、しきりに話しかけられて、いつもうんざりしていた。
結局、昼休みいっぱい伊藤は職場環境について愚痴り、恋人について愚痴り、世の中の平凡すぎることについて愚痴った。美琴は耳のなかが愚痴でウワンウワンと唸っているように感じながら午後の仕事を終えた。
駅で定期を買っているときに、ケータイが着信を知らせるためにランプを点滅させていることに気づいた。母からだ。電話をかけてくるのは母しかいない。そもそも美琴の電話番号を知っているのは母と、職場の人事部のアドレス帳だけだ。
ケータイをぶらさげて静かな場所を求めてうろついたが駅はどこもざわついていた。美琴は諦めて家に帰ってから電話をかけた。
「もしもし、母さん?」
「美琴か」
電話に出たのは父だった。
「父さん? なんで母さんのケータイ持ってるの? 母さんは?」
「お前、今まで何してたんだ」
「何って仕事よ」
「何度も電話かけたんだぞ」
「私の職場はケータイ持ち込み禁止なのよ。それより、母さんは?」
「死んだよ」
「は? 何?」
「死んだよ。二時間前だ」
「何で……連絡してくれないのよ」
「何度も電話かけたんだ」
「ケータイで繋がらなかったら職場に連絡くれればいいじゃない」
「お前の勤め先なんか聞いたことないぞ」
「そんなの、母さんに聞けば……」
そこまで言って美琴は口を閉じた。死んだ母さんに何が聞けるだろう。やっと自分が取り乱していることに気づいた。信じられなかった。美琴にとって、両親は他人のようにしか感じられなかった。薄い膜の向こうにいる現実感のない関係だとしか思えなかった。けれど今ははっきりした手応えをもって、母の、父の存在が美琴の胸に迫ってきた。
父が何か言っているのに、機械的に相づちをうち、何かをメモして家を出た。手が勝手に動いてタクシーを止め、口が勝手に行き先を告げた。いつの間にか母の遺体の前にいて、気がついたら喪服を着て母の葬儀で頭を下げていた。
葬儀はほとんど人も来ず、うら寂しかった。暖房がきいているはずなのに鳥肌がたつほど寒かった。母の棺に詰められたドライアイスの冷気が漏れ出しているように美琴は感じた。
「美琴」
呼ばれて気づいた時には斎場の親族控室で父と二人、火葬場へ向かうための準備をしていた。
「美琴、大丈夫か」
「うん、大丈夫よ」
美琴は眉根を寄せた困ったような表情で、それでも父に笑って見せた。骨になった母は冗談みたいに軽かった。
実家の母の部屋を片づけるのに二日かかった。父では手も足も出ないので、美琴が二日間かかりっきりで片づけた。
「すまんなあ、美琴」
「大丈夫よ」
父が何か言うたびに美琴は「大丈夫」「大丈夫」と答え続けた。そうしていないと父は今にも倒れてしまいそうだった。
職場に戻ったのは五日後だった。同僚は皆お悔やみを言ってくれた。大丈夫か、気を落とさないで、大変だったねえ、美琴はそのたびに困ったような笑顔で頭を下げた。
昼休み、伊藤がいつもの通り弁当箱を抱えて美琴のそばにやってきた。
「大丈夫じゃ……」
「うん、大丈夫よ」
伊藤の言葉をさえぎって言った美琴の顔を伊藤はいぶかしげに見つめた。
「大丈夫じゃない顔してるって言ってるの。泣けば?」
その途端、美琴の目からぼろりと涙がこぼれた。喉が詰まったようで鼻の奥が痛んで鼻水が出てきた。涙より鼻水の方がたくさん出て、ひっきりなしに鼻をかんだ。すぐにポケットティッシュが底をつき、いつの間にか伊藤が持ってきていたトイレットペーパーで鼻をかみ続けた。
落ち着いたころには昼休みが終わりかけていた。腫れてしまった目で伊藤を見上げると、彼女は立ったまま弁当を食べていた。
「あ、大丈夫な顔してる。お昼、食べたら?」
美琴は大きく息を吸うと、机に置いていた焼きそばパンにかじりつき、三口で食べ終えた。伊藤は自分の弁当を食べ終わると、いつものように美琴のことにはかまわず、一言二言、愚痴を言って自分の席に帰っていった。
「伊藤さん」
終業後、帰っていく伊藤の背中を追いかけて美琴が呼びかけると、振り返った伊藤はじっと美琴の目を見つめた。
「えっと……、私の目がどうかした?」
「充血には、これよ」
伊藤はカバンからピンクの目薬を取り出すと、自分の目に目薬をさしてから美琴に渡した。
「デートの前には必ずそれ。じゃあ、また明日」
置いてけぼりにされた美琴はぽかんとして伊藤の背中と手の中の目薬を見比べた。
「伊藤さん!」
大声で呼んでも伊藤は振り返らない。小走りに去っていくのは、恋人との待ち合わせに遅れそうだからだろうか。
美琴はピンクの目薬をさして、ぱちぱちと瞬きをした。腫れて熱かった目にひやりと心地良い。
そういえば、伊藤の名前は何というのだろう。苗字しか知らない。そういえば、彼女は私のことを何と呼んでいただろう。苗字だったろうか、名前だったろうか。そういえば、彼女はいつもお弁当だけど、一人暮らしだろうか、実家だろうか。そういえば……。
疑問はどんどん湧いてきた。今まで無関心だったのが嘘のように、伊藤の人となりを知りたくなった。
明日はこの目薬を返して、名前をたずねよう。そうしてできることならば、友達になってほしい。
美琴は目の前の膜が剥がれ落ちたように世界がクリアになっていることに気づいた。涙がすべてを流し去ったかのようにクリアだった。その目でしっかりと見た世界はきらめいて、今まで知らなかったのがもったいないほどに美しかった。
「母さん」
母さん、今あなたの目を見ることができたなら、その目はどれだけ輝いていたでしょう。どれだけ私を思って深く見つめてくれたでしょう。
美琴はカバンからケータイを取り出すと、実家に電話をかけた。
『もしもし』
「もしもし、父さん。今日、そっちに行ってもいいかな」
『何言ってるんだ。お前の家だろう。いつでも好きに帰ってきなさい』
「うん。じゃあ、今から帰ります」
『気をつけてな』
「うん」
電話を切って思い切り両手を広げて伸びをする。吐き出した空気は白く空に上っていく。美琴は子供のようにカバンを振り回しながら鼻歌を歌って、新しいような懐かしいような家へ向かって歩いて行った。