* 神様の鳥居
「神様の鳥居」
「それじゃあ、また後で。」と約束し、二人と別れたのは三十分も前の事。ランドセルを置いたら直ぐに集合だから遅れるな、と由梨に言われたのにもかかわらず愛子の足取りは重かった。何故こうなったのかと悔いてみたところで、今更どうにかなるものでもない。クラスの皆はくだらないと笑ってはいたが、実は笑い事では済まされないかもしれないのだ。
昔、今は亡き祖父から聞いたことがあった。
村の北東に位置する森には、大昔からそこに住まう妖かしが居るという。一度迷い込んでしまうと、二度と帰っては来れない。
だから、決して近づいてはいけないよ。と、言い聞かされたのは、八年も前のこと。私が四歳の時だ。
この村の人は昔から、そう諭され育ってきた。ある程度の年齢に達すると、危険な場所へと近づかせないための忠告としてその言葉を受け取ることが多いが、中には、興味本意に入り込んで二日間行方不明になったうえ、森の入り口で倒れていた所を発見された、ということが過去にはあったのだ。
村で生まれ育った由梨もそのことは耳にしているはず。だからこそ、この機会に事の真相を確かめてやろうと考えたのだろう。
楽しそうに笑っていた由梨と、面倒そうに振る舞いながらも、内心は楽しみにしているであろう健司に、遅い!と怒られるだろう事は分かりきっている。それでもなお、愛子の歩む速度は遅くなる一方だった。
「遅い!」
待ち合わせ場所に着いた愛子を待ち受けていたのは、予想道理の由梨の怒声と、予想以上に疲れ果てた健司の姿だった。
「やっと来たかぁ…遅かったなぁ…。」
健司は、思わず「死相が出ているよ」と進言したくなる程の顔色をして、疲れた笑顔を向けていた。目も虚ろになっていて、ずぅん…と暗く重い空気を背負ったまま、ぶつぶつと何かを呟いている。
あまりにも温度差の有りすぎる二人の様子に、またか、と思いながらも、またやってしまった、という罪悪感が芽生えた。由梨は、毎回何かある毎に愛子ののんびりとした気性が合わないのか、気に障ることがあると怒り出し、それを受けて愛子が泣き出し、泣き出した愛子を見て、さらに由梨が「泣けば何でも許されると思ってんじゃ無いわよ!」と怒鳴り返すという悪循環が二人の間にはある。どう考えても上手くいきっこない二人の関係がここまで続いているのは、一重に健司がその間に入って努力しているからに違いない。
幼いころから何度も見ていれば、自分に非があるのは分かっているが、どうしても直すことができないのは、由梨の言うとおり、自分が「甘ったれ」だからなのだろう。
何はともあれ、さすがにこれ以上この空気の中にいるのは耐え難い。言い訳をしてみても、結局言い負かされ、怒られるのは目に見えてるので、ここは素直に謝るのが吉だ。
「ごめんね、遅れちゃって…。」
「遅れたと思うなら、走って来るなり誠意を見せたら?」
はい、尤もです。反論する余地すらありません。
愛子は、頭を下げた状態のまま深くうな垂れた。
結局その場はいつものように健司が間を取り持って、それ以上のいざこざには発展することなく、由梨の怒りは鎮火した。
「さ、行くよ。こんな所でちんたらしてたら日が暮れちゃう!」
「だな。」
そう言葉を交わし歩き始めた二人の背を追いながら、愛子はというと、昔あった祖父との会話を思い出していた。
もう何年前のことになるか。随分と前の事のはずなのに、優しくゆっくりと語りかけるようなこの声だけは、いつになっても、決して忘れることは無いだろう。
《森には、お社が在ってね。そこの神様が守って下さってるんだよ。お社の鳥居を潜ってはいけないよ。そこは、こっちとあっちの境目になってるのさ。》
《こっちと、あっち?》
《そう、あっちの世界には、こわーい化け物がたくさん居るんだよ。》
《ばけもの?こわいの?》
《そうさ。だから、何があっても決して赤い鳥居の向こうには行ってはいけないよ。これは、愛ちゃんとおじいちゃんとのお約束。分かったね?》
《うん!わかった、お約束ね。》
優しかったおじいちゃん。
大好きなおじいちゃんとの約束だから、この八年間一度も破る事無く過ごしてきた。
そして今、愛子の目の前にはその鳥居がある。
考え事をしながらであっても、無意識のうちに足はきちんと動いていたらしい。
「ねえ、やっぱりやめようよ。」
「何だよ、怖くなったのか?」
「じゃぁ、一人で帰れば?」
愛子の言葉は、由梨のきつい一言によって、スッパリと切り捨てられた。
「そんなぁ…。」
「あれだろ?神様の鳥居は潜っちゃ駄目なんだっけ?」
「何それ。」
愛子と従姉弟である健司も、昔同じ話を聞いたのか、はたまた愛子が話したのを聞いたのか、うろ覚えではあるが内容を覚えているらしく、由梨に向かって話し始めた。
「じいちゃんの言ってたお話だよ。鳥居の向こうには化け物が居るっていう。」
「また、おじいちゃん?化け物なんて居るわけ無いでしょ。」
毎度毎度愛子の話によく出てくるおじいちゃん話に、由梨はもううんざりしていたようで、眉をひそめ、じぃっと愛子を睨みながら、再び、スッパリと切り捨ててみせた。
さすがの健司もこれには、どうにもできないといった風に乾いた笑いをもらし、愛子は胸元のお守りを握ると、唇を噛んだ。
「でも、ま、そういう事なら、肝試しも兼ねて行ってみましょうか。」
先ほどまでの不機嫌な顔は何処へやら、ニコニコならぬニヤニヤとした笑いを由梨に向けられて、愛子は背中に汗が伝うのを感じた。