第二十話 「狼煙神」
今から二百年以上前の日本では、各地で戦乱が起きていた。
男が死に、女が死に、子どもや老人も誰も彼もが殺されていく戦乱の時代には動物愛護の精神などあるはずもなく、とある村で飼われていた一匹の子犬は流れ矢に当たって容易く死んだ。
犬だけでなく、その村人は大半が斬られ 射られ 焼かれて死んでいった。
戦乱で死んでいった村人たちは、世の中を呪った。
生きていくこともままならない時代と、助けてくれなかった神を呪った。
その呪いは戦火の煙に溶け込んでいき、そしてその呪いは小さな子犬の魂と混ざり合っていった。
やがて、戦場で燻っていた煙が一塊になると、それは大きな犬のような姿になった。
妖怪 狼煙神の誕生である。
狼煙神は、あたりの戦場に駆け込んでは敵味方無く人間を襲い、武者であれ足軽であれ戦場で武器を持つものを片っ端から殺して回った。
戦国武将たちは狼煙神を恐れ、大枚を叩いて陰陽師を雇った。
彼らは長い時間を掛けて狼煙神を倒すことに成功したが、完全に対峙することはできず、深い山の奥にある祠に狼煙神は鎮められた。
空から何度も日が昇っては沈みを繰り返し、やがて日本は一人の大名によって統一されることとなり、戦乱の時代は幕を閉じた。
だが、それでも何処かで謀反は起き、一揆を起こす者もおり、争いが絶えることだけは決してなかった。
故に狼煙神も、戦乱への憎しみを忘れることはなかった。
二百年の長きに渡って封印されても、狼煙神だけは自分が人間の勝手な都合で殺されたことを忘れていなかった。
世界を呪って死んだ人間達の思いは消えていなかった。
狼煙神はいつの日か封印を解かれ、戦火をまき散らす人間達を殺す時を虎視眈々と待ち続けていた。
やがて、その時は来た。
「鬼退治に行くんだが、手が足りないんだ。そんなに暇そうなら、付いて来てくれないか?」
一人の少年が、祠の中に封印されていた狼煙神に向かって そんなことを言ったのだ。
ああ、またしても戦火をまき散らそうとする人間が現れた。
このような連中は絶たねばならぬ。間引いて絶やして滅ぼさねばならぬ。そうすれば、いつの日か全ての戦場が滅びるはずだ。
そう思ったから、狼煙神は答えた。
「ああ、良いだろう。お前の力になってやろう。だから此処から出せ」
「ほいほーい」
少年は、狼煙神を封印するためのお札をアッサリと剥がし、祠の封印を解いた。
その瞬間、狼煙神は祠を突き破って少年に襲い掛かり、大口を開けて彼をかみ殺そうとした。
「グルァアアアアア!!」
「うわ、あぶね」
だが少年は上半身を大きく仰け反らせることで、容易く狼煙神の攻撃を避けると、上半身を大きく後ろに反らしたまま右アッパーを放ち、狼煙神の顎を跳ね上げた。
「ッ!?」
確実に不意を突いたはずの攻撃を避けられ、あまつさえカウンターまで返されたことに狼煙神は驚きを隠せなかった。
陰陽師達は術を使って自分を封印したが、もし正面から戦っていれば間違いなく自分の方が強かった、狼煙神はそう思っていた。
そのため、彼は姑息な手段を使われなければ 自分よりも強い人間など居ないと思っていた。
だが、この少年は強かった。
「貴様……。強いな、ガキだと思って油断した。だが、もう やられはせんぞ!!」
「えー? 何をキレてんの、お前? 味方になってくれるんじゃなかったの?」
「黙れ! 貴様のような人間がいるから戦火が消えぬのだ!!」
「うん? 何の話?」
「問答無用!!」
「いや、マジで聞いてよ 人の話を!! なんでこんなことになるかなあ!!」
狼煙神は少年を殺そうと襲い掛かり、当然のことながら少年は自らの身を守るために戦った。
その争いは三日三晩続き、彼らが山の中を駆け回りながら戦ったことで、木々は倒され 岩が砕け、そして最後はクレーターのような大穴が山頂に空くこととなった。
その穴の底で、狼煙神は倒れ込んでいた。
「最後の一発……。やはり、お前はただの人間ではなかったようだな。だが、そんなことは最早 関係ない。私の負けだ。殺せ」
狼煙神は傷つき、弱り切った様子で少年にそう言った。
だが、肝心の少年はというと。
「いや殺さねえよ。そもそも仲間にしようって話だったじゃん、某は」
少年は左腕が折れているのか 力なくぶら下がっており、それ以外にも全身のあちこちが血まみれだが、それでも彼は狼煙神を殺そうとはしなかった。
穴の淵に立っていた少年は 狼煙神に歩み寄ると、その大きな体躯に身を任せるようにして身体を投げた。
「あー、モフモフやんか お前。何か煙っぽい身体してるけど、体毛は気持ちいいなあ」
「な、何をしている!! 私を侮辱する気か!!」
「別にそんなことはないけど。マジちゃんと話してよ。お前、何をそんなに怒ってんの?」
「……狼煙神は戦争に巻き込まれて死んだ犬の魂と、世界を呪って死んだ人間の魂が混ざり合って生まれる妖怪だ。だから戦乱という戦乱を憎み、争いを起こすものを根絶やしにするのだ。貴様は争いを起こす、ならば殺す。それだけだ! だが、……私はもう負けた。貴様の好きにしろ」
狼煙神の言葉を受け、少年はしばし考え込んでいたが、やがて思い当たったように膝を打った。
「ああ、そうか。お前、某の鬼退治ってのを何か勘違いしてないか?」
「勘違い、だと?」
「ああ、別に某は争わずに済むならそれで良いと思って生きてる。たまに、こうやって戦うこともあるけどさ。でも 人は殺したくないし お前みたいな会話ができる妖怪を殺すのも、寝覚めが悪い。鬼と和解できれば、それに越したことはないさ」
「嘘を吐くな!! 人間は争いを起こすものだ!! 和解などするものか!!」
「うーん。……なあ。嘘を吐いてるのは、お前じゃないのか?」
「……何?」
少年は狼煙神の頭をやさしく撫でた。怪訝な顔をしていた狼煙神は、少年の行動に目を丸くした。少年の手つきは優しく、狼煙神の目に宿っていた剣呑な光が、僅かに穏やかなものになる。
「狼煙神、お前はさ。人間を殺したいんじゃなくて、人間に大事にしてほしかったんじゃないのか? 頭を撫でてもらったり、抱っこして貰ったり、いい子いい子して欲しかったんじゃねえの? ちなみに某は年上のお姉さんに甘えられたい派なんだけどさ」
「いや、お前の性癖は知らんが」
唐突な少年の性癖の暴露に戸惑う狼煙神。
だが、そんな狼煙神の様子を少年は笑った。
「ハッハー、そうだな。で、お前は甘えたい方か? 甘えられたい方か? どっちだ?」
少年は右手を狼煙神の顎の方に回し、喉の辺りを撫でまわす。
優しい手つきに、狼煙神もついつい目を細め、その表情の変化に気付いた少年は満足げに笑う。
「ああ、お前は甘えたい派か。いいぞ、なら甘えればいい。某も疲れたらお前のモフモフに甘えさせてもらうわ」
「な! 私は、人間になど甘えん!」
「もういいだろ。肩ひじ張らなくて。お前だって……幸せになって良いはずだろう?」
「幸せ……?」
「ああ、そうだよ。お前はもう、苦しいことをしなくていい。幸せになって、良いんだよ」
少年の言葉は、狼煙神の中へストンと落ちた。
ずっと苦しんでいた狼煙神の心の中の煙を、桃太郎の言葉は晴らした。
「そうか、幸せになりたいだけだったんだな、私は。……いいや、『ボクは』ですかなー」
少年は狼煙神の身体が、煙のように溶けていくことに気が付くと 狼煙神から一歩離れた。煙は風に流されていき、やがてすべての煙が晴れた。
そこに居たのは、一匹の子犬だった。
「クーン」
可愛らしい鳴き声を上げる子犬を、少年は優しく撫でた。
「よう、某は桃から生まれた桃太郎。お前の名前は何だい?」
「……」
「そうか、名前はないか。なら、某が付けるよ。……白くて綺麗な毛並みだ。まるで白い宝石だな。……じゃあ、お前は瑚白だ。よろしくな瑚白」
瑚白を胸に抱きかかえ、桃太郎は彼の身体に顔をやさしく埋めた。
すると瑚白は、桃太郎の額にキスをするように鼻先をくっつけた。




