異なる世界
「──っ、はぁ……っ」
突然襲ってきた激痛に、八重は膝から崩れ落ちる。
まるで煮えたぎった湯が身体中の血管や臓腑に注ぎ込まれているかのような感覚だった。
(なに、これ──?)
いままでに経験したことのない責め苦に喘ぎながら、秒単位に擦り切れ、散り散りに消えかけてゆく理性をどうにか掻き集めて思考する。
(……なにが起きたの──?)
どれほど記憶を辿ってみても、欲しい答えが見出せない。
それでも現在進行形で身体を苛む激痛に眩む目と、酸素を求めて繰り返す呼吸だけは確かだった。
(ここはどこ?)
痛みを堪える為、細い身体を丸めるようにして蹲った八重は、涙で霞む目を精一杯見開き、指先が白くなるほど爪立てる砂色の地表を睨み付けた。
(ここは、……どこなの?)
ところどころ背の低い緑の葉が生えてはいるものの、地表を抉り掴む指先に湿り気は感じない。
肌に触れる大気もまた、どこか荒涼とした余所余所しさに溢れている。
ようやく治まってきた身体の不調に反して、研ぎ澄まされてゆく感覚が告げる己を取り巻く周囲の違和感に、今にも発狂しそうになる。
──だって、自分は歩いていた。
市街地を歩いていた。否、正確には下校途中だった。
公道を走る自動車が吐き出す排気の音と匂いに満ちた、雑踏ひしめくアスファルトの歩道をひとり、歩いていた筈なのだ。
現に、目の端でちらつく制服と学生鞄が、八重の認識を後押ししてくれている。
──では、いまだに顔が上げられないでいるのは何故か?
(こんな、こんな……)
舗装もされていない、乾いた大地。
肌だけでなく、肺にまで刺し込むような大気。
聞こえくるのは風切り音だけだなんて、そんなこと、有り得るのだろうか?
(……ねぇ、嘘、でしょう──?)
膨れ上がりせめぎ合う懐疑心から、噛み締めていた唇が切れる。
皮肉にも、口内の粘膜に染み込む鉄の味がより現実感を伴い、白々しい自問を嘲笑う。
「あっ、……はぁっ!」
堪えきれずに吐き出したのは、血の混じった唾液と高らかな嘲笑だった。
けれど、咽喉を裂かんばかりに張り上げ、時折くぐもった声を漏らしながら笑い続ける八重が身体を反転させた瞬間、視界に飛び込んできたモノ──薄く靄が掛かった青空に浮かぶ白い月の大きさに、目を見張らずにはいられなかった。
──慣れ親しんだ環境とは程遠い世界が、八重を睥睨していた。
「──ふっ、ううう……っ」
歯を喰いしばり、強く握り締めた拳の甲で塞いだ唇から漏れ出る嗚咽は、八重の心を確実に手折ってゆく。
また、涙で滲む視界の片隅に映る黒い染みのような斑点も、鈍く籠もるような耳鳴り音と共に大きくなってゆく。
否、近付いてくる──?
ひくりと、咽喉の奥が痙攣した。
(……待って。この音、もしかしたら──)
機械が動く音──エンジン音ではないだろうか?
ようやく巡り合えた僅かな縁に、挫け掛けていた心が力を持つ。
慌てて掌で涙を拭い、目を凝らした。
しかし、事態はそう簡単に好転してはくれない。
「あはっ、ははぁ、は、は……」
中途半端に開いた唇から気力の欠片すらも感じられない乾いた笑い声が零れ落ちてゆく。
どこか上滑りに聞こえる笑い声だが、止められようもなかった。否、止めたくなかった。
再び涙で霞む視界の多くを占領したのは、生まれて初めて見る形状の飛行機──。
世界一周をする豪華客船のようでいて、報道番組で見掛ける空母のような造型機だった。
それも一機ではなく、複数が隊列を組むかのように固まっていることが、こちらへと近付くにつれてはっきりと視認できた。
また、その姿形が幻ではない証拠に、艦隊の移動と共に大気も流動するのか、押し潰されそうな風圧を継続的に浴びることになった八重は、巻き上がる砂埃に腕を翳して息を詰め、目を眇めて耐えるほかなかった。
「……なに、あれ──」
わかっていたことだが、幾つモノの飛行機──飛行戦艦の腹部を見送りながら呟いた八重の声は、地響きまで引き起こす騒音に掻き消されてしまう。
ひとり放り出された場所で見上げた青空に浮かぶのは、現実として有り得ないほどの距離感にいる白い月と、見慣れぬ形をした飛行物体の一群──。
まるでCGを駆使した臨場感たっぷりのハリウッド映画を見ているようだと、唖然とした思考の片隅で妙に醒めた感想を抱きながら、不思議とこれが夢だとは思わなかった。
否、己を取り巻くすべての違和感を、白昼夢と呼び倣わされる一種の幻覚現象──精神異常の症状だと、一笑に伏せて逃避しようとしたけれども、できなかったのだ。
──正直、己がこれほどまでに自尊心が強いとは思わなかった。
薄っすらと浮かび上がる苦笑は、どこか誇らしげであり、哀しげでもあったと思う。
それでも、出口の見えない閉塞感に込み上げてくる熱がある。
「……だ、からっ、……ここっ、はっ、どこ、なのっ……?」
嗚咽に戦慄く唇から零れ出た──自暴自棄にも取れる諦観に突き動かされた呟きは、ここが己のいた世界ではないのだと、したくもない認識を強めるだけだった。
だが、頭は理解できても、身体もそうとは限らない。
胸を塞ぐ絶望を優しく包み込むような泥濘の眠りに襲われた八重の意識は、それが唯一の逃避方法だと本能的に認めた途端、自ら飛び込むように沈み込んでいったのだった。