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誰に貶められようとも私は私だけのもの  作者: 黒川恵
第一章 虜囚か、それとも恭順か
2/3

《一》




 金属同士がこすれ合うかすかな音が、八重やえの意識をゆっくりと引き上げてゆく。




(薬品の、匂い──?)


 ちいさく鼻を鳴らして見上げた天井の白さに、この世界の月を連想させられた八重は、思わず息を詰めた。


(……もう、これって、一種のトラウマと言ってもいいよね)


 胸中でぼやきながら深く嘆息すると、八重は寝転んだまま、周囲を見渡した。


(それより、ここって多分、保健室──じゃなくて、医務室っぽい感じ……?)


 最初に視認した無機質な天井だけでなく、自身が横になっているベットや、四方しほうを囲むレールにくくり付けられたカーテンの白さ。

 そして、この場所を特定させる何よりも顕著な香りは、己の唇にも治療の名残りとして苦い味を落としている。

 薄い毛布を抱き込んだシーツを少し持ち上げて己の姿を確認した八重は、見慣れた制服──襟刳りがスクエア型に開いた濃紺のジャンパースカートに、ほっと息をついた。

 ただ、臙脂えんじ色のネクタイと長袖の開襟シャツのカフスボタンが外されていたことよりも、胸元のボタンがふたつ外されていたばかりか、膝上まである黒色の靴下を脱がされていることに、若干の動揺を覚えたのはご愛嬌だろうか。

 焦らずに考えてみれば、身体を締め付けることなく休めれるようにと配慮されたことは明らかであり、理に適っている。

 何よりも身柄を拘束されていないことからして、己が保護されていることに安堵した。


 ──だが、哀しいかな。


 これまで培ってきた己の常識や価値観に照らし合わせてみても、何ひとつとして違和感のない空間と状況だと言うのに、ここが己のいた世界ではないことを理解できてしまうのだ。


「──ふっ、」


 やけに肝がわった己の心情に、思わず笑い声が漏れ出てしまう。


(……そうか。わたしって、薄情だったんだ)


 上半身を小刻みに震わせながら咽喉を鳴らす八重の目頭に涙が浮かぶ。


(お母さん、お父さん……)


 家族を思い出したのが今、この瞬間だったなんて、あまりにも酷過ぎる。


「ご、……めんな、さい……ごめんなさい……っ」


 己がいた世界との絆を完全に断ち切られていることを実感した八重は、押し寄せる郷愁と罪悪感に、シーツの中で膝を抱え込むように身体を縮み込ませて嗚咽を漏らした。


「──貴女あなたは、ゆるしをうような罪を犯したのですか?」

「……っ!」


 免罪符のひとつのように繰り返す謝罪に割り込んできた若い男の声に、八重は息を飲んだ。


 ──近くに人がいるとは思わなかった。


 否、目覚めを誘った音は、確かに人が作業していることを示してはいたけれど、この異世界で、まさか言葉が通じるとは思ってもみなかったのだ。


「誰、ですか──?」


 上半身を起こし、右腕で支えた八重は、かすかに影を映すカーテンの向こう側にいる男に向かって声を掛ける。

 とっさに選んだ語尾はこの世界の人間に対する保身からだ。……それでも、警戒心露わに口調を尖らせてしまったように、完全に自制することは叶わなかった。

 早い動悸を抑え込もうとして、制服の胸元を掴んだ左手は震えている。


「私は、グリンディルク・ガルト帝国空軍が第十三師兵艦隊、ラキアス艦所属の軍医です」

「えっ、グ、グリ……帝、国、十三、ラキアス、艦……軍医? ──お医者様?」


 簡潔に告げられた身分に理解が追いつかない八重を余所よそに、男は一言、「失礼」と声を掛けると、互いを隔てるカーテンを一気に引いた。


「……っ!」


 小気味良い音を立てて開かれたカーテンから現れたのは、医者と名乗りがあった通り、白衣を羽織った黒髪の男だった。

 しかし、医者は医者でも、軍医と理解できたのは、男が身に纏う白衣の下の黒い衣服が、まるで第二次世界大戦中のナチスドイツ軍が着用した制服を髣髴ほうふつとさせる作りをしていたからだ。

 ポケットが付いたブレザーの左右の襟に、それぞれ異なった柄のカフタイトルが縫い付けられているところや、模様が浮かぶ赤色の丸い印章が中心に留まった黒いネクタイが良く映える白いシンプルな開襟シャツひとつ見ても、機能美に溢れた隙のない装いをしていた。

 だが、男の目を見た八重は、再び息を飲むことになる。


「不毛の土地とも呼ばれるレクセールの地でひとり、行き倒れていた貴女を保護しましたが、貴女が真実、罪人であるならば、私は軍人としての責務に乗っ取り、貴女を捕縛せねばなりません」


 淡々とした声色と口調で宣告した男は、濁りのない鮮血が滴るような色をした目をすがめ、口を中途半端に開けたまま固まる八重を見下ろしていた。


「……黙秘をするにしても、年頃の娘さんが口を開けたまま、男を見上げるものではありません」

「──っ!」


 まるで不快なものを見たと言わんばかりの男の眼差しと忠告に、我に返った八重の顔が羞恥に染まる。

 「以後、気を付けない」と、指摘された口を手で塞ぎ、慌てて顔を伏せる八重に降り注ぐ男の嗜める声色は、小憎たらしいほどに平坦だった。


(──っ、悔しい……っ)


 この世界にやって来て初めて抱く絶望や哀しみ以外の強い感情が、全身にみなぎってゆくのがわかる。

 シーツを握る両の手が小刻みに震えるのは、羞恥心と言った可愛らしいものではない。


 これは、この感情は──、


「では、もう一度貴女に問いましょう。貴女が犯した罪状を──」


 眼光を鋭くさせたまま、抑揚のない口調で詰問を繰り返す男に対して、八重の感情が爆発する。


「──ふ……っ!」


(ああ、そうだ……っ)


 ──この激情はまさに、怒りの感情だ!


 ぎちりと唇の端を噛み締めながら面を上げた八重は、僅かに目を見開く男を睨み付けた。


「この世界の人間に裁かれるような罪なんか犯していないわっ。ましてや、今わたしが抱える罪の意識を裁くいわれや権利もないっ。わたしの罪は未来永劫、己の罪深さを理解しているわたしだけものよ!」


 ここが己のいた世界ではないことは理解している。

 だが、この世界を受け容れられるかと問われれば否と断言しよう。

 元の世界──肉親や友人といった、己という人間を形成してくれたかけがいのない絆を断ち切られ、異界にひとり放り出されたのだ。

 これは完全なる孤立だ。

 ……しかし、だからと言って、この世界にすがり付こうとは思わない。否、縋りたくもない。

 断絶した世界に対して余りある愛着や義理だけが今、八重を支えてくれているからだ。


かえしてっ、わたしを元の世界に還してよっ」


 そんなことは無理だと、どこか醒めた思考がすぐに己の言葉を否定する。

 しかし、わかってはいても声高に主張したかった。

 この行き場のない想いを、今この場で吐露したかった。


(……わかっている。これは甘えだ)


 目の前の医者が八重をこの世界に引きり込んだわけではない。完全なる八つ当たりだと、十分に理解している。

 だが、この高ぶりをぶつける相手が己の感情を逆撫でしてくれた──この世界で始めて対峙する人間だからこそ、なり振り構わず当り散らさずにはいられなかったのだ。


「帝国なんて知らないっ、ラキアスかんも知らないっ、月があんなに大きい筈がないものっ、あんな形の飛行船、わたしの世界にはない……っ」


 息継ぎも惜しく叫び続けた為に声が裏返り、咳き込みだした八重はそれでも言葉を続けた。


「──だから、かえして……・っ、こんなところにいたくないっ」


 ──不安だった。この世界でひとりだと意識するだけで怖かった。


 元の世界でどれほど手厚く庇護されていたか、まざまざと自覚させられた途端、込み上げてきたのはただひたすらに自己保身だった。

 その根底にあるのが、恐怖と焦燥感に押し潰されそうになっているからだとしても、あまりにも自己中心的な願いだった。


 ──それは確かに、甘えなのだろう。


 けれど、義務教育を終えたと言っても、まだ社会に出てもいない小娘に自活する能力など有りはしない。

 ましてや縁の縁もない──常識すらわからないこの異界でひとり、どうやって生きていけば良いのかもわからないのだ。


 ──醜態を晒している自覚はある。それを嫌悪し、恥じる理性もある。


 初めてこの世界と対峙した際、自我を手放すこともできたのだ。……そうした選択肢があったことは事実だ。

 けれど、自尊心が逃避それを拒んでしまった。

 生まれて初めて意識することになった己の矜持きょうじの高さに、戸惑いと呆れがある。

 しかし薄情者の自覚はあれども、唯一己に残されたものをおとしめてまで庇護を乞うような恥知らずに堕ちたくはなかった。

 ましてや正気を失えば、己の身をこの世界に──この世界の住人にゆだねなければならないのだ。

 その可能性に、心の底からぞっとした。

 この世界に付随ふずいする何者にも縋りたくない。甘えたくもない。……けれど、まだ己は一六歳なのだ。

 そうせざるを得ない自身の軟弱さが──この世界を心から拒絶することができないことが酷く憎かった。


 ……わかっている。この世界に己が安心できるものが何ひとつもないことに変わりはないことに。

 それでも──、


「ひとりはいや……っ」


 これほど心細い想いは初めてなのだ。

 この世界に対する反発心と不快感とて、突き詰めてみれば同じこと。


 ──甘えているのだ。


 現状に足掻あがく前から諦めて、いかにも被害者振って駄々をねているだけなのだ。……それがいかに幼稚なことか。

 思春期特有の自己憐憫を否定することはできないけれども、ある程度は物事の分別がつく年齢が酷くわずらわしかった。否、慟哭の最中でさえ、こうして冷静に己を分析してしまえるところがやはり過ぎた自尊心ゆえなのか、またはそれこそが情の薄さに繋がっているからなのか、……そのどちらともなのか。

 すべてを吐き出し終えた八重は、呆けたように医者の男を見上げるしかなかった。


「吐き出しておきたいことはもうありませんか?」


 頬を濡らす涙もそのままに放心する八重に、それまで表情すら動かしもしなかった男が声を掛けてきた。


「──は?」


 何を言われたのか、一瞬わからなかった。否、表情と同じく抑揚のない声音だったからこそ、やけにしっかりと聞き取れてはいた。

 ただ、言われた意味がわからなかったのだ。


「っ!」


 けれど気付いてしまった。否、気付かされてしまった。


 己が、目の前の男にまんまと乗せられたことに──。


 しかし、怒りと羞恥に顔を赤らめた八重は、男の次の言葉に酷く動揺させられることになる。


「貴女が身に着けられている衣服や保護された際に回収された所持品、もとより発見された場所などからかがみみて、一般人ではなく他国の諜報員ではないかと危惧されていました。しかし、医者として貴女の身体を確かめさせてもらったところ、特殊な訓練──またそれ以上に、労働すら行ったことのない様子からその疑いは既に晴れています。……ましてや、目覚めてすぐにこらえるように泣き出した貴女を、医者として見過ごすわけにはいきませんでした」


 心に負った傷を少しでも軽減させるには一度、想いの丈をすべて吐き出させるしかなかったと、まさに患者を診る医者そのもの眼差しに、強張っていた身体の力が抜けてゆく。

 無論、てのひらの上で転がされたことに対する怒りと羞恥、……特に意識のない状態で行われていた処置に対しての羞恥心は度し難く、けれど下手をしたらスパイとして罰せられていた可能性があったことに対する恐怖と、それを免れたことへの安堵感は計り知れない。


「……わたしは、これからどうなるんですか?」


 零れ落ちた問いは、酷く頼りないものだった。


「帝都に着けば、貴女の身柄は司法の手に委ねられます。……処遇としては、難民扱いになることでしょう。また、帰化きかすることになるだろう貴女には、我が国が布く法に従って頂く義務が生じます。まずは難民の受け入れの際に必ず、その人物が危険な保菌者かどうかの確認が必要となることでしょうか。こうして私と貴女がこの隔離室にいるのもその為です。ただ、貴女を保護したのが我々軍部であることや、保護された状況下から通常の難民申請よりも多くの機関に提出する書類が必要となります。その為、貴女の協力が必要不可欠となることを理解して頂けますか?」


 男の説明は、患者との対話に慣れた医者らしく簡潔で、またわかりやすかった。

 それに元の世界での一般常識と似ていて理解しやすかったのもある。

 納得できたことを知らせる為にひとつ頷いた八重は、はっとする。


「あの、これからの大まかな流れや、隔離されている事実も理解できました。だけど、軍医でいらっしゃる貴方も共に隔離されているとなれば、この飛行船……いえ、軍艦? に、お医者様を必要とされる方たちが困ることになりませんか?」


 八重の言葉が意外だったのか、男は初めて表情を動かした。

 しかし、僅かに目を見張っただけの変化に、八重が気付くことはなかった。


「……いいえ、このラキアス艦には総勢千人近い乗組員がいます。その為、多くの軍医を抱えています。その中でも感染症を主に研究している私に、今回貴女の保護観察官としての任務を与えられました。ですから、貴女が危惧されることにはなりません。安心してください」

「……そう、ですか。ご丁寧にも説明して下さり、ありがとうございました」


 とても理に適った待遇だったことに納得した八重は、ほっと息をついた。

 その姿を見下ろしていた男は、僅かに逡巡しゅんじゅんしつつも、声を掛けてくる。


「貴女は……」


 珍しく言い淀む男に、八重は改めて声の主と視線を合わせた。

 疑問符を浮かべる八重の表情が、まるで柘榴の実のように赤く透明度の高い瞳に映り込む。

 己の世界には決してなかった色彩と向き合うということは、改めてここが異界だという認識を深めることでもある。

 それはとても胸が塞がれる行為ではあったけれども、世界は違えども変わらないものがあることを知れたのだ。


 ──それはほんの数秒のことだった。


「……いえ、失礼しました」


 ゆるかぶりを振ることで医者としての表情を取り戻した男から、僅かに垣間見えていた動揺は綺麗に消えていた。


(何、今の間は……)


 医者である男のおかげでしずまっていた不安感が、まさか同じ人物によって煽られることになろうとは思いもしなかった。

 またそれ以上に、己が既に男を信用していたことに慄然りつぜんとする。否、血の気が引いたと言ったほうが正しい。


(──ここは元の世界とは違う。簡単に人を信用しては駄目だ)


 特に治安の良かった母国と同じ感覚で、自身のことを他人に委ねてしまっては駄目だ。

 海外で仕事をする伯父の怖い土産話や、自身もまた何度か海外旅行を経験していた八重は、己の迂闊うかつさに歯噛みした。


 ──そう、たとえ医者だとしても、まったくの善意だけで難民を診断などしないだろう。


 何かしら診療を行おうとすれば、医療器具の必要性や投薬などの治療費となるものが必ず発生するように、彼等とて無償で働ける訳がないのだ。

 国の法に定められているからこそ、そして国の援助があるからこそ、彼等の診察が受けられるのだ。

 ましてや相手は、軍隊に所属しているのだ。

 国益こそ深く追求はしても、不利益ともなれば一転、いかにして被害の拡散を減らすか、できるだけの対策が採られているだろうことは想像に難くない。

 また、世界史に名を残す帝国と冠付いた数多の国に共通して、武力──強固な軍事力でもって他国を侵略していた事実がある。

 ならばこの世界の帝国とて、八重がその目で見た巨大な戦艦たちを思い出せば、それは酷く血生臭いものに感じられた。


(だったら、この人の言葉や態度に可笑おかしかったところはない? 何か、見落としているはず。何か──)


「どうかされましたか?」


 必死に記憶をさかのぼる八重の青白い顔に気付いたのか、男は残り少ない距離を詰めると、その長身を屈めて八重の顔を覗き込んできた。


「起き抜けに興奮したこともあり、気が緩んだ今、気分が悪くでもなったのですか?」


 医者として何ら可笑しくない行動だった。ある一点を除いては──。


(……そうだ。マスクだ。……感染症を専門としている医者が、二次感染を防ぐ対策をしていないなんて──)


 それに、ここは隔離室だと言っていた。……確かに、ここは医務室のひとつなのだろう。

 染み付いた薬品の匂いがその認識を強めてくれる。

 だが、保菌の疑いを掛けられた患者が籠もるような設備を見ることができない。

 世界が違うからもしれないが、こうゆうのはもっと無菌を保つ為に何らかの対策が取られているのではないのだろうか?


(まだ、まだ何かあったはず……)


「失礼」


 顎に手を置かれたかと思うと仰向けにされ、下目蓋を押し下げられる。己が診察されていることに、八重は思考の海に浸かりながらもぼんやりと認識することはできた。

 目蓋を下げられて乾いた目が、水膜を取り戻そうと瞬きを繰り返す。

 その些細な動作に触発されたかのように、脳裏で閃くものがあった。


(……ああ、そうだ。……保護監察官と言っていたんだ)


 それも、任務だと言っていた。

 これも元の世界の常識でしか推し図ることはできないが、保護観察官と聞いてまず思い付くとしたら、軽犯罪者に設けられる保護観察期間に再び罪を犯せば実刑に処せられる──特に未成年者たちの日常を定期的に監視する人たちのことだろうか。

 数多あまたの情報が溢れるニュース番組で以前、そういった職業につく人たちの特集を横目で見ていただけであまり詳しく覚えてはいないけれども、このふたつの単語が続けばその意味合いは明らかだ。


(監視されているんだ、わたしは……)


 次々に探し当てた違和感の正体に、八重は息を飲む。

 勿論、男の説明にもあった難民申請云々とて嘘ではないのだろう。

 まだこの目に触れてはいないけれども、対峙した医者の男のように意思疎通のできる人間たちが作る社会概念と、元の世界の概念それとそう大した違いがあるとは到底思えなかったからだ。


(だけど、わたしを監視する意味は何?)


 海外の危険区域で勤務をしている伯父の手解きで必要最低限の護身術を修めてはいるものの、別段これといった特技や専門的な知識もない、ごく普通の高校生だ。


 ──それなのに、国の攻防の要である軍部に危険視されるような何かが己にあるのだろうか?


 左利きなのか、随分と目針の細かな時計を付けた右手で八重の手首を支え、脈を測る男の横顔を見つめながら、己の存在価値を探る。


「目蓋の裏が白く顔色も青い。また、手指の震えがとまらないだけでなく、脈拍も速い。……貧血の症状です。吐き気はありますか?」


 診断結果を告げる男の問いに無言で頭を振れば、「では、今しばらく安静にしていたほうが良いでしょう」と、男は八重の身体をベットに横たわせた。


「それに、鉄剤を含んだほうが治りも早いでしょう。用意しますので、少し待っていてください」


 八重の足元の近くでたわんでいた薄い上掛けを引き上げながら、男はそう告げると、開かれたカーテンから覗く薬品がずらりと並ぶ戸棚へと歩いてゆく。

 その背中をじっと見つめていた八重は、男に気付かれないようにそっと息を吐き出した。

 それはなんとも息苦しい、不安ばかりを掻き立てる嘆息だった。


(馬鹿だ、私は。……保護されたことに安心しきっていた。ここは元の世界とは違う。ここには、これまでわたしを守ってくれていた両親や法律もない。自分の身は自分で守らないといけない世界に、わたしはいるんだ……)


 これまで幾度となく、ここが異なる世界だと認識してきたつもりだった。

 しかし、改めて実感してしまえば、それがどれだけ浅い認識だったか気付いてしまう。


(……怖い。いやだ、どうしょう、怖くてたまらない……っ)


 上掛けに潜るようにして枕から頭を下ろした八重は、再び胎児のように身体を丸めた。


「鉄剤を持ってきました。飲めますか?」


 頭上から男の声がするが、まったく動く気にはなれない八重は、返事をすることさえ拒絶した。

 相手の男がいくら医者だとしても、己を監視している軍人であることには変わりはないのだ。

 それに、鉄剤と言ってはいるけれども、もしかしたら違うのかもしれない。

 疑心暗鬼に囚われた今は、何もかもが疑わしく感じてしまう。

 つと、男が嘆息をつく気配を感じた。


「薬と水はこちらに置いておきます。体調が少しでも良くなりましたら飲んでおいてください」


 ベット脇のちいさなチェストの上にコップが置かれた音がする。続いて、そのまま踵を返した男がカーテンを戻す音が聞こえた。


「では、次に目覚められましたら、調書作成の為、ご協力を願います」 


 最後に告げられた言葉に含まれる意図。

 決して否とは呼ばせない強制力を秘めた言葉が、八重の不安と恐怖心を煽ってゆく。


 ──いつの間にか見知らぬ世界に囲い込まれている現実。


(……でも、逃げられない)


 否、逃げ方を知らないのだ。

 それに、逃亡した先での身の振り方もわからない。

 ラキアスここから上手く逃げ出せたとしても、今以上に事態が悪い方向に傾く可能性がとても高いことだけは、容易に想像できてしまう。


 ──この世界の常識を知らない為に、自身で己の首を絞めかねない。


 男は調書を作成すると言った。

 こちらが何者なのか、詳しく追求してくるのは必至。

 ならば、八重がすべきことはひとつだ。


 虜囚か、それとも恭順か──。


 突き付けられる審判が下るのもそう遠くはないだろう。


(怖い)


 肩を大きく隆起させて零れ落ちた吐息が、折り曲げた膝の上で握り締めていた手を温める。

 けれど、身体の芯は酷くこごえていた。

 薄い上掛けに遮られた狭い闇の中で、目を硬く瞑り、唇の端を噛んで耐えるしか他なかった。


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